5話 夜と不死の魔女
死ねない、とララニカは言った。朝ベッドで目覚めた時と変わらぬ様子で起き上がった彼女は、服の状態を確認して「これはもうだめね」などと何でもないように言っている。
(怪我も、治ってる。……あんなに、めちゃくちゃだったのに)
彼女は確実に死んでいた。致命傷を受けて、血を流しすぎて、その眼の光が失われた瞬間をノクスは確かに見たのだ。しかし今のララニカは無傷の上にどう見ても生きていて、自分の意思で動いている。……これはノクスの都合のいい幻覚ではないのだろうか。
いまだに目の前の光景を飲み込み切れず固まっているノクスを見た彼女が顔を覗き込んできた。
「……大丈夫? 私が突き飛ばしたせいで、頭を打った?」
「え、いや……頭は、大丈夫」
「頭は? じゃあ別のところ? ……ああ、足を捻ったのね。固定するからちょっと待って」
そう言うとすでにただの布切れとなった自分の袖をナイフで割き、その布でノクスの足首を固定していく。そんな応急処置を眺めながら、足に触れられる感覚で本当に彼女が生きているのだという実感が湧いて、そのありえない現実に頭がくらくらしてきた。
「ララニカは……死なない、の……?」
「そうよ。私は普通の人間とは違うの。だから私のことは心配しなくていいし、貴方は自分の安全を第一に行動しなさい」
そして彼女は何でもないような顔をしながら近場の太い枝を切り落として形を整え、ノクスの背丈に合わせた杖を作り、それを手渡してくる。まだ混乱しながらも杖を受け取って彼女を見上げ、そしてその後方に見える横たわったままの熊を見る。
背中が上下しているのが見えるので、生きているのだろう。ララニカは一体どうやってあの熊を倒したのか。そんなノクスの視線に気づいたのか、彼女は答えをくれた。
「人間の力じゃ絶対に敵わないような動物もいるから、こういう時のために体のあちこちに昏倒させる薬を仕込んであるの。毒じゃないから食べられるわ。今日は熊鍋よ」
「……冗談じゃなかったんだ、あれ……」
いまわの際の冗談なんて面白くもないと思っていた台詞は、冗談ではなかったのか。どうやらララニカは本当に死なないらしい。ただ、彼女の不思議な雰囲気の理由がそれなのだと思えば納得できる部分もあった。
どんな人間とも違う、透き通ったような光を宿す金の瞳。近くにいるはずなのに、遠くにいるような人。それはひとえに、彼女が不死であるが故。普通の人間とは違う生き方をしているせいだ。
「さすがに熊一頭を運ぶのは無理だから……毛皮をはいで、良い部分の肉を持ち帰りましょうか。ノクスは足を痛めてるし、休んでていいわよ」
「足首だけだから膝ついて動けるし、手伝える」
「……そう? 無理はしないでね。人間はすぐ死ぬんだから」
ララニカは死なないが、ノクスは普通の人間なので簡単に死んでしまう。だから彼女は身を挺してノクスを庇ってくれたのだ。
(そっか、ララニカは死なないんだ。じゃあ、俺が今日みたいな危険な目に遭って死ななければずっと一緒に居られる……?)
この時のノクスは「死なない」ではなく「死ねない」と言ったララニカの言葉の意味を、まだ正確に理解できていなかった。ただ純粋に、彼女を失わなくてすんだことを喜んでしまった。
「そういえばノクス、さっきから言葉遣いが違うわね」
「……あ。ごめんなさい」
「叱ってないわよ? 無理をしてる感じもしないし、似合ってるわ。急に変わったから気になっただけ」
ララニカが死ぬと思って、その衝撃で本来の言葉遣いが出ていたのだろう。貴族の屋敷では丁寧な言葉で受け答えしなければならなかったのだが、ララニカはそんなものを求めていない。
これを境にノクスは丁寧な言葉を使わなくないことにした。そうすると、また少しララニカとの距離が近づいたように感じて、嬉しくなる。
「さあ、熊の処理よ。大仕事だわ」
「うん。急がないとね」
昏倒している熊は血抜きしてから仕留め、内臓を抜いたら皮をはぐ。これは結構な重労働だ。しかしララニカは慣れているため手際よく、きれいに皮をはがしてしまった。そのあとは内ももの肉を切り取って、残りはその場に残していく。そうすれば他の獣たちが処理してくれるという。
「帰って肉の処理をしたらすぐ泉に行きましょう」
「うん」
ノクスは杖をついて足を庇いながら歩くのが精いっぱいのため、肉と毛皮はララニカが運んだ。重量のある毛皮と肉は、彼女にとっても重たいものであるらしく額に汗を搔いている。怪我で手伝えないことが申し訳ない。
(早く大きくなりたい。そうしたらもっとララニカを手伝える。……それに、何より強くなりたい。ララニカは死なないけど、痛みはあるんだ。俺がちゃんと周囲に気を配っていれば、熊に襲われなかったかもしれない)
