師走はいつも忙しい 後編

 次の日、私は会社に向かう前に立ち寄るコンビニで、いつも買うコンビニ弁当のコーナーをスルーして、その隣にあるスープコーナーを目指した。


「……本当に結構ある」


 最近はフリーズドライも充実しているからと、豚汁やけんちん汁、スープもミネストローネにブイヤベースと揃っている。

 ちらりとおにぎりのコーナーを見ると、今日一番多いのはシャケマヨのようだった。シャケマヨに合わせるんだったら、あっさりした汁物のほうがいいかな。

 結局買ったのは、シャケマヨおにぎりに、ほうれん草とたまごのスープだった。スープひとつ買うと、安心感があるなと、ぼんやりと思った。

 毎日仕事で忙しく働きつつ、休みの日に勇気を持ってデパートへと出かけることにした。

 私は泉さんのことを、本当になにも知らない。

 休みの日はなにをしているのか。そもそも迷宮喫茶に休みはあるのか。

 家ではなにをしているのか。料理やコーヒー以外に趣味はあるのか。

 ただ料理については、軽く言ってのけているけれど、夜にコンソメを仕込む程度には思い入れがあるんだろう。革製品売り場をぐるっと回ったけれどいいものが見つからず、今度は布製品売り場をうろうろとする。

 最終的に文具売り場に辿り着き、あれこれと見繕ってひとつをプレゼント包装してもらって、鞄に収めることにした。

 私は泉さんのことを、本当になにも知らない。

 喜んでもらえるかわからないし、もしかすると迷惑かもしれない。ならばせめて捨てても罪悪感がないように小さいものを買うことくらいしか、私にできることがなかった。


****


 日本は残念ながら、クリスマス休暇はない。

 当然ながらイブも仕事、クリスマスも仕事で、私たちは慌ただしく働いていた。それでも私はなんとか仕事を前倒しで進め、今日は定時に退社しようとせっせと仕事に励んでいたときだった。


