4話 夜になった子供と、魔女



 その女性はどうやら自分を手当してくれた人で、今もなお助けようとしてくれているらしかった。食べなさいと言って出された物体は、やたらドロドロとしていて食べ物には見えなかった。

 しかし匂いは悪くない。実際に口に運んでも、腐りかけの残飯やカビが生えて固くなったパンよりもずっと舌に優しい。噛む必要がないので簡単に飲み込むこともできる。

 食べられるだけ食べろ、と言われたので胃に圧迫感を覚えながらも出された分を食べつくした。するとそれをいぶかし気に見ていた彼女は、無理して食べるなと言って慌てだす。


(……怒っている……にしては、怖くない。なんだろう)


 命令を間違えて解釈して、怒った主人に折檻されるのとは違う。自分は彼女の言葉を間違えたはずなのに、彼女は怒りの感情を見せるのではなく、あれやこれやと世話を焼こうとしているようにみえた。

 胃を圧迫しないようにと楽な姿勢を取らされて、誰かにこのような扱いをされたのが初めてなので困惑する。彼女は何がしたいのだろう。



「貴方、名前は?」



 唐突な質問だったが、素直に普段呼ばれている名前を告げた。十六番。それを聞いた彼女は、整った形の眉を寄せて眉間にしわを作る。……また間違えたのだろうか。



「ノクス、と呼ぶのはどう?」


「……ノクス?」



 しばらくの間を置いて、彼女はそんなことを言い出した。どうやら「十六番」は名前ではないと判断し、別の名前を付けてくれたらしい。

 夜という意味のある名前。新しい名前。この瞬間、「十六番」が消えて「ノクス」が生まれた。


(……生まれ変わったみたいだ)


 ふっと自分の中に新しい風が吹き込んだような、そんな気分だ。彼女はいつか自分で名前を考えてつければいいと言ったが、必要ないと思った。これが自分の名前なのだと、それを自分の中の何かが手放したくないと言っている気がする。



「貴方の傷が癒えたら一人で生きていけるだけの知識を教えるわ。出ていきたくなったら出て行ってもいいけれど、とにかくそれまでは私が面倒を見ましょう。……私はララニカ。短い間だけどよろしくね、ノクス」


「……はい」



 彼女――ララニカは淡々と、けれど優しい声でそう言った。彼女の言葉にただ従おうと頷いたノクスは、自分が彼女に逆らいたくなる日が来るなんて思ってもいなかった。




―――――



 ララニカはノクスにあらゆることを教えてくれた。動物の知識や植物の知識。食べられるもの、毒となるもの、薬にできるもの、仕掛け罠の作り方、森の歩き方、狩りの作法――本当に様々な知識を与えようとしてくれる。森の中の知識が大半だが、彼女はこの森の外の動植物にも詳しかった。そちらは森の中のことをすべて覚えたら詳しく教えてくれるらしい。



「ノクス、足の踏み場所は選びなさい。乾いた枯れ葉を踏んでは音が立つわ。獲物に気づかれてしまうでしょう?」


「はい」


「移動する時は風下を選んで、何かの影に隠れながら進むのよ」


「はい」



 気配の殺し方、獲物に見つからないための基礎。ナイフの扱い方、弓の扱い方、棒術――どんなことでも教えてくれる。けれど、ララニカは自分自身のことを語らない。天族のことや肖像画のことなど、訊いてみたいとは思う。しかしそれを尋ねて、今以上に距離を置かれたら嫌だった。

 彼女はとても不思議な雰囲気を持っている。ノクスからすれば年上の女性だが、見た目はまだまだ若い娘でしかない。それなのにとても達観しているようで、金色の瞳は透き通ったような、どこか遠くを見ているような――よく分からないのだが人間らしくないというべきだろうか。奴隷のように暗い目でも、貴族のように淀んだ目でもない。町の人たちのように懸命に生きる光があるわけでもない。しかし彼女だけが持つ、とても綺麗な目だ。