鹿を見つけた瞬間、それを仕留めることしか頭になかった。そのせいで近くに潜んでいた熊の存在を見落とし、こんなことになったのだ。自分の失態である。……同じ過ちは絶対に繰り返さない。
もう二度と、ララニカに苦痛を与えたくない。死なないとしても痛みを感じている彼女が、もう二度と痛い思いをしなくてもいいように、守れる存在になりたい。
また一つノクスには目標ができた。奴隷の十六番であった頃にはなかった目標は、すべてララニカに関係する。彼女に与えられたも同然だ。
二人で何とか家にたどり着き、熊肉を防腐効果のある葉に包んだら毛皮と着替えの服を持って泉に向かう。ララニカはその毛皮を下流の方に一旦沈めると、ノクスに近づいてきた。
「足をくじいてるし溺れたら大変だから手伝うわ」
「え……いや、一人で大丈夫。浅いところで洗うし」
「浅くても人は溺れるわ。溺死は本当に苦しいんだから」
不死であることを知ったからか、ララニカの言葉は妙に説得力がある。一応抵抗を試みたが足で逃げられないノクスはララニカに「汚れてるんだから早く脱ぎなさい」と裸にされてしまった。……何故かとても恥ずかしい。
しかもララニカまで服を脱いで裸体を露わにしたため、傷一つない白い肌があまりにも眩しくて全力で顔を背けた。初めて一緒に水浴びするわけでもないのに、なんだかおかしい。
「どうしたの?」
「ど、どうもしない……」
「そう。それなら、早く体を洗うわよ。土まみれの上に血まみれなんだから」
ララニカに抱きかかえられて泉の中に連れていかれた。この泉は冷たくない不思議な水がどこかからか沸いてきていて、それが近くの川に向かって流れている。泉自体を汚さないように流れ出る泉の出口のような部分で体を洗うのだが、溺れないようにと抱えられて密着しているのが本当に恥ずかしい。
背中に感じる柔らかさが羞恥心を掻き立ててならない。そのまま体を綺麗にするまで抱えられていたので、二度と足を怪我してなるものかと心に固く誓った。
「洗濯と毛皮の処理をしていくから、貴方は先に戻ってていいわよ」
「……うん……」
「……ノクス、貴方顔が赤いわね。熱が出てるんじゃない?」
「いや……大丈夫」
これはそういうのではない。顔に集まって引かない熱は、ララニカのせいだ。まともに彼女の方を見られないノクスを不思議そうに見つめる視線は感じるが、とてもそちらを見る気にはなれなかった。
「薬の作り方と使い方は教えたから、分かるわね?」
「……うん」
「捻挫に効く薬と解熱の薬を作って使いなさい。それが終わったらあとは休んでおくこと」
「……うん」
ララニカに背を向け、彼女に作ってもらった杖で体を支えながら家に帰った。薬を作るように、と言われたもののそれどころではない。ひとまずベッドに腰かけたノクスは、自分の顔を覆って小さく呻く。
濁流のような感情だ。それが何と呼ぶものなのかは分からない。けれどとにかく心臓がまだドキドキと鳴っていて、体中が熱い。
(ララニカでいっぱいになる……なんだこれ……)
彼女の言う通り、熱が出ているのだろうか。足首はじくじくと熱を持っているし、泉の湯で温まりすぎたのかもしれない。気が付くとそのまま寝てしまっていたようで、ハッと目が覚めた時にはララニカも戻っていて、家の中には強いスパイスの香りが広がっていた。どうやら熊肉を森で採れる香辛料で煮込んでいるらしい。
「ああ、起きた? やっぱり疲れてたのね。薬も作っておいたから……捻挫の薬は食事の前に塗っておきましょうか」
「あの……ララニカ、ごめんなさい。寝ちゃって……」
「それだけ体に負担だったのよ。死なないためにも休息は大事なんだから」
鍋を竈から降ろし水瓶の水で手を洗ったララニカは、すり鉢に練られた粘性の液体と新しい布切れを持ってきた。そして優しい手つきでノクスの足に触れ、一度固定してある布を解いて薬を塗ってくれる。熱を持った足首に触れるララニカの冷たい手が気持ちよくてくすぐったい。
「この足じゃ暫く森には入れないだろうから、明日からは……薬作りをもっと教えてあげるわ。ただ、食料探しに私は森に入るから、その間はちゃんと休んでおくのよ」
「……うん。でも、できることはする。料理とか」
「そうね、まだ肉も余っているし……燻製づくりなんかもお願いしようかしら。分業ができると助かるわね」
ララニカが何気なく言った「助かる」という言葉が、ノクスはとても嬉しかった。今日は迷惑をかけてしまったというのに、彼女はノクスを疎ましいだなんて思っていない。それどころか、その存在が居て良かったと思ってくれている。
(もっと、もっと……早く何でもできるようにならなきゃ。ララニカの役に立ちたい)
早く成長してララニカの役に立つ。そんなノクスの望みは、別れを早めることと同義だなんて考えもしなかった。
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