おはようの挨拶⑤


「にしても美味しかったわね、ラーメン」



 私達はラーメン屋をあとにし、これから乗る電車のホームへと足を進めていた。凪茶の足取りはどこか重く、今でも舌にピリリとした刺激が残っているのだろう。



「うまかったばってん、まだ舌がピリピリする」



 想像通り、凪茶は口元に手を当てて苦々しい思い出を振り返るように嫌な顔をした。どうやら、私の想像を遥かに超えるほど凪茶の舌は疲労してしまったようだ。



「次は姫里お嬢様が頼んだ豚骨ラーメンが食べたかばい」


「なら私は凪茶の頼んだラーメンを食べようかな。苦味がないのにあんなに辛い品は中々巡り会えないわよ。昔、料理長がボヤいていたのを思い出したわ」


「パーティ料理とかやと普段並ばんもんまで作らないかんけん、毎度毎度頭悩ましぇとったね……料理長」



 料理を学びそちらの道を進んだものの、やはり得意・苦手の分野は存在する。料理長は香辛料を使った料理がとくに苦手だったと記憶している。ましてや、毎日作りなれている料理というのは、フレンチ系の料理で香辛料を使った料理とは無縁の存在。パーティという行事は料理長にとって苦痛なイベントだったと呟いていたのを聞いたことがある。



「でも、凄く美味しかった記憶があるわ」


「……うん。なんか、料理長ん料理が恋しゅうなってきてしもうた」


「奇遇ね、私もよ」



 でもこれから全寮制の高校に入るから、料理長の料理が食べれる日なんて長期休暇で家に帰る時ぐらいだ。でも家に帰っても私の味方をしてくれる存在なんてものはほとんど居ないので、本当に何かあった時ぐらいしか戻りたくないのが本音だ。

料理が恋しいぐらいで、帰る理由の決定打にはならない。料理長には申し訳ないけど。



「あっ、姫里お嬢様。もうそろそろ改札口に着くよっ」



 頭上の案内板を見ながら一足先に進んでいた凪茶が、突き当たりの角まで小走りで走っていき私を誘導してくれる。



(さっきまで辛さでやられてたのに、もう元気なのね)



 凪茶の変わり身の速さ、いや元気になるスピードの速さに思わずくすっと笑いが零れそうになる。



「まって、今行くわ」



 私は自身の持っていたトランクをグイッと引っ張り、早く凪茶に追いつこうと大きな一歩を踏み出した。凪茶はいつも私よりも少し早く歩く、歩くスピードの違いと言うよりも歩幅が違う感覚だ。早く追いつこうと小走りへと歩き方を変えると、凪茶から一瞬視界を外した隙に、私の前から七深の姿が消えていた。いや、消えていたというよりも、下へと落ちていたのだ。



「凪茶!?」


「いっだぁぁっ!」



 私と凪茶の声が同じタイミングで駅内に響きわたる。凪茶は思いっ切り転んでしまったのだ。私はトランクを急いで引っ張って凪茶の元へと近づくと、近くにトランクを置き、凪茶の前にしゃがみこむようにして凪茶と視線を合わせた。



「大丈夫、凪茶?」


「んんー、だいじょばんばいー!」



 凪茶は顔だけひょっこりはんとあげて、涙ぐんだ顔を見せてくれた。

 おでこ部分に派手なたんこぶが出来てしまっていて、軽く擦った傷も着いている。唯一の救いは出血がないことだろう。……にしても、凪茶が転ぶなんて珍しいこともあるものだ。



「立てる?凪茶」


「立てる、立てるばい……」



 涙声で凪茶がゆっくりと立ち上がり、痛々しいおでこにそっと手を当てた。あの怪我はかなり痛そうだから、暫くは痛みが引きそうにないわね。

凪茶の気持ちが落ち着くまでの時間、私は凪茶が転んだことで飛び出てしまった荷物をかき集めていく。といっても飛び出たものはポッケに入れていたスマホとキーケースぐらい……ん?



