第8話 安全地帯から、異世界の戦場というマウンドへ

『なあ、達夢兄貴

『如何した、和夢よ』

『俺達、甲子園三連覇しちまったな』

『そうだなぁ。楽しかったな』

『結局、全部完全試合になっちまった』

『なんだよ、冷めたような顔してよぉ』

『……俺達の球を真正面から受け止めてくれる奴は、ラノベで描けるような異世界にしか無いのかも、って思って』

『自惚れんなって。きっとMLBアメリカには、俺達も腰を抜かすようなすげーのがいるって』

『そうかな』

『じゃなかったら、異世界に行きゃいい。お前の魔球なんて鼻で笑っちまう程にすげーのがいる筈だ』

『異世界に行きゃいいって。トラックに轢かれろってのか? ……達夢兄貴は変わんねえな。あんなある』

『そりゃそうさ。バットは最高の魂だからよ。大体、MLBアメリカじゃ俺達は敵同士だ。お前のへなちょこ魔球なんか全部打ち返してやる』

『……ありがとよ』

『なあ、和夢』

『如何した、達夢兄貴

『俺達の夢、忘れてねーよな。どこまでも駆け上がってやろうぜ』


「ああ」


 と拳を伸ばした先に、18の兄はいなかった。代わりにを納めた藍色のバットケースが立てかけてあった。

 異世界に来たのに、地球の夢はまだ見るのが最近の悩みだった。


「……ちっ、目が覚めちまった」


 譫言を自覚しながら、体を起こした。

 ベッドが固い事に文句はないが、それでも起きてしまう夜はある。一週間も地下にいると日時計が狂って仕方ない。

 横になって熟睡を待っていると、隣の部屋から物音がした。研究室からだ。


「く……うっ……うっ」


 仄かに扉の隙間から、灯りが零れている。悪いとは思いながらも覗くと、机の上で草臥れているクラミナの背中が見えた。ローブのフードを取り、神に祈るように見上げる彼女の頬には、擦り傷が見える。

 つい先程まで、外に出ていたのだろうか。ハイポーションの取引があると言っていたが、それだろうか。

 もしかしたら取引相手とトラブルがあったのかもしれない。


「……どうして、私だけ……どうして私だけ、こんな風に狙わなければ……っ!」


 ハイポーションをまた生成する事もなく、泣き始めた。八つ当たりされた紙が、床に散らばる。孤独に髪を掴んで、咽ぶ小さな背中を、扉の隙間からそっと眺める。


 見なくとも、噓泣きなんかではない事は悟れた。

 何せ、世の為人の為に駆除される側に彼女は立っているのだ。一体どれだけの人間がそんな境遇に耐えられるというのだろう。


 それでも、夜が明ければ和夢の前では無邪気な研究少女として振る舞うだろう。

 狂わないように、夢への獣道で踊り続けるしかない。


「……強がりやがって」


 と、聞こえないように呟くのが精一杯だった。

 夢と現実の狭間で、強がりをするしかない時があることは、痛いほど知っている。


 暫くすると、クラミナが机に突っ伏したまま動かなくなった。

 今度は部屋に入り、クラミナまで近づく。泣き疲れて、寝ているようだ。

 ソファに掛かっていた毛布を、丸まった背中にかけてやる。だらしなく寝息を立てる様は、普通の女の子だ。

 まだ、18歳らしい。顔立ちは小学生でも通じるのだけど。


「……このペン、血が滲んでる」


 クラミナの手元に転がるペンだけじゃない。散らばった資料や、実験道具にも赤い痕がある。縫い糸が解れたグローブのように、身の程知らずの夢を追う少女の轍を雄弁に語っている。


『“賢者の石イェヒオール”?』

『私のです』


 折り重なる無数の紙に、その単語が散逸していた。つらつらと書かれた記号や式の意味は理解できない。でも、痛みで書かれた願いだという事は伝わる。

 一枚一枚捲る。その度、一人実験と失敗を繰り返してきたクラミナの真剣な顔が浮かぶ。


「夢、か……」


 そういえば、和夢の国外逃亡の手筈は順調に進んでいるらしい。

 後2回目覚めたら、和夢はクラミナを置いて陽の下に出る。


 ……それで、いいのだろうか。

 空のフラスコに映る情けない自分を眺めながら、思わず呟いていた。


■      ■


 国外亡命当日。朝日も知らない地下室最後の朝、和夢はテーブルの上に書置きを見た。


『昼頃までに戻ります。最後に思い出に残るよう、美味しいもの買ってきてやりますよ!』


 そんなもの、要らないのに。錬金術の研究にだって莫大な金がいるからこそ、夜中に闇市でハイポーションを取引するくらいに逼迫しているというのに。

 強がりやがって。また和夢は呟いた。


『あと、テーブルに置いてあるもの、問題ないか確かめてもらってよいですか? もし合っていたら喝采です。餞別です』


 読んだ時には、異世界には不釣り合いな二つの野球道具が見えていた。


「野球ボールと、グローブじゃねえか」


 重さも、触りも普通の野球ボールと変わらない。何から何まで完璧だった。

 画像を見ただけで、作れる。錬金術とはそんな神業が可能なのか。


(俺の手に馴染む……)


