30話 暗殺者の幸せ



 ララニカは祝福を返し、死ぬことができる人間になった。普通に怪我をして、病に罹り、致命傷を受ければ死ぬ。今ならナイフだろうと毒だろうと、何なら素手であってもノクスは彼女を殺せる。何の苦痛もなく、楽な死を与えることができる。


(……結婚してくれるっていう約束があるから、まだだよね。まだ……殺す時じゃない)


 ナイフの柄を握っては放す。毒の小瓶を取り出してはしまう。ララニカの望みを叶えることが、長年のノクスの望みであったはずなのに、凶器となりえる物に触れると手が震えた。何人も殺してきて、その行為に一度だって忌避感も恐怖も抱いたことなどなかった。しかし今のノクスはどちらの感情も持っている。


(結婚って、どれくらいの期間かな。それなりに長い時間は一緒に居てくれる? でも、ララニカはすぐにでも死にたいって……思ってた、はず)


 ノクスがララニカを殺せるなら結婚する。それが二人の間の約束で、彼女はその約束を違えることはないだろう。しかし――たとえ夫婦として過ごす時が一年、一か月、いや一日であろうと。一度結婚すれば約束は守ったことになる。

 ララニカが寿命で死ぬまで待つ、ということはできないだろう。……だって、それではノクスがララニカを殺したことにならない。


(ララニカは優しいから……すぐには、死なないでいてくれるとは、思う)


 けれどそれがララニカの苦痛になったらどうしよう、と悩んだ。早く死にたいのにノクスに義理立てをし、ノクスが満たされるためだけに夫婦生活を送る。それが彼女の苦痛を引き延ばすだけの行いになるのだとしたら、それはノクスの望まないことであった。


(……結婚はしたいよ。でもそれって、形だけじゃなくて……俺は、そこにララニカの心が欲しい)


 鉄道を走る車両の揺れに身を任せ、窓の外を眺めるララニカをぼんやりと見つめながら思った。子供の頃はただ、彼女から離れたくないだけだった。それはいつからか恋慕へと変わり、それからのノクスが求めていたのは「ララニカから自分と同じ種類の感情を向けられること」になっていた。

 感情が伴わないなら結婚する意味はないと思う。それなら、すぐにでも彼女を殺してやるべきなのかもしれない。


(俺のために泣いてくれたし、俺のことを大事に思ってくれたのは間違いないと思うけど……それは、俺と同じ気持ちだからと決まってる訳じゃない。旅に出てからララニカの距離が近くなったのは……置いて逝かれないですむと、思ったからかも)


 ララニカは不老不死であるが故に、大事な人と死別を繰り返してきた。だから二度と大事な人を作らないようにと人間から距離を取る。それはノクスに対してもそうだったけれど、それでも大事だと思われるようになっていたということは素直に嬉しかった。

 しかし、それ以上に親密になるような行動をとる必要はなかったはずだ。……自分が、死ねないと思ったままならば。それ以上大事に思うことがないよう、距離は保ったままでいるだろう。

 だから彼女は話に聞く果実が本物だと確信し、ノクスが殺してくれると思ったからこそ安心して、壁を取り払っただけではないのだろうか。そんな疑問が浮かび上がる。


(ララニカが俺を好きになってくれたかもしれない、なんて……俺が勘違いしただけ、だったのかもしれない)


 もしかしたらララニカも、自分に好意を持ってくれるようになったのではないか。そう思うことも何度かあったが、それがノクスの勘違いである可能性も否定できなかった。そう思いたいから、そう見えるということもある。

 こういう時、事実を確かめるのがいつも怖くなる。自分の望みと違う答えが返ってくるのが怖くて尋ねられなくなるのはノクスの弱さだ。ただ、他人の感情を知るのが怖いと思うのもララニカ相手の場合のみだが。


(……俺のこと、好きになってくれないかなぁ……)


 二人きりで話したいというのは十中八九、二人の間の約束に関する内容だ。結婚をどうするか、殺すのはいつか。ララニカのノクスへの好意が恋に類するものでなかった場合、ノクスは彼女を殺す覚悟を固めなければならなくなる。それが嫌で、考えたくなくて、結果を先延ばしにするためだけに旅の終点を自分の拠点へと変えた。

 しかしせっかく引き延ばした時間も、そんなことを考えてしまうせいで楽しめない。夫婦として旅をできるのはこれが最後かもしれないのに、それでも楽しむ余裕などなかった。


 気がづけば自分の拠点が目の前にある。ここはララニカと暮らした森を出て、しばらく経ってから作った場所だ。必要なものを思い浮かべて揃えていたら、いつの間にかララニカの森の家と似たものが出来上がっていた。

 二つ目の椅子を用意した時は誰が座るのかと苦笑したが、今はそこへララニカが座っている。……ああ、帰ってきてしまった。もう旅は終わりなのだ。



「やっと話ができるわね」



 ララニカはどことなく嬉しそうな顔をしてそう言った。ノクスは頷きながらも、心が重たくなっていく。ドガルを出立してからここに来るまで彼女の機嫌がずっと良かったのは、やはりもうすぐ死ねるという希望からなのだろう。


(……すぐにでも殺してあげるべき、かな。なんなら……俺に対して気持ちがないって、知るより先に。その方が、いいかもしれない)


 彼女に見えないよう、テーブルの下でナイフを握る。その手はやはり震えていて、これじゃ手元が狂いそうだと思った。間違えても苦しめてはいけない。この震えが収まらないと、殺せない。



