おはようの挨拶⑥
(凪茶と分断されてしまった)
……しかも、悪い状況はこれだけでは無い。壁に身体を打ち付けてしまった際、思いっ切り左腕を打撲してしまったのだ。悲しいことに私の利きでは左でで、不幸な状況が続いてしまう圧倒的不利。
(折れては無いのが不幸中。……痛みは酷いけど)
骨が折れていないということは、多少無理に動かしても大丈夫ということだ。痛みというのは、自分自身の身体を制御するストッパーのような役割だけれども、無理をしないとまずい状況である。
自分自身の身体的状況を改めて理解すると、犯人を私自身の力で対抗するのは無理。……となると、今するべきことはエレベーターがホームに着くまでの時間稼ぎだ。
「何の目的、ですか」
時間稼ぎの基本は対話。相手の目的を引き出すことで、少しでも時間を稼いで上手く立ち回る。
初めに考えられる可能性としては、【身代金】。私を拉致し西條家に身代金としてお金を請求と言ったところだろう。
そこら辺の一般人なら私の存在を知るものは少ないものの、調べようと思えば出てきてしまうというのが情報というものだ。過去に何回か実例があるからこそ、可能性としては真っ先にこれが浮かび上がる。
「身代金の考えなら無駄だと思いますよ。お父様が私のためにお金使うとは思えないので」
これも過去に行われた結果、学んだ事実だった。いつも身代金を要求してきた奴らは、木っ端微塵にやられて、警察に突き出されている。
「身代金を払う姿勢なんて見せたことがない」、「娘さんをただの駒としか思ってない」と、メイドたちが愚痴っていたのを聞いたことがある。お金を出して取り戻すという方法を考えないほどに、お父様は私に価値がないと思っているのだ。
私の答えにどう返すのか、反応を待っていると犯人は、ゆっくりと腕を上げて私の腹部を指さした。
「……マジョ」
私の腹部には、あの忌まわしく醜い見た目をした痣しか存在していない。私の考察できる範囲では、犯人が指すマジョという単語と、この痣の正体が結びつかない。
そもそも痣というものは、意図的にできるものではない。だからこそ、わからなかった。
「どういうこと、ですか?」
「薔薇、印。世界、滅ぼす」
犯人は私との距離を一気に詰め、私の顔横に初め指を指していた方の手で、壁ドン状態に持ち込む。
「印、ある。みんな、困る」
狐の面の下、そこは大きな仮面であり、素顔を覗くことは容易ではない。穴すら空いてない、情報が得られないその姿に私はひゅっと喉が閉まる。
犯人は、壁に当ててる手とは反対の手を、ポッケに突っ込むと、携帯用のナイフを取りだした。慣れた手つきで、くるりと回転させ剥き出しになった刃を私の首にあてた。
(怖い、足が竦む……っ)
冷ややかであり、するどい刃をもっているナイフの刃。誘拐されたことで、ナイフを身体に当てられたことなんて数え切れないほどある。それで傷つけられたことも。
……けど、今の状況は違っていて、身体がこれから起こることに対して強く拒否反応を示しているあのだ。
何度だって、死を身近に感じる瞬間はあったけれども、そのどの経験よりも違っている。それ今までの犯人が私自身に向ける感情は少なからず【家】が絡んでいて、その苛立ちや殺意全てが、私に向けられきっていた感情ではなかったから。でも、今は違う。
(この人は私自身を殺しに来たんだ)
他の感情なんてない。真偽は不明だけれども私だけを狙った犯行であり、私を殺すことだけを目的としており、全ての感情がこのナイフに集まっている。
確実な死がそこには存在しているのだ。
……恐怖で身体が動けないなんて言う経験初めてだった。絶対に凪茶が助けてくれる、この犯人の目的は私を利用したなにかであって、全ての感情が私に向けられていたわけじゃない。……そういう確証が自分自身の中であったから。
(初めて向けられた本物の殺意、がこんなに怖いなんて)
ただ一人、私一人だけに向けられた、本物の殺意がこんなにも怖いものだったなんて知らなかった。
「殺す、仕事。存在、ダメ」
何も抵抗ができなかった。いや、怖くて動けなかった。
犯人が手を大きく振りかざし、私の抵抗することも声を上げることも無く、ただただ犯人が振り下ろしたナイフが喉元に突き刺さった。
(痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!)
喉にナイフという異物が突き刺さったことで、声が出せずに刺さった傷口から大量に血が溢れ、私は壁に身体を預けるようにずるずると下がっていき床に座り込んでしまう。
「薔薇、印。世界、滅ぼす」
首にナイフを刺されたことで即死はしない。けれども、頸動脈の損傷が激しければ、大量出血で死に至る。呼吸が出来ても、肺に血が混ざって呼吸器が苦しくなる。
「だから、殺す。仕事、運命」
微かに見えていた犯人の姿が、自分自身の涙からだろうか目に見える景色が霞んでいく。犯人が何かを伝えてくれている声が語尾に向かって消えるように聞こえなくなっていく。
床に着いた手がぬめりとした生暖かいものに包まれた。
(……あ、これ死んじゃうやつだ)
首にナイフを刺されて、大量出血しているところを見て「死なない、大丈夫、生きている」と勘違いした馬鹿な自分を殴ってやりたい。手につたる生暖かい私の血は、自分自身の体と対称的に温もりを持ち続けている。血が、私の体温を奪っていくかのように。
(もう、思考する気力も残ってないや)
どんどん意識が薄れていき、手足が痺れて感覚を失い始める。死を実感させられる。私はもう生きられない。仮に病院搬送なんかされて、生かしてくれても身体の損傷は大きく、社交界の場からは追い出される。凪茶は主人を守れなかったとして、山花家から迫害を受けるだろう。
死ぬとはまさにこの事なのだろう。
私はなけなしの力を振り絞って、これから開くであろう扉に手をかざした。
「……めん、ね…………なぎ、さ」
凪茶の顔を、声を、聞きたかった。生きている姿を、見たかった。凪茶のことだ。エレベーターが降りてくるのを待って、ホームで待機しているはずだ。
――――凪茶は、死なないで。
そんな私の一縷の願いは虚しく、結末を確認できないまま……私はそのまま意識を失った。
「おやすみ、マジョ」
秋桜学園妖使い部! 七瀬。 @___hm0207
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