第5話 旅(白)

 日の沈んだ浜辺に、一つの人影。


「海を見たことはあるかい?」


 暗闇の中でも目立つほどに白いトレンチコートに身を包んだ黒髪の男は、穏やかな笑みを浮かべ、我が子のように大切に抱くへと静かに話し掛ける。


「記憶にない」


 黒髪の男が立つその浜辺には、男の他に誰もいないはずだが、声変わり前の少年のような声が、男の言葉に返事をした。声はそう、黒髪の男の腕の辺りから聴こえてくる。


「これが海だよ」

「そうか」


 会話はそこで途切れた。

 黒髪の男は苦笑をもらし、暗い海へと意識を向ける。


「この海にはね、椿ツバキさんや花楓カエデと一緒に来たことがあるんだ。椿さんとは花楓が生まれる前の新婚旅行で、花楓とは小学校入学祝いの旅行で。三人で来ることは……結局なかったな」

「小生の世話なり警護なり、忙しかったからな」

「それが僕ら植園ウエソノの──日本に密やかに存在する魔法使いの使命だからね。仕方ない、仕方なかった」


 自身の頭上から聴こえる声に後悔は感じられない。それでも、黒髪の男に抱かれたは、小さく嘆息した。


「これは、植園の当主としての行動か」

「そうさ」


 あまりにも早い返答に、は──肌艶の良い少年の頭部は、何かを言いたそうにしながら、それ以上は何も言わなかった。

 あどけない顔をした豊麗な白髪の生首。下に胴体がくっついていれば、すれ違う人々の頬を緩ませていたかもしれない。

 笑っていればの注釈が必要だが。

 そのあどけなさに反し、見た者の表情を凍らせる冷ややかさを宿した赤い瞳は、暗い夜を見つめるばかり。


「花楓ともこうして海を眺めたんだ。波打ち際で遊ぶことも、砂遊びをすることもなく、時間の許す限りずっと。花楓は僕に似たんだろうね、きっと」


 穏やかに語る黒髪の男の表情に陰りはない。在りし日の娘との思い出を語るだけの父親がそこにいる。生首の位置からはよく見えないが、それでも声で色々と分かることだろう。

 植園 一樹カズキに、妻や娘を捨てた後悔は微塵もないということを。


「……カズキ」

「なんだい、アヴィオール様」

「喉が渇いた」


 もうそんな時間かと黒髪の男は呟くと、腕を振って袖をずらしていき、白い生首に近付けた。生首はすぐさま腕に噛みついて、男の血を啜り始める。

 ──アヴィオール・シェフィールド。

 それが白い生首の、吸血鬼として生まれた時に与えられた名前。その時には胴体があった。生誕と同時に囲われてろくに使えなかった脚と違い、手はどんなことにも使ってきた。食事も読書も遊戯も悦楽も、自身の手で何でも。

 手足が、いや首から下の全てがなくなったのは、ほんの少し前。永遠を生きる囲われの吸血鬼に、正確な時間などは分からない。

 目が覚めた時には、首から下がなくなっていて、膝から崩れ落ちたと思しき黒髪の男が目の前におり、死んだ目で自身を見つめていた。


『──別にいらないでしょう? 胴体なんて』


 胴体の行方は未だに分からない。

 吸血を終えて牙を抜くと、白い生首は再び、黒髪の男の両手に抱き締められる。


「夜は冷える。そろそろ宿に戻ろうか」

「このまま野宿でも構わない。旅と言えば野宿だろう」

「柔らかなベッドで眠りたいんだよ、僕は」


 海に背を向け、黒髪の男は歩きだす。

 男の腕の中で白い生首は、若干物足りなさを覚えながら、それを口に出すことはなく、静かに瞼を閉じた。

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