 夜になると、食事のあとはしばらくララニカが知識を教えてくれる。そのあとは少しゆっくりして、就寝だ。



「ララニカ、寝る時間ではないですか?」


「そうね。寝ましょうか」



 この家にはベッドが一つしかなくて、食料倉庫を除いたら部屋も一つだけだ。火をともしたままだと明るいし、眠りにくいので寝るときは二人一緒である。

 ノクスが壁際に寝転がるとララニカもベッドに入り、同じ毛布を被って眠る。寝かしつけるためなのか、ララニカはノクスの背に腕を回すと一定のリズムでトントンと叩いてくる。


(……温かい)


 冷たい床の上で粗末な布にまるまりながら眠りにつく日々と違って、ここでの眠りはあまりにも温かい。体が沈み込むベッドも、体を包み込む毛布も、触れた手から感じるララニカの体温も、彼女からする森の香りも、胸の中を温かくする。

 ここに来て半年、ノクスの冷え切っていた心は温かさを取り戻した。ララニカに対しては強い尊敬や、親愛や、感謝や――いろんな感情がごちゃ混ぜになっているが、とにかく彼女のことが大好きだ。


(ずっとこのまま……ララニカと暮らしたい)


 自由になって何をすればいいのか分からなくなったノクスにとって、初めての目標。人生の願いと言えるものができた。

 ララニカと生きること。今は彼女に与えられてばかりの子供であるノクスだが、いつかは立派な大人になる。そうしたら今度は、彼女を支える存在になる。


(今は俺が八歳で、ララニカは……二十はいってなさそうだから……十年後は俺が十八歳で、ララニカが二十八くらい……?)


 背が伸びて、彼女を見下ろせるくらいになった自分と、幼さが消えて美しい女性になったララニカを想像した。胸の中に広がった優しく甘い感情の名前をノクスはまだ知らないが、くすぐったくて笑う。



「ん……? ノクス、今笑わなかった?」


「……はい」


「そう、よかった。笑えるようになったのね。……貴方はきっと、戻れるわ」



 ララニカは時々ノクスに対し「戻れる」と言う。その言葉の意味をいまいち理解できないが、彼女はあまり感情表現が豊かではない顔に薄い微笑みをたたえて嬉しそうに見えるので、ノクスも嬉しくなる。

 ララニカが喜ぶから。その理由だけで、ノクスは彼女の教えてくれる知識を懸命に吸収した。感情を表に出して、泣いたり笑ったりすれば貴族の屋敷では甚振られたものだが、ララニカはノクスが感情を出すことを喜ぶ。自分の意見など言おうものなら奴隷のくせにと手酷く罰を与えられたが、ララニカはよく自分で考えたと褒めてくれる。


 そうして一年も過ごせばノクスは随分と子供らしさ――いや、人間らしさを取り戻していた。



「今日こそ自分で獲物を仕留めて見せます」


「そうなればもう一人前ね」



 弓の的当ては百発百中となったノクスだが、いまだに獲物を仕留めたことはなかった。それはたいていララニカが先に仕留めてしまうせいで、彼女より先に獲物を見つけて仕留めなければならないのである。これが大変に難しい。


(今日こそ獲物を仕留めて、ララニカに認めてもらう)


 木の陰に隠れながらぐんぐんと森の中を進む。鹿の足跡を見つけ、それを追った。ララニカも気配を消しながらノクスの後ろをついてきている。


(いた! 見つけた!)


