第24話 リープ3回目(8)
夏希にはそれが滑稽だった。いともたやすく土下座ができるのはなんのためなのだろうと、嘲笑さえ浮かんだ。
「今更謝られても許す気もないし、あなたと同じ空気だって吸いたくない。だからもう終わりにしてほしいっていうのが、あなたに対する最後のお願いなの。分かる?」
胸が痛かった。茜を産むまでの五年間、胸が痛まない日はなかった。自分で覚悟して突き進んで来た道であるとはいえ「ひょっとしたらいつか浮気を止めてくれるんじゃないか」と淡い期待を寄せた瞬間もあったからだ。
しかし新しい浮気を知るたびに、どん底に突き落とされてきた。英明に期待をしてしまう自分にも嫌悪した。憎しみの薪を次から次へとくべてきた。それを終わらせるためには、もうここで別れるしかない。
「そんな……。俺は夏希のことも茜のことも心から愛している。だから別れたくない」
「はあ?どの口が言ってるの?私たちのことを本当に愛しているのなら、こんなことはできないでしょう。あなたが愛しているのは、川添英明という自分自身だけよ。不倫をした女の子たちのことも、私たち家族のこともちっとも愛していない」
「ちがう!俺は一度にたくさんの女性を愛することができるだけなんだ!ほら。一夫多妻制の国だってあるだろ!?そういうことだよ!今は多様性の社会を目指しているんだろ?だったら俺みたいに一度に複数の人を愛してしまう男のことを認めてくれてもいいじゃないか」
もう溜め息しか出なかった。
「だったら結婚しなきゃよかったじゃない。結婚って一夫一婦制っていう制度よ。その中に飛び込んだのはあなたでしょう。そのケリくらい、自分でつけなさいよ」
「嫌だ。別れたくない」
「私は別れたい。だって私にバレなきゃ大丈夫だって思ってたんでしょう?」
見下ろした視線には軽蔑と、憎悪と、嫌悪が入り混じっている。夫を視線で殺せるのではないかと思ったほどだ。
「……もう、ダメなのか?」
今にも泣きだしそうな男に、夏希はなんの感情も抱かなかった。それがまた可笑しくて嘲笑する。三回のタイムリープを思えば、トータルで約二十五年一緒にいたことになる。二十五年もかけてこのような末路にならなければならないことを、滑稽を呼ばずしてなんというのだろうか。
「最初から終わってるでしょ」
三度目の今回に関しては、初めから終わっていた。ただ、茜との時間を取り戻すためだけに夏希は生きていた。こんな男のために二十五年も費やしたのかと思うと、涙さえ出なかった。
「明日には出ていくから。荷物はあなたがいない間にとりにくる。養育費や慰謝料についての詳しいことは弁護士を通してまた後で。納得できなければ、あなたも弁護士たてて大丈夫だから」
茫然自失の英明に淡々と事務的なことを告げる。テーブルに広がった書類を綺麗に集めて、また茶封筒へと入れ直す。離婚届だけはきっちりとテーブルの上に置いたままにした。
「これ。ちゃんと書いてね」
「……本当にそれでいいのか?」
夏希は「はっ」と乾いた笑いを落した。
「本当にそれでいいのかは、私じゃなくてあなた自身に問いかけてほしかった。浮気をする時にね」
英明は「ごめん……」と小さく呟いた。しかしこれだけで夏希の溜飲が下がるわけではない。もう一つだけとっておきの隠し玉があった。
「ああ、そうそう。養育費は絶対に一括で頂戴ね。あなたが早死にしたら、茜が可哀想でしょう」
「は……?」
「茜への愛情があるなら、早死にする前にちゃんとしてね」
「……どういう意味?」
「あなた、知らないの?」
「なにを?」
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