(なにこれ)



 キーケースから飛び出たのだろうか、見たことの無い鍵が落ちていて、私はそれを拾い上げる。その鍵のデザインはかなり派手な装飾をされてあり、薔薇の形を象ったものだったけれども、何かの鍵というよりもおもちゃという印象が強いものだった。鍵の縁部分には、【Please pick it up】と書いてあるリボンがついてあった。日本語訳にすると。



「拾ってください、ね」



 私は鍵を透かすようにして空に掲げる。怪しいリボンが着いている以外は、凄く可愛らしいデザインをしたものだ。いかにも怪しいそのリボンが引っかかるものの、可愛らしいデザインに惹かれてしまう自分がいるのもまた事実。……貰っていっちゃうか。私はポッケにその鍵を突っ込むと急いで立ち上がった。



「凪茶の散らばったものは一通り集めたわよ。怪我の状態見せてくれる?」



 凪茶はこくりと頷くと、たんこぶを覆い隠していた手をずらして、たんこぶの状態を見せてくれた。

たんこぶの状態は、転んだ時よりかは赤みが引いている気がするものの、まだ腫れは治まっていない状況だ。



(……めちゃくちゃ痛そう)



 たんこぶという名前が世界に広まってしまったものの、正確には「皮下血腫」と症状である。

これは打撲後に皮膚の中にある細い血管が破れ、皮膚の下に血液が溜まった状態を指す。

頭皮は血が出やすく、すぐ下に頭蓋骨があるために溜まった血液が内側に広がれず、外側に広がって皮膚がふくらんでしまうことから、たんこぶが出来やすいと言われている。

 そして頭をぶつけていても、たんこぶが出ればそこまで重症じゃないという話は真っ赤な嘘である。



「目眩や痙攣の症状、視界なんかは問題ない?」



 頭を強く打つということは、脳に影響がある可能性があるということだ。普通に会話が出来ることから、記憶的な部分などには問題がないと思われるものの、視界については転び方を見ていないから目の方にダメージがいったかわからないし、私という第三者からは症状が出ているかは検討すらつかない。



「特に問題は無かて思う」



 凪茶は何度も目をぱちぱちとして、遠いところを見たり私の顔を見たりして、そう答えた。

 たった少し転んだだけで、大袈裟だと言われればそこまでかもしれないけれども、今ところ問題がないことに安心だ。



(……だって、私には凪茶しかいないから)



 一つ。凪茶と別々の高校生活を送って、分かったことがある。それは私は自分自身が想定していた以上に山花凪茶という存在に助けられていたということ。

ご飯を食べる時だって、体育でペアを組む時だって、少しだけ嬉しいことを共有したくなったときだって、一人でも、凪茶がいても、自分自身がいれば気持ちに対して大差なんて無いと思っていた。凪茶と一緒に長い時間居たからこそ、凪茶という大事な存在に気づくことが出来なかった。

凪茶が視力を失う。それは山花家からの追放を意味する。使えない人材は切り捨てていくのがお父様のやり方で、山花家のやり方でもある。これは、お父様が上に君臨している限り、覆ることの無い永遠の事実だ。



「……良かった」



 少し転んだだけ、だけれどもその一瞬の判断がマイナスな方向に転ぶ可能性だって捨てきれない。



「姫里お嬢様、そげん心配してくれると?」


「当たり前でしょ。私にとって凪茶はとっても大事な人なんだから、いなくなったら困るわ」


「へへっ、姫里お嬢様にそげんこと言わるーなんて嬉しか!」



 いつも言ってるのに、凪茶はいつもこういう。何度も何度も私が凪茶のことを大事だと言うと、いつも嬉しそうに笑ってくれる。何回伝えても、いつもにこにこと嬉しそうに笑ってくれる。

 こういう優しいところが本当に好きだった。



「危険な症状が出てないなら近くの自販機でペットボトルなんかを買って少し休みましょうか。これから症状が出るかもしれないし、休息を摂る必要があると思うわ」



 小銭崩して持っていたかしらと、万札しか入ってない可能性を考えながら、カバンから財布を取り出そうと、カバンのチャックを開けようとすると、凪茶の手が私の手に被せてきた。



「だめっ」


「え?」


「うちんしぇいで休憩とってしまうと、入寮受付時間に間に合わんけん。そんまま行こ?」



 凪茶の大きな金色の瞳が、私の顔をじいっと見つめた。凪茶はとても可愛らしい顔をしている。大きくつぶらな瞳は、私の判断を簡単に鈍らせてしまうほどに魔性の力を持っている。



(顔が良い……可愛い…………けどっ)