「ノクス、ありがとう。私は……これで、死ねる体になったわ」


「……よかったね、ララニカ」


「ええ。私、ずっと……今すぐにでも死にたいって思っていたから。ようやく死ねると思うと嬉しいわよ」



 微笑みながらララニカはそんなことを言った。やはり、彼女は今すぐにでも死にたいのだ。この旅で彼女から壁を感じなくなったのは、死ねると確信できたからに違いない。本当に、魔性の魔女である。


(俺はもっと君のことをが好きになったのに)


 ナイフを握る手に力を込めるが、まだこの手は震えている。彼女を殺すことを、ノクスの心が拒絶する。……たとえ愛されなかったとしても、ノクスがララニカを愛していることに変わりはない。

 動揺は顔に出していないつもりだったが、ララニカは少し慌てたように結婚の約束は忘れていない、と言い出した。


(でもその約束は、もういいよ。君が死にたいなら、俺に付き合わなくていい)


 そう告げる前に話を聞いてほしいと止められた。……あまり聞きたくないからこそ、手にかけようとしているのに。だが結局手の震えは収まらないから、それもできない。彼女の話を聞くしかない。しかしそんな心境で聞かされたララニカの話は、ノクスの想像とは別のものだった。



「私は……貴方が好きよ。不死の魔女だった私の望みを叶えるためだけに暗殺者になった、馬鹿な貴方を愛してるわ」



 それは何よりもノクスが聞きたかった言葉に違いない。嬉しすぎて呼吸すら忘れるくらいに驚く。しかしそれに続いた言葉で、山の頂から叩き落されるような心地になった。



「今まで出会った誰よりも、貴方に愛情を感じる。だから……私は、死ぬことができるようになったからこそ、貴方だけは見送りたくない」


「っ……それって、俺に……殺してほしい、ってこと……?」



 ノクスが好きだからこそ、見送りたくない。それはつまり、自分が死ぬ前にちゃんとノクスに殺されたい、ということだろう。

 ならばその願いを叶えなければならない。そう思うのに、ナイフを握る手の震えは収まるどころか、声にまで伝播したようだった。


(殺したくない。……君を殺したくないよ)


 殺すということは永遠に失うということ。記憶の中にしか残らない。そしてその記憶はやがて薄れていく。いつしか細かいことから忘れてしまう。声や顔を思い出せなくなるかもしれない。

 子供の頃から彼女を殺すと決めて、何度も口にしてきた。けれどここに来て、ようやく自分にはそれが出来ないかもしれないと思った。手にしたナイフを突き刺せるのか。毒を飲ませることはできるか。他の方法でもいい、彼女を手に掛けられるか。何を想像しても、直前で動けなくなってしまう気がした。



「そう。私は貴方に殺してほしいわ。……でもそれは、いつかの話」


「…………いつか?」



 また予想外の言葉が出てきた。思わず尋ね返したノクスに、ララニカは真剣な面持ちで指を組み合わせる。彼女が毛嫌いする、神へ祈るようなポーズだ。



「ええ。だから、私たちは結婚しましょう。……貴方が死ぬより前に私を殺して。そしてそれまでは、一緒に生きる……というのはどうかしら」



 その言葉を理解するのに数秒かかり、理解した途端にノクスの中で何かがはじける。ララニカはまだ何か言いかけていたがもう聞こえていなかった。握っていたナイフを離し、別のものに手を伸ばす。本能的な、衝動的なものだったと思う。

 自分でも何かを考えていた訳ではなくて、とにかく気づいたら腕の中にララニカを捕まえていた。


 我に返った時には彼女ごと床に倒れ込みそうだったので、咄嗟にその衝撃が小さな体に伝わらないよう、自分を緩衝材に使いながら衝撃を殺す。……頭でもぶつけて、死なせる訳にはいかない。

 


「好き。結婚したい。愛してる」



 一緒に生きるのはどうかなんて、聞かれるまでもない。ノクスの気持ちは昔から変わらないのだから。だからこそ、怖かったのだ。



「すぐにでも殺してほしいって……言われるかと、思ってた……っ」



 そう言われるのが本当に怖かった。聞きたくない、それを聞かされるくらいならその前に殺してしまいたいと思う程に。

 けれど殺せるはずもなかった。ノクスはララニカを愛している。彼女のためだけに生きてきたようなものなのに、彼女を失ったらどうやって生きればいいのか分からない。


(よかった。本当によかった……ララニカを殺すのは、俺が死ぬ寸前でいい。最期まで一緒だ)


 その時になら手を下せるかもしれない。自分の死が見える状況なら、彼女を置いて逝くのはノクスとて不本意である。彼女の息を止めたら、ノクスもすぐに後を追えばいいだけの話だ。それならとても簡単に思えた。

 ようやく手に入ったものを、腕の中の存在を実感したいばかりに力を籠めすぎたようで文句を言われたが、それは些細なことである。


(でもまだ離れたくないなぁ……だって、ようやく……手に入った)


 ずっと欲しかったのだ。この手に落ちてきてほしかった。決して手に入らないと思っていたが、自ら飛び込んできてくれた。今日くらいは、この幸福に浸りたい。

 どうしても笑ってしまう顔をララニカに見られないように隠しながら、改めて告白する。



「ねぇ、ララニカ。……好きだよ。いつか必ず君を殺してみせるから……結婚して、それまで一緒に居てくれる?」


「だから、そう言ってるじゃないの。……馬鹿ね」



 甘さを含んだ優しく柔らかい声。彼女がノクスにだけ使う「馬鹿」という言葉が「愛してる」という意味に聞こえるのは何故だろうか。


 その日、元奴隷十六番は世界一幸せな暗殺者になった。いつか愛しい人を殺して生涯を閉じる、そんな暗殺者に。

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