「神奈さん、今先方から連絡があって……今年中と今年度中を間違えたらしいんだ」

「はい……?」


 日本語。今年と今年度だったら、三ヶ月は違う。

 まさかまさかと思って冷や汗をかいている中、部長から心底申し訳なさそうな声を上げられた。


「最低でも、今日中に片付けなかったら、他の予定が間に合わないと」

「……頑張ります」


 もしこの作業を片付けなかったら、他の予定が全部押す。そうなったら、最終日にどうなるのか想像ができない。

 私は泣きながら、三ヶ月締め切りをミスっていた仕事をせざるを得なかった。

 先方のミスなのに、どうして自分がそれをカバーしないといけないのだろうという泣き言は、許されなかった。

 先方のミスを片付けている中、周りは気の毒な物を見る目で先に帰っていく。そんな中、多岐川さんが、ものすごく心配そうな顔でこちらに声をかけてきた。


「仕事、半分くらい手伝おうか?」

「多岐川さん……でも、今日は定時に終わるじゃないですか」

「さすがにイブに彼氏に会えないのは可哀想でしょ。ふたりでやったら、まだ早く終われるからさあ」

「多岐川さん……年始開けにランチおごらせてください」

「あはは、期待してるー」


 多岐川さんに半分やってもらい、残りの半分を、私は必死でパソコンに打ち込んでいった。

 間に合え、間に合え。

 どうにかカタカタとしている内に、時計の針は九時を差した。

 全部打ち込み終え、データを送信した……終わった。終わった……。


「お疲れー。ご飯どうする?」

「お疲れ様です……でも今日って、どこも開いてないじゃないんですか?」

「それもそうね。それだったら、早めに帰ったほうがよさそうね。でも、神奈さん。あなた……」


 私の鞄には、前にデパートで買った泉さんへのプレゼントが入ったままになっている。

 今から地下道を探し回っても、会えるのかな……会えないという算段のほうが強い。私は「気にしないでください」と首を振った。


「クリスマス! 明日が本番だから! 今日はイブだからー!」


 電車に向かう途中、JRから帰る多岐川さんにそう励まされた。

 私は疲労と空腹でくらくらする体を引きずって、地下道から私鉄の駅を目指した。

 そうだ、明日は今日ほど長い残業にもならないだろうし、五時には終わらなくても、七時までには会社を出られるだろう。それでも。それでも。


「……会いたいなあ」


 お腹がキュルリと鳴った。

 その音はひどく寂しく聞こえた。

 そのときだった。普段歩いている地下道よりも、だんだん光源が明るくなってきたことに気付いた。

 もう、何度も何度も迷い込んでいるそれである。


「まさか……」


 あちこちの店舗から流れ込んでくるクリスマスソングは聞こえない。クリスマスイブとは思えないほど、人がいない。

 それでも。私はあれだけ重かったはずの体を必死で走らせていた。

 道沿いに走って行った先には、案の定。

 噴水が水しぶきを上げていた。気のせいか、周りはクリスマスリースらしく飾られ、ポインセチアの鉢植えが置かれている。


「はは、ははははは……」


 ブリキの看板で、【迷宮喫茶】と書いてある。


「メリークリスマス!!」


 私がそう言って大きな音を立ててドアを開けたら、ぎょっとした顔をして泉さんがカウンターにいた。


「……いらっしゃい。えらい疲れた顔やなあ」


 そうゆるりと笑われた。それに私はばっと手で顔を隠す。


「すみません……このところ残業続きで疲れてまして……」

「いやいや。ちゃんと眠れとったかあ?」

「なんとか」


 私が頷くのと、キュルルルルルル……という腹の虫が鳴くのは、ほぼ同時だった。

 久しぶりに会ったというのに、こんなことってないでしょ。

 恥ずかしさのあまりにいたたまれなくなっていたら、泉さんはカラカラと笑う。


「えらい頑張ったんやねえ。そこ座りぃ。もうお客さんたちは帰ったし、今日はもう来ぉへんやろ」

「……そうなんですかね?」

「皆、今頃はどこかでごちそう食べとる頃合いやから、喫茶店には来んわなあ。今日は店長気まぐれメニューで」

「あはははは……前の気まぐれブレンドみたいなのですか?」

「せやせや。残り物で堪忍な。せやけど、残り物やから、今日はまけたるわ」

「え?」


 まけるって……タダ?

 私は意味がわからず、ポカンとしながらも、ひとまずカウンターに着くと、泉さんはミキサーになにかを入れて、ガーッとかき混ぜはじめた。それを小鍋に移して温めると、「先これ飲みぃ」と出してくれた。


「野菜ポタージュや」

「わあ……ありがとうございます。色、すごいですね?」


 気のせいか、灰色の見える。でも匂いがいいから、飲めるとは思うんだけれど。


「おう。残り物の野菜を全部ガーッとやって、コンソメスープと牛乳で割ったから」

「ええっと……いただきます」


 匂いを嗅ぐと、やっぱりいい匂い。私はそれをひと口スプーンですくっていただいた。

 ……これ、いい匂いだと思ったら、ごぼうだ。それに多分にんじんに、じゃがいも、小松菜……これ本当に残り物だったのかなと疑うような、合わせたらえぐくなりそうな組み合わせも、コンソメスープと牛乳で割ったらまろやかな味わいになっている。


「おいしいです……でもこれ、本当に残り物だったんですか? なんか申し訳ないような……」

「かまへんかまへん。今日は残り物の始末に付き合うてもろてるだけやから。今メインつくったるから、ちょっとトースト食べて待ってて」


 それで出されたのは分厚いトーストを四つ切りに切り、バターをたっぷりとしみこませたトーストだった。イチゴジャムにハチミツまで添えられている。私はひとつはそのままガブリといただき、ひとつはイチゴジャム、ひとつはハチミツ、最後のひとつはジャムとハチミツを混ぜていただいた。

 さっきまで本当に疲れ切っていたのに、バタートーストのこっくりとした味わいが、疲れを癒やしてくれるようだった。それを満足して食べていたところで、「はい、メイン」と差し出された。

 それはデミグラスソースのかかったハンバーグだった。野菜も添えられて。私はそれをモグッと食べた。肉。自分で捏ねてもこれだけ柔らかくならない。肉。疲れた体に染み渡る。肉、なんかもう、本当に。


