16話 不死の魔女の痛み



 ノクスが北方へ行くと告げてから一ヶ月程が経った。次に来る時は写真というものを持ってくると言っていたので、私はそれを楽しみにしてしまっている。


(人が訪ねてくるのを楽しみに待ってるなんてもうだめね、私も。……耐えられるのかしら)


 ノクスが居なくなる日。やがて訪れる別れの日。それに私は、耐えられるのだろうか。……最近は、なんだかその自信がなくなってきた。

 私の不老不死の体を知ってもなお、親しくしてくれた人間は今までにも何人かいた。そういった人間の最期を見送る時は、いつも引き裂かれるような悲しみを感じたものだ。

 ノクスの場合は、私が子供の頃から面倒を見て、成長を見守ったという他にはない関わり方をしている。この関係の終着点が私には分からない。


 ため息を吐きながら水浴びをするために家を出た。そこでここ最近感じるようになった気配に気づいて周囲を見渡す。いつも通りの静かな森の朝なのに、はっきりとは分からない違和感があった。

 これは私の勘でしかない。しかし長い時を生きた私の勘ならあながち間違いでもないだろう。何かに私は見られている。野生動物であればいいが――人間の可能性もある。


(……そろそろ引っ越すべきね。でも……今すぐいなくなると、ノクスが……)


 彼は私に会うためにこの場所に戻ってくるはずだ。その時この家が無人になっていたら、きっと動揺する。そして私を探し回るだろう。それを考えると、彼に何も告げずにこの場を去る気にはなれなかった。

 だから彼が戻ってきたら家を移すことを告げてそのあと移動しようと思っている。必要最低限の荷物はすでにまとめてあるし、旅立とうと思えばいつでも出られるから、あとはノクスが一度戻ってくるのを待つばかりなのだ。


(ここ、気に入ってたのよね。とくにこの泉が……また同じような場所があるかしら)


 温かい湯水の湧く自然の泉で、人気のない場所にある。火山の近くになら極まれにこのような水が湧いているため、次の住処を探すなら火山帯がいいだろう。

 そう考えながら水浴びを始める。この体は垢などの汚れが出ることはないのだが、土や埃はつくし食べ物の匂いなども移る。だから狩りに行く前と森に入った後は必ずこうして体を洗うのが習慣だった。百年でこの温かい水に慣れてしまったため、冷水での行水に戻るのは中々苦労するだろう。


 そんなことを考えながら体を洗っていると、またあの気配を感じた。何者かに見られている、という感覚。気づいてはいるがどうしようもないと思いながら放っておくと、その気配は動き出した。

 低木と高草の茂みが揺れ、何かが飛び出してくる。それは野生の動物ではなく、森の影に紛れるような色の服をまとった人間だった。

 その手には刃物が握られており、相手の目は獲物を定めた狩人の様だ。私に対する恨みや恐怖がある訳ではなさそうである。


(……私を殺しに来たのね。捕獲じゃないならいいか)


 どう殺されても生き返る。それにもしこれで死ねるならそれでもいい。そう思って暗殺者の刃物を受け入れようと目を閉じた。しかし切り裂かれたり、刺されたりした時の痛みはやってこない。風の動く気配や、衣擦れの音はしたのに。不思議に思いながら目を開ける。



「……ノ、クス……?」



 目の前に、黒い服の背中があった。予想外の光景に目を見開く。後ろ姿でも見慣れた人間なのだ、見間違えるはずがない。北方から戻ってきたのだろうか。



「や、ララニカ。……ただ、いま」



 振り返ったノクスが、いつものように笑う。彼の前には先ほど私を殺そうとした男が倒れていて、眉間に一本のナイフが刺さっており、そちらはすでに絶命しているようだった。

 ノクスがその男を殺したらしいというのは理解した。そうしてもう一度ノクスを見上げようとすると、彼の体がぐらりと揺れて膝をつく。



「ノクス! 貴方……ッ!」


「ちょっと、余裕なくて、さ……」



 彼は全身黒い服を着ているのでわかりにくいが、どうやら私を狙っていた刃物を自分の体で遮ったらしい。腹にナイフの柄が生えているのが見えて、言葉を失った。

 私を庇ってノクスは刺された。不死の、死なない体を持った、庇う必要など微塵もない私なんかを。



「ッなんで私を庇うのよ!」


「……だって……守るって、言った、し……」


「どうせ死ねないからいらないわよ! 貴方は……っこんなこと言い争ってる場合じゃないわ。手当しないと」



 頭に血が上りそうになったが冷静になれと自分に言い聞かせた。私と違ってノクスには死の可能性がある。ナイフを抜いたら血が溢れると思い、抜かずに家まで連れて行って治療すべきかと判断して、彼の腕を肩にかけ体を起こそうとしたが止められた。



「ナイフ、抜いて……たぶん、毒、ある」


「っ……分かったわよ」



 いくつかの毒に耐性があるノクスであっても耐えられない種類のものらしい。すぐにナイフを抜いたが、そうすると血がごぼりと零れていく。毒混じりの血液は多少抜いた方がいいとはいえ、出血しすぎだ。どこか血管を傷つけたのだろう。このままでは――。