 ここで折れたら、私の心配は水の泡というやつだ。



「……冷やさないでいく方がダメ。待ってて」


「あっ、待って姫里お嬢様!」



 私は近くにあった自動販売機に駆け足で寄っていき、そのまま飲み物を購入。凪茶の止める暇なく、すぐさま戻ると凪茶に買ってきた飲み物を突きつけた。



「凪茶が時間を遵守したいのはよく分かるわ。でも私は冷やして欲しいの」



 わがままかもしれない。けど、凪茶の言い分もわかる。だから、これは私からできる凪茶どのお願いを叶えるための最大限の譲歩だ。



「時間管理が甘くなってしまった私にも原因はあるわ。慣れない土地での移動にどれだけ時間がかかるか分からないもの。だから凪茶は確実に間に合うように、余裕を持って行動したいのよね」



 凪茶は時間計算が甘い自覚があるからこそ、どれだけ時間がかかる変わらない未知に関しては、何度も何度も考察を重ねる。今回みたいに、入寮受付時間を過ぎてしまうという、取り返しのつかないことがある可能性なら尚更だ。



「なら電車の中で冷やして進めばいいわ。それなら私たち二人ともの意見が通るでしょ?……これで納得してくれないかしら?」


「姫里お嬢様がそう言うなら……」


「ありがとう、凪茶」



 私はパッと顔を上げ、凪茶に向けて最大の笑顔を向けた。凪茶は飲み物を受け取ると、大事そうにギュッと抱き締めた。



(……抱きしめたらぬるくなっちゃうのに)



 けれども、凪茶はきっと私の気持ちと配慮が嬉しかったんだろう。凪茶の口角がゆるりとあがり、目を細めながら「へへ」と可愛らしい声で笑った。

 凪茶がいつも通りに戻ってよかった。……たんこぶという大きな傷は出来てしまったけれども。



「それじゃあ行きましょうか。動ける?」


「もちろんばい!いつでん動くるよっ」


「ふふっ、怪我人という立場なんだから、無理だけはしないでね」


「はいっ、姫里お嬢様!」



 私は凪茶の歩調に合わせるように改札口へと向かい、ICカードを利用して改札をくぐる。これから乗る電車がくる2番ホームへ向かおうと、エスカレーターへ向かったものの。



(点検中なんて、少しめんどくさいわね)



 エスカレーター前に出ていたのは、点検中という看板。階段かエレベーターを利用してホームに下がる必要がある。……凪茶は一応怪我人。足を怪我している訳では無いけど、不用意に歩かせて疲れさせるのはあんまり良くない。

頭上にある発車標を確認すると、私たちが乗りたい特急は今から来る電車の一本後。時間は十分にある。



「エレベーター利用しましょうか」



 トランクの向きを変えて、エレベーターへと向かい凪茶と私が揃ったところでボタンを押す。既に私たちがいる改札口にエレベーターが居た為、開ボタンを押すとゆっくり扉が開く。



「あ、既に来ていたのね」



 先に乗っている乗客はいないかな、と確認するように開いた扉を覗き込むと、そこには黒いパーカーに身を包み、狐の面をつけた怪しげな人物が立っていた。



「あの、降りま……ひゃっ!?」



 完全に油断していたのだ。開いた扉に半分ぐらい身を乗り出していたから、手を引っ張られれば勢いよくエレベーター内に引き込まれてしまう。



「姫里お嬢様っ!」



 凪茶が一拍遅れて私の手を掴もうと手を伸ばすものの、私の身体は既にエレベーターの中へ。



「凪茶っ!」



 私は凪茶の手をつかもうと、身体の向きを変えようとするものの、強く引っ張られた勢いを覆すのは簡単なことではない。

それに加え、途中で狐の面をつけた人物が手を離したことで、より身体をねじって凪茶の方に手を伸ばすことなんて難しい。私は引っ張られる力に逆らうことなんて出来ずに、壁に身体を打ち付けた。



 ――――ガタンッ。



 私の身体が壁に打ち付けられるとほぼ同時に、エレベーターのドアが閉まってしまった。



「ま、って」



 悪あがきでも言わんばかりに、閉まった扉に向かって手を伸ばすものの、無慈悲にも既にドアは閉まってしまっており凪茶が助けてくれることなんてない。

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