6話 不死の魔女と反抗期



 森では一瞬の油断が死を招く。ノクスは身をもってそれを知ることになった。

 たとえ獲物を視界に捉えても、それだけに集中してはいけない。周囲の状況を冷静に把握する必要がある。それは何事にも通じることで、視野を広く持ち思考を止めないというのは生きるのに重要な能力だ。

 ノクスは非常に飲み込みが早く、一年で森の歩き方を覚えた。獲物に気配を悟られない、気配の殺し方も完璧だ。ただ実際に狩りに成功したことはなく(まあ、私が先に獲物を仕留めていたせいなのだが)、焦りがあったのだろう。……だから、自分と私以外の狩人の存在が頭から抜けていた。


(森には人間よりはるかに優れた力を持つ動物がいるから常に気をつけなさいと教えたつもりだったけれど……獲物を見つけて視野が狭くなったのね。でも、いい経験になったはず)


 今回のことはいい勉強になったはずだ。これで彼はもう二度と、狩りの最中に油断や焦りを持ち込むことはない。代償もいくらでも取り戻せる私の命で済んだので、結果的には良かったといえる。


(まあただちょっと……ノクスの様子がおかしい気もするけれど。罪悪感のせいかしら?)


 足を怪我した翌日。彼はまだまともに歩けないはずだと、朝の水浴びに連れていこうとしたら拒絶されて、驚いた。いままで彼に何かを断られたことはなかったからだ。



「俺は一人で洗えるから気にしなくていいし、あとで一人でやるから」


「でも溺れたら大変よ。こんな時くらいは甘えていいものだと思うけど」


「……いい。絶対に一人で洗う。気になるならララニカは傍で見ててくれればいいから、昨日みたいな手伝いはいらない。足もだいぶ良くなったし、一人で大丈夫だよ」



 強い言葉ではないが、断固拒否するという強い意思を感じた。たしかに彼の足は昨日の腫れ具合から考えると驚くほど良くなっていて、多少足を庇ってはいるものの杖なしで歩けている。

 それでも心配で入浴を見守ったが溺れることもなかった。……ただ、いつでも助けられるようにと服を脱ごうとしたら嫌がられてしまったが。



「だから、大丈夫。ララニカは服着てそこで見てて」


「でも、危ないでしょう?」


「危ないことはしない。水に浸からないで洗えばいいんだから。俺だってちゃんと考えてるし、一人で大丈夫だよ」



 泉の淵に腰かけて、桶で水を掬って体を洗い、泉の中には入ろうとしない。確かにそれなら危険は少ないと、私も少し離れた場所でノクスを見守った。彼にあまり近くで見ないでほしいと頼まれたのもある。


(やっぱり様子がおかしい……というか、成長したのかしらね。一人立ちの準備のようなもの?)


 今のノクスは私に頼らず、一人でなんでもやろうとしているように思えた。熊の一件以降、ノクスにはそういう節がよく見られるようになり、私に頼り切りだった子が急速に成長していくように感じる。


 足の捻挫も三日もすれば完全回復し、走り回れる確認が取れた彼はまた森に入るようになったが、前回までのように私の先を行こうとはせず、私の隣か後ろについて、私がどのように視線を動かしているかなどを観察しているようだった。


(これはもう、放っておいても伸びるでしょう。……成長が早いわ)


 今のノクスはやる気に満ち溢れている。ここに来たばかりの無気力さとは天地の差だ。きっと、彼には目標ができたのだろう。だから今まで以上に私の知識を吸収しようと真剣になっている。

 このままいけば彼が一人前になる日も近い。それは同時に、彼がこの森を出ていくべき日が近いということでもある。そう考えた時、私の胸はすっと冷たい風が通ったように、熱が冷めた。


(……最初から決めていたじゃない。この子が一人立ちするまでの間だけ、面倒を見るのだと)


 寿命のあるものに情を移したくなかったし、ある程度距離を置いていたつもりだった。しかしたった一年間、毎日を共に過ごしただけで、別れを考えた瞬間に――寂しさを覚えるなんて。


(……仕方ないわよね。だって、ノクスはこんなに……大きく変わった。それをずっと見ていたんだから)


 出会ったばかりの頃を思い出す。無表情で、感情を心の奥底に隠してしまったような、人形にも見える姿のノクスは少しずつ人らしさを取り戻していった。

 秋にしかとれない森の果実で作ったジュースを飲んだ時、初めて驚いたように表情が動いて「おいしい」と言った。冬の寒さを感じるようになった頃、彼用に作った毛皮のマントを着せてやると「あったかい」とほんのりと安心したような顔を見せた。

