8話 夜の決意


「私は不老不死の魔女。人間とは生きていけないわ」



 その言葉にノクスは落雷に遭ったかのような衝撃を受けた。ララニカは死なない。だからずっと一緒に居られるのだ、と。そう思っていたのはノクスだけだったらしい。


(ララニカと別れて森の外で生きる……? そんなの……)


 ノクスにとっての幸せは、全部この森の中に、ララニカと共に暮らす家にある。外での暮らしは苦しいことしか覚えていない。ララニカの元を離れて、外で一人で生きていくなんて想像ができなかった。

 それに何より、ノクスはララニカの役に立ちたくて努力をしている。彼女のために、なんでもできるようになりたい。彼女の傍にいられないなら、それらの力は意味をなさない。



「ノクス。……私は貴方が一人で生きていけるように、知識を与える。けれど一緒に生きていくことはできない。私は貴方を愛したくないの。……いえ、誰も愛したくないわ。だってみんな私を置いて逝くか、私を嫌いになるもの」


「……俺は……ララニカを嫌いにならない」



 ノクスがララニカを嫌うはずがない。命を助けてくれて、名前をくれて、生きる力をくれて、死にかけていた心を取り戻してくれた。どうやって嫌いになるというのだろう。

 彼女と共に暮らして、その優しさを知りながら彼女を嫌いになった人間が過去にいたのだろうか。……信じられない。



「でも貴方は私より先に死ぬわよ。私は死ねないから」



 その言葉でノクスはようやく理解した。ララニカが「死なない」ではなく「死ねない」と言っている、その理由を。

 それに気付いて何も言えなくなり、彼女の顔を見ることもできなくなってベッドへと潜り込んだ。森の匂いのする、温かいベッド。けれどノクスの今の冷えた体を温めるには、ぬくもりが足りない。


(ララニカは不老不死だから……ずっと、このままで。誰かを好きになったら、その相手は必ず……)


 熊に襲われてララニカが死んだと思った時の、胸の痛みはよく覚えている。彼女はすぐに生き返ったが、その一瞬だけでも心にあった喪失感はすさまじいものだった。

 大事な相手を失うことは自分の一部を失うようなものだ。自分という人間を構成する存在が欠け落ちてしまう。ノクスにとってはそんな相手はララニカだけ。

 しかしララニカは長い時を生きる中で、自分を作る大事な関係をいくつも持ったことがあるのだろう。今までにそのすべてを失って、何度もあのような喪失感を覚えて、二度と何も持ちたくないと一人で生きるようになったのではないか。


(誰も愛したくないっていうのは……そういうことだ。それでもララニカは、俺を助けてくれたんだ)


 ララニカはきっと、とても傷ついている。だからこれ以上傷つかないようにと人との関わりを絶った。それでも死にかけたノクスを見つけて、助けてくれたのだ。

 彼女はとても優しい人だから、自分の感情よりもノクスの命を優先してくれた。傷が癒える間だけでも良かったはずなのに、ノクスが一人で生きていけるようにと考えていろんな知恵を与えてくれた。


(俺のことも愛したくないって、言ったけど……ララニカは、きっと……)


 すでにララニカはノクスに対し、愛情をもってくれている。森の外では誰にも愛されたことなどなかったが、だからこそララニカの優しさと愛情は疑っていない。「貴方を愛したくない」というのはノクスに何の情も持っていないから出た言葉ではなく、「これ以上愛したくない」という意味ではないか。……きっとそうだ。


 明かりが消えて、静かにララニカがベッドへ入ってきた。背中にいつもの、彼女の温かい体温を感じる。



「……貴方はまだ、戻れるわ。私とは違うもの。……人間の社会に戻って、人間らしく生きて。誰かと結婚して、幸せに暮らしなさい」



 落ち着いていて、どこか深みがあって、優しい声。彼女がノクスのことを何とも思っていなかったら、こんなことを言ってくれるはずがない。ララニカの優しさが染みて涙が出そうだった。


(……けっこん……って、夫婦になるやつ……?)