 ララニカより先に、獲物を仕留める。そのことに集中していたノクスは、鹿を見つけた途端にそれを狙える位置に飛び出した。弓を構えて矢を射ろうとした時、切羽詰まったララニカの声で「ノクス!」と呼ぶ声がする。

 突然ノクスを覆うように影が降る。ハッと視線を向けた先には立ち上がった姿の大熊がいて、牙をむきながらこちらを見下ろしていた。

 この熊も鹿を狙っていて、獲物を横取りされたと思ったのだろうか。熊が爪を振り下ろす動作がやけにゆっくりと見えた。


 死んだ、と思った。しかし熊の爪が降り下ろされるより先に、ノクスは横から突き飛ばされた。先ほどまでいた場所にはノクスの代わりにララニカがいて、熊の爪は彼女に直撃し、華奢な体は地面にたたきつけられる。


「ララニカ……ッ!!」


 赤い血が飛び散って、地面の緑をその色に染めた。身じろぎ、震えながら体を起こそうとする彼女にその熊はなおも襲い掛かろうと牙を剥く。

 すぐに立ち上がってかけつけたいのに、受け身をとれずに足をひねったのか一歩踏み出そうとしたところで激しい痛みに襲われ、ノクスはがくりと体勢を崩した。間に合わない。言葉にならない感情が、自分の喉から悲鳴として漏れている。

 己の身を庇うように掲げられたララニカの右腕を、野生の鋭い牙が襲う。彼女の細い腕では熊の顎の力に耐えきれず、骨が砕ける音がやけに響いた。



「ぅ゛ッ……」



 痛みを堪えるような呻き声。血まみれのララニカは、噛まれた腕をなおも熊の口に押し込もうとしているようだった。金の瞳には絶望も必死さもなく、いつも通り。透き通るような眼差しで、熊を見つめるそこには特別な感情が浮かんでいるようには見えない。……怒りも恐怖も何もないのが、あまりにも異質だ。



「ラ、ラ……ニカ……?」


「だい、じょうぶ、よ……もう、すぐ……」



 突然、熊の体がぐらりとふらついたかと思うと、そのまま横倒れになる。腕を噛まれたままのララニカも同じ方向に引っ張られて倒れた。

 ハッと我に返り、挫いた足を引きずってララニカの元へ急ぐ。大量の出血で、彼女の白い肌はもっと白くなってしまっている。



「ララニカ、なんで……」


「……くすり、しこんで……あるの……きょうは、くまなべ……ね……」



 焦点の合わない目で面白くもない冗談を言う彼女を見ていると、視界がだんだんとぼやけてきた。どう見ても助かる傷ではない。それでも熊の頭を掴んで、その口から彼女の腕を取り出した。もう原型が分からなくなってしまっているが、それでも肩に近い部分を縛って止血する。

 人間の体には太い血管があって、心臓に近い部分で強く縛れば出血を遅らせることができるのだと、彼女が教えてくれた。



「そんな、こと……しな、くて……いい、わ」


「いやです……いやだ……ララニカ、死なないで」



 あふれた涙が頬を濡らす。涙を流したのは何年ぶりだろうか。力の入らないララニカの手を握って、嫌だと我儘を言う子供みたいに繰り返した。

 そんなノクスを見上げる金の瞳は、もうぐしゃぐしゃの泣き顔など見えていないだろう。



「……なける、ように……なって……よか……」



 か細い声。泣けるようになってよかった、と言い切らないうちにふっと彼女の体から力が抜けた。開いたままの目には光がなく、死んだのだ、と理解して茫然とするノクスの目に信じられない光景が飛び込んでくる。

 飛び散って地面を赤く濡らしていたララニカの血が、突然意思を持ったかのように動き出した。それらはララニカの元へ素早く集まり、その体内へと潜っていく。



「な、ん……」



 時間にして数十秒。流れたはずの血も、折れた骨も、ずたずたに裂けた肉も、すべてが元通りになった。いつも見ている、傷一つないララニカの姿。しかし今まで見たものが夢や幻の類でないことは、ボロボロになった彼女の服が証明している。

 言葉を失ってその光景を眺めるだけのノクスの視界で、ララニカが瞬いた。そして小さく息を吸い、軽くため息を吐く。



「大丈夫だと言ったでしょう? ……私は、死ねないのよ」



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