 春になる頃には随分となれたのか、ようやく笑顔を見せるようになった。そうして夏がやってきて、彼を拾って一年が経ち――今の彼は随分と、人間らしくなった。


(私に我儘を言ったのだって、初めてじゃない? ……よかった)


 この数日で「いやだ」という意思表示ができるようになったのだ。初めの頃は「はい」と「分かりません」と「ごめんなさい」くらいしか言わなかったのに。

 その変化を、最初からずっと見守ってきた。情を移すなという方が無理な話である。そして彼は「戻れる」という確信を得た。それも遠くない未来に。



「ねぇ、ノクス。ご馳走が食べたいわよね」


「え……なんで?」


「怪我が治ったお祝いと、ノクスが成長したお祝いってところね。……そういえば、貴方の好物を訊いたことがなかったわ。何かある?」



 ノクスはここに来る前は余程酷い環境に居たのか、好き嫌いはあまりないように見えた。「腐ってないだけ美味しい」と言っていたこともあるので、ろくなものを口にしていなかったようである。

 この森は恵みが豊かなので、食べる物の種類は豊富だ。その中に一つでも好物があればと思ったのだが、ノクスからは意外な返答が返って来た。



「森の恵みのごった煮スープ。……その日に採ったもので味が変わって、いつも楽しい」


「……ふふ。そう。私も好きよ」



 その日に採れたもので作るので出汁になる材料だけでもキノコであったり、魚であったり、肉であったりして、その日によって全く味が違うのだ。そこから森で採れるハーブや香辛料で食材に合わせて味を調えていくので、どんな味になるかは作ってみるまで分からない。

 もちろん、鉄板の組み合わせというものはある。個人的には猪肉と根菜の組み合わせが好きなので、ノクスにもそういう好きな組み合わせや具材がないかと尋ねてみようと彼を見ると、顔が赤かった。



「……ノクス? 顔が赤いわ」


「い、いや、これは……」


「熱が出た? 体が回復したからって無茶しちゃだめよ」



 赤く染まっている頬に手を添えれば確かに熱を感じる。ノクスはこちらを見ようとせずに目を逸らしていた。今日一日は元気に動き回っていたから、病み上がりの体はそのせいで疲れがでたのかもしれない。



「急に体が熱くなっただけ、すぐ元に戻るよ」


「……それこそ病気なんじゃない? ちょっと服をぬいで、診せて」


「いらない! 大丈夫、今日は早く寝るから!」



 人間らしく子供らしくなったのはいいことだが、そのせいなのかノクスの言動がいまいち分からないことがある。今も服を脱がせようとした私から距離をとって逃げようとするので、訳が分からない。……動きを見るに元気そうだから、大丈夫なのかもしれないけれど。



「……まあいいけど。それで、スープに入れるなら何がいい?」


「……イノシシと、噛み応えのある……ハスの根とか、イモとか」


「気が合うわね、私もそれが一番好きよ。じゃあ頑張ってイノシシの罠を仕掛けないと。あとはせっかくだから……鳥の丸焼きでも作りましょう。そういう料理を祝いに食べる国もあるのよ」



 怪我の回復を祝うご馳走としてそれらを作ると決め、作るのはイノシシが捕れた日になるが根菜はそれまでに採っておいて保存しておくと決めた。

 今回は彼の快気祝い。そして次に同じものを作るのはきっと、ノクスの旅立ちの日になるだろう。


(ノクスが出て行ったらまた一人、ね。……でも、まだたった一年。せいぜい彼がいるのはもう一年くらいだろうから……二年なら、耐えられるわ)


 共に過ごす時間が長ければ長いほど、心の奥深くにその人物が住み着いてしまう。私はノクスの最期を見送るなんてごめんだと、すでに思ってしまっている。

 けれど最期でなければ見送れる。旅立つ背中を見送って、時々思い出すくらいなら――百年後でも、きっと耐えられる。最期を知らなければ、最後に見るのがまだ若く未来のある姿であれば。その未来を想像して、信じて、きっと幸せなのだと思い続けることができるはずだ。



 ――私は最初からノクスを森から送り出すつもりでいた。そしてノクスもそれが分かっているものだとばかり、思っていた。


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