 完璧なだけではなく、特にグローブは付け心地がどこかよかった。

 勿論、一流メーカーの商品の方が、野球する上では最適だろう。

 しかし、クラミナのオーダーメイドは、体の一部のように和夢と同化していた。

 相手の事を必死に考えながら、創った温もりが感じられた。


 その時、人影が目に入る。


「誰だ!?」

「敵ではない。運び屋タンカだ。クラミナさんからの依頼で、あんたを亡命させに来た、カズムとやら」


 クラミナとは正反対の、短髪の青年だった。敵意ではなく、“ビジネスをする人間特有の義務感”が瞳から垣間見える。

 このタイミングで来たと言う事は国外逃亡の手助けをする存在なのだろう。だが肝心のクラミナがいない事に、和夢は眉を顰める。


「待ってくれ。クラミナがまだ帰ってきてない。せめて一言御礼をしてからにしたい」

「駄目だ。買収した街の衛兵が担当する時間には限りがある。今すぐ出立する」


 有無を言わさぬ運び屋タンカの背中に従い、渋々木製バットを背負い地下道を進んで地表に出る。久々の太陽が眩しく、目が焼ける。

 荷台があった。荷物に紛れて国から出るらしい。


(……いや、考えるな。俺がここに残っても、彼女の為には何もできない)


 後ろ髪を引かれる思いで荷台に乗ろうとした時だった。

 雑踏の方から驚嘆の声が上がった。


「おい、聞いたか――“結晶堕天サンキャッチャー”が捕まったって!」

「……」


 久々の日差しが、冷気のように感じられた。

 クラミナが捕まった?

 こんなにあっさりと、彼女の夢が終わる?


 背後では、クラミナの夢が詰まった研究室への入口が沈黙していた。

 難しい式が書かれた束。“賢者の石イェヒオール”に繋がる理論。

 身の程知らずの夢で積み上がった部屋が、和夢には居心地が良かった。


「ふざけんな……!」


 そのすべてが、ここで終わるなんて。


「どこへ行く」


 自分でも気づかぬ呟きも歩みも、後ろから運び屋タンカに肩を掴まれ、止められる。だが逆に引き込もうとカズムがその腕を引っ張る。


「クラミナから金貰ってんじゃないのかよ。クライアントを守らなくていいのかよ」

「頼まれたのはあんたの保護だけだ。クラミナ氏本人は範囲に含まれていない……ここで行けば、クラミナ氏の想いを踏みにじる事になるぞ」


 反論はしなかった。正しいと思った。

 課された役割さえ果たせれば、それでいい。そのスタンスは、野球では当たり前だった。ピッチャーだって、ライトに飛んだ打球を追っていたら話にならない。

 自分の役割は、クラミナが用意したお膳立てに従い、国外へ逃亡する事だ。


 それを分かった上で、和夢は運び屋タンカの手を振り払う。

 出来る事は何もない。理性が冷静に諭してくる。

 だけど、本能が体を突き動かす。


「悪いな。運び屋タンカ。今日は臨時休業にしてくれ。やりたいことが出来た」

「おい! あんた!」


 言い切った時には、既に運び屋タンカは路地の角へと消えた。

 もう安全地帯へ後戻りはできない。でも、これでいい。

 異世界の事は知らない。魔術の事も、錬金術の事も良く分からない。

 だけど、こんな摩訶不思議な世界にも、青春の象徴、即ち“夢”がある事を知った。

 “賢者の石イェヒオール”を追い求め、世界と戦う少女を知った。


『じゃなかったら、異世界に行きゃいい。お前の魔球なんて鼻で笑っちまう程にすげーのがいる筈だ』


 そんな声が脳裏に溢れる。

 達夢兄貴が置いていった木製バットが入ったケースへ背中越しに触れる。


「ああ、兄貴。すげーの、いたわ」


 安全地帯から、異世界のマウンドへと飛び出す。

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