 奴隷であったノクスには縁遠いことだったが、結婚式というものは遠目に見たことがある。永遠の愛を、一緒に生きることを誓って、他人が夫婦という家族になる儀式だったはずだ。

 心の中で呟いたつもりが口から出ていたようで、ララニカからも返事があった。



「そう。好きな人と結ばれて、同じ時間を生きるの。子供も生まれるかもしれないし、そうしたらその子の成長を見守る楽しみだってある。……私にはできないことよ」



 私にはできないこと。そこにはララニカの本当の願いが、諦めた望みが滲んでいる気がして悲しくなった。好きな相手と同じ時間を生きて死ぬ。誰にでもあるはずの可能性が、不老不死であるララニカにはない。


(ララニカが……可哀相だ)


 そう思うと堪らなくなって、体を反転させて彼女を抱きしめた。背中をいつものように優しいリズムであやされて、その度に目から涙がこぼれてしまう。

 こんなに優しい人だ。普通の人間だったら、きっと彼女が望んだように誰かに愛されて、その誰かを愛して、普通に死ぬことができた。けれど彼女は不老不死だから、大事な相手が出来ても見送るばかりでずっと世界に取り残されてしまう。


(俺がこの森を出ていったら……ララニカはまた一人になる。でも俺がずっと一緒に居ても、いつか俺は死ぬから結局ララニカは一人になる……)


 そんな残酷な話があるだろうか。彼女はノクスに外で誰か好きな人と結ばれて生きろと言うが、彼女を一人きりにしたままそんなことができるはずもなかった。

 ララニカ以上に好きな相手なんて、できる気もしない。ララニカが幸せになっていないのに、ここでの暮らしを忘れて彼女以外の誰かと暮らせるはずがない。


(俺はララニカといたい。これからもずっと……でも、それだけじゃだめだ。ララニカを一人残さないように…………ララニカが、死ねるように、しないと)


 彼女は「死」を望んでいる。永遠に失ってしまったそれを、もう一度手に入れたいと思っている。けれどその方法を探すことを、彼女は諦めてしまった。

 ならばノクスが探すべきではないか。ララニカに全部与えられて、生きられるようになったノクスが、彼女を死なせる方法を見つけるために自分の時間を使えばいいのではないだろうか。


(……俺が、ララニカを殺してあげるんだ。ララニカがこれ以上、誰も見送らなくていいように……俺が、ララニカを見送る人間になる)


 天啓を受けたような気分だった。世界がぱっと明るくなったような、今までと全く違うものが見えるような気付きだった。それはノクスの新たな目標だ。


(ララニカを殺せるなら、生きる時間は一緒にできる。……それなら俺と、結婚してくれるかな?)


 好きな人と結ばれて、同じ時間を生きるとララニカは言った。しかしノクスの好きな相手は――ララニカである。思考を埋め尽くすような、激しく心を揺さぶられて訳が分からなくなるようなあの感情は、ララニカに向けた恋心なのだと気づいた。この先も、ノクスが一緒に生きたいと思うのは彼女だけだ。


 そっと顔を上げる。安らかに眠るララニカの顔が、薄暗い中でもよく見えた。彼女は表情が薄い。長く生きすぎて、そして人と関わらな過ぎて、表情を動かすのを忘れてしまったのだと思う。

 けれど、死ねると分かった時にはきっと、とても喜んで笑ってくれるだろう。自分がそんな表情をさせてあげられるかもしれない、と思うとノクスの中には何か、込み上げてくる喜びの感情があった。ぞくぞくと背中を駆け上がるような、そんな高揚感。


(明日、ララニカに言おう。喜んでくれるかな……ララニカの望みは、俺が叶えてあげるんだ。だって、俺しか……いないから)


 この世で唯一、ララニカの不幸を知っているのは自分だけ。彼女を想っているからこそ、その不幸を解決したいと心の底から願っているのもノクスだけだ。

 もし志半ばでノクスが死んだらララニカは救えない。この夢を叶えるまで、決して死ぬわけにはいかない。


(だから強くなる。もっと勉強する。……ララニカを殺す方法を探すなら森の外に出ることになるだろうから……寂しいけど、頑張る。ララニカのためだ)


 抱きしめて、抱きしめられて伝わってくるこのぬくもりを忘れぬようにと、ノクスは少しだけ自分の腕に力を込める。そして目が覚めたら、大事な告白をしようと心に決めながら穏やかな眠りについた。



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