「おいしい……」

「そんな泣かんでも。これくらいは普通過ぎるくらい普通やろ。でも喫茶店でステーキなんか出されへんし」

「最近ほんとーっに、食い道楽の大阪に住んでいるとは思えないくらいにひもじかったので、いいんですよぅ。おいしくって温かいものって、こんなに人を幸せにするんですね……カロリーとか気にしている場合じゃないですもん。たまには肉食べないとやってられないですよ、本当に……本当にありがとうございます……」

「だから、そんな泣かんでも」


 好きな人の焼きたてのハンバーグを食べながら、わんわんと泣く女。

 どう考えてもシュール過ぎて、我ながら「どうなんだろう」と思いつつも、気付かない内にストレスを溜め込んでいたんだなと実感した。

 最後に出してくれた飲み物は、いつもだったらコーヒーなのに、今日に限ってはホットルイボスティーだった。


「さすがにこの時間にカフェインはあかんやろ」

「……本当にごちそう様です。あの、本当にお金……」

「せやから、今日は残り物出しただけや。それに、買ってもらわなあかんもんは別にあるしなあ」


 そう言いながら、なにかを取り出した。綺麗な包みにくるまれたそれは。


「……シュトーレンですか?」

「せやせや。なんや食べに来ぇへんし、もう俺が食べよかなあとも思ったけど、約束したんになあと思たら、待たなしゃあないやろ」


 ああ、やっぱり。

 シュトーレンは本当だったら、クリスマスまで切り分けて食べるドイツの菓子パンだったはずだ。時間間隔が少しずれているってことは、泉さんのほうの時間では、既にクリスマスは終わっているんだろう。こっちはもうそろそろイブが終わりそうな頃合いだけれど。


「あの……これ。じゃあ、お金……」

「ブッブー。今日限定で、現金払いはあかん」


 泉さんに指でバツをつくられ、私は訳がわからないとポカンと口を開ける。


「ええっと……ならどうやって支払ったら……」

「クリスマスプレゼントちょうだい。それでまけたる」


 そう言って手を差し出された。

 私はおずおずとその手を見る。


「ないんやったら、ちゅーでもかまわんけど? ああ……最近はセクハラには厳しいんやったねえ」

「あ、あの……これっ! 受け取ってください!」


 私は慌てて鞄の中から、プレゼントを差し出した。それに、泉さんは目を瞬かせた。


「ほんまに持ってたんやねえ……」

「プレゼントちょうだいって言ったの泉さんじゃないですか?」

「いや、まあ……そっちやったら時間どうかわからんし……クリスマスの押し売り大サービスのつもりやったんやけど、まあ……まあ……」


 泉さんは言葉にならないと言った様子で、口元を抑えてしまった。


「開けてもええ?」

「ど、どうぞ……私も、泉さんがなにが好きなのかわからなかったんですけど……」

「それはお互い様やん。俺も、神奈さんが食べるのが好きやっちゅうことくらいしか知らんもん」

「あ……」


 そういえばそうだった。名前を教え合って、電話番号も交換しても、なにも知らないことすら、お互い様だった。

 我ながらなんて押しつけがましいと反省している中、泉さんはラッピング包装のリボンを解き、中の箱をパカリと開けた。


「これ……」

「本当に困ったんですけど……いつも注文取ってらっしゃいますから、使いやすいボールペンがあったらいいかなあと思いました……万年筆とかも考えたんですけど……インクの詰め替えが大変そうだったんで……これなら芯を交換したら使えますし……」


 銀色のシンプルなフォルムながらも、運動工学に基づいて持ちやすいとされているものは、ネットでも調べた限り、文具マニアの中ではかなりの評判のものだった。

 泉さんはそれを手に取ると、指先でくるっと回してみた。


「なるほどなあ……おおきに。大切に使わせてもらうわ」

「あ、はい……!」

「ありがとなあ、神奈さん。ほんまにありがとう」


 その言葉に、私は体温が上がっていくのを感じた。

 多岐川さん曰く「今時の若い人は『おおきに』って使わないよ? 商売やってる人だったら、人懐っこさアピールするために使う人もいるけど」と聞いていた。

 泉さんが、店長の仮面を剥いでくれたんだと、そのときに気付いた。

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