(……ノクスが、死んでしまう)


 それを実感したとたん、指先が冷えて震え出した。体の中を焦燥が駆け巡る。どうすればいいか、どうすれば彼を救えるのか、頭の中を知識が巡っていく。



「血を……止めるわよ。何か持ってる?」


「……ん……これ……」



 ノクスが懐から取り出した箱を受け取って確認する。止血剤、痛み止め、糸と針、そしてライターが入っていた。荒療治だがやるしかない。

 家に戻る前にこの場で治療をする。ノクスに痛みをこらえるように伝え、痛み止めを口に入れて布を噛ませた。激痛だろうが切れた血管を探して縫い合わせ、傷口を焼いて血を止めるのだ。


 相当な苦痛を伴うその処置のせいか、毒のせいか、ノクスは途中で気を失った。しかしそのおかげで血管を縫い合わせて焼く時の痛みは感じなかっただろう。治療を終えて血の気のない顔をするノクスと、血まみれの地面を見下ろした私は、唇を噛んで自分やノクスの体を軽く泉で洗い、彼を引きずりながら家に連れ帰った。


 私よりも背が高くなって、もう子供の時のようには簡単に運べない。息を切らして汗だくになりながら家まで戻り、できるだけ清潔な服に着替えさせてベッドに寝かせる。あの環境で治療したのだから、傷口から悪いものが入った可能性もある。そのあたりの対策となる薬や、症状にあった解毒剤、造血剤や――とにかく、彼を助けるための薬を作ろうと動き出した。


(ノクスは体が丈夫だもの。回復力も高い。……きっと助かるわ)


 自分に言い聞かせながら、それでも体の奥から突き上げてくるような不安感が消えない。

 助かるはずだ、常人なら死ぬような怪我でもノクスの回復力ならば助かる可能性はある。だから、幼い頃のあの状態でも生き延びた。それなのに、世界が滲んで見えるのは何故だろう。


(なんで私を庇うのよ。……守るって言ったから? でもそんな約束……)


 私に二度と痛い思いをさせない、自分が殺すまでは守ると言われたことを思い出す。私は別に守られなくてもいいと思っていたし、対して気にも留めなかった。けれどノクスの中では重要な約束だったのだろう。……今更、軽く考えていたことを後悔しても遅い。


 それからはずっとノクスについてその看病を続けた。彼を家に残したまま外に出る気になれず、ベッドの横に椅子を置いて、薬を作ったり飲ませたりする以外は彼の手を取って弱い脈を確かめ、生きていることを確認していた。そうしなければ、不安で仕方がなかったからだ。



「ノクス、聞こえるかしら。……私を殺すんでしょう。その私を庇って、貴方が死んでどうするの」



 私を庇う必要なんて微塵もなかった。どうせ死ぬことのない、不死の魔女なのだから。それでもノクスは咄嗟に私を庇ってしまったのだろう。彼が常々言っていたように、私に二度と苦痛を味わわせないという宣言の通りに。死なないと分かっているはずなのに、庇わずにはいられなかった。


(……私が……あの時、せめて……避けようとでも、していたら……何か違ったかしら)


 私が何の抵抗もしなかったから、ノクスには私を救うだけの時間がなかったのかもしれない。だとすれば彼の怪我は私の責任でもある。長く生きる中で自分を傷つけることを、自分が傷つくことを厭わなくなった。自分だけならそれでよかったのだろう。……不老不死の体ですら、傷つけたくないと思ってくれる相手がいないならそれでよかったのに。



「……死なないで。生きて……私まだ、貴方と……」



 別れの覚悟などできていない。私はノクスを失いたくない。このまま失ってしまうくらいなら、遠ざけなどせずにもっと一緒に過ごせばよかったとすら思う。死ねない私の、痛みに慣れるほど死に慣れた私の命どころか、痛みのためだけに自分の命を使ってしまうような子に、私が育ててしまったのだ。

 

(……こんなことになるなら……貴方の願いを、叶えてあげれば……)


 普段のぬくもりには程遠い、冷えた彼の手に自分の頬を寄せる。私は彼を大事に思いたくないからこそ遠ざけようとしていたのに、すでに自分で考えていた以上にノクスを大事に思っていたらしい。

 このような形で死別するくらいなら、幸せに生きる彼の人生を最期まで見届ける方が良かったと考えてしまうくらいには。


(私の気持ちが恋かどうかなんて分からない。でも、ノクスを愛しているのは間違いない)


 愛にも様々な形がある。恋愛、信愛、友愛、師弟愛。自分の愛を忘れるくらいには、私は一人で長く生きすぎた。ただ事実としてあるのは、彼に抱く愛情はいままで持ったどんな情よりも深いということ。

 失いそうになってから気づくなんて遅い。このまま失ってしまうことが怖い。ただ静かに眠り続けるノクスの体温が失われないようにと願って、彼の手を握り続けた。



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