つかの間の休息とほんの少しの下心 後編

 修学旅行生は、関西風の分厚いトーストを物珍しげに食べていた。関東だとトーストはサクサク食べるという印象だったのに、関西では表面はカリッとして中はもちっとする印象だ。切り方だけでこうも食感が変わるんだと感心したのを覚えている。

 泉さんはのんびりと言った。


「関東と関西に食パンが普及したんは、だいたい明治って言われとるけど、関東のパン屋と関西のパン屋やったら、そもそも需要が違ったんやな。だから関東と関西やとトーストの分厚さが違う」

「需要? どっちも食べるものなのに?」

「せやせや。関東では、三時のお茶の時間のサンドイッチ需要から、食パンが普及したんや」

「サンドイッチ……?」

「イギリスやったら、三時はお茶と一緒にお茶菓子やサンドイッチを食べる時間やからなあ。それに対して、関西では朝ご飯としてのトースト需要が広まった。せやから、朝ご飯用にと分厚めのトーストの需要が広がった。まっ、諸説のうちのひとつやな」

「なるほど……」


 考えたこともなかった。お茶菓子と主食の違いだったなんて。そりゃ分厚めのパンでサンドイッチをつくることもあるけれど、あれって挟むときにお皿で力一杯抑えないといけないから大変なんだよね……。

 私がそう感心していたところで、修学旅行生が「へえ~!!」と楽しげに聞いていた。


「大阪って言うと、粉もん文化だと思ってたから、そういう話を聞けるとは思ってなかった!」

「まあ、せやね。食パンは大阪よりも神戸……兵庫県やからな。ちなみに関東やったら東京じゃなくって横浜発祥やね」

「大阪のものって言わなくっていいの?」

「そんなしょうもない嘘ついてどないすんねん。はい、次ビーフシチュー頼んだ子ぉ」

「はあい!」


 どうも修学旅行生たちは、迷子になった不安が、泉さんの食事を待っている間の豆知識と、出されたパンやご飯のおいしさでどうにか霧散したらしい。

 皆がもりもりと食べているのを眺めている間に、「はい、神奈さん」と差し出された。

 関西風の分厚めのパンでスクランブルエッグを挟んだ卵サンドに、コンソメスープ。サラダのセットだった。


「今日は賑やかな中、お待ちどうさん」

「い、いえ……! いただきます!」


 パクッと食べると、パンがふっくらもっちりとしていておいしいのはもちろんのこと、スクランブルエッグは思いのほか卵の味がしっかりとしていておいしい。それに。サンドイッチは、基本的にバターかマヨネーズを薄く塗るのが基本だ。野菜の場合は水分が出てきてパンがしなってしまうし、ハムや卵の場合は一体感がなくなるからだ。でもこれにはどちらもないように思える。

 私は食べながら首を傾げていたら、食間のコーヒーを出してくれた泉さんが声をかけてきた。


「また偉い悩んで食べとるね」

「い、いえ……この卵サンド、どうやってつくってるのかなと。バターをパンに塗ってないようなと思いまして」

「せやねえ……スクランブルエッグ自体にバターを使てるから、その分パンには塗っとらんよ」

「へえ……スクランブルエッグをつくるときのバターだけで大丈夫なんですか」

「つくり方にも寄るかなあ。ゆで卵を潰してつくる場合も、ゆで卵のほうに味付けしてパンには使わんし。でも野菜を挟むときはさすがに使たほうが美味いな。べたつかんし」

「じゃあ、ベーコンやハムを挟む場合は?」

「せやねえ……ベーコンの場合は、焼いたあとに脂をある程度拭くから、そのときに油分が少し減る。ベーコンの旨味がちょっとだけ足りなくなるから、補うために塗るかな。ハムの場合は燻製ハムか生ハムかにも寄るけど、そのとき一緒に挟むもんに合わせるなあ」

「なるほど……」


 じゃあ今度、ベーコンエッグサンドを自分でつくってみよう。泉さんから聞きかじったレシピで。自分でそう心に決めて、もりもりと卵サンドを食べた。

 私が食べ終わったところで、修学旅行生たちはキャラキャラしゃべりつつも食べ終えたようだった。


「ごちそうさまでーす」

「はあい、おおきに。お勘定ひとりずつどうぞー」

「本当にありがとうございます! 迷子になってたんで!」

「こんなとこもう来んなよー」

「はーい!」


 元気に帰って行く中、先程まで本当に騒がしかったのが、すっかりと静けさを取り戻した。若さってすごいな。自分も同い年だった頃があるはずなのに、そう素直に感心してしまう。

 あの子たちが帰っていったのを見届けたあと、泉さんがこちらに振り返った。


「神奈さん、おおきにな」

「ええっと、はい? 私、なにかしましたっけ?」

「あの子らをうちまで連れてきてくれて」

「……客引きしてくれて、売上ができたからでしょうか……?」

「ちゃうちゃう。最初の頃にも言うたやろ。もう来んなって」


 そういえば。そんなことを言っていたような。私は次はいつになったら行けるだろうと、暢気に地下を徘徊するようになってしまって、そんなことを言われたこともすっかりと忘れていた。


「……駄目なんですかね? 迷宮喫茶に来るのって」

「どちらかというと、うちに来ることよりも、泉の広場に来ることのほうが、あかんかなあ……」

「そういえば。そもそもなんでここ、なくなったはずの泉の広場の噴水があるんですか? 前も教えてくれませんでしたけど」

「……うーんと、ちなみに神奈さん。泉の広場って、実は前に撤去されたのは実は三代目やって、知っとった?」

「はい? そんなにあそこって、リニューアルされていたんですか?」

「おう。あそこはリニューアルを重ねて、とうとう撤去されたしなあ」


 私は泉さんの言葉がどうにもとっ散らかって聞こえて、少しだけ困り果てていた。でも泉さんは、はぐらかそうと思ってこんなことを口にしている訳ではないように思える。

 泉さんは扉の向こうを見る。相変わらず、外の様子は店内からは見ることができない。


「あそこにある泉の広場は、初代や」

「……初代? ええっと、あの噴水ですよね?」

「せやせや。この辺りは空間が歪んでてなあ……狭間はざまって言えばわかるやろうか。それか異世界……異界とか?」

「ええっと……前にもちょっとだけ伺いましたけど、あの世とかではなく?」

「そんなとこではないなあ、ここは。ただ、工事がずーっと続いとる場所やと、たまに世界と世界と間にひずみができて、そこに狭間ができんねんなあ。そこに迷い込んだら、ちょっとやそっとやと抜け出せへん」


 普通だったら、なんだその与太話とか、都市伝説みたいとか、適当なことを言うけれど。

 地元民の多岐川さんは、話を聞いて行きたがっているにも関わらず、一向に辿り着かないこと。そもそも同じ梅田にあるというだけで、繋がってもいない地下街から辿り着けたこと。不思議過ぎることが、続き過ぎていた。

 それをどうして与太話だと一蹴できるのか。

 私が少しだけ気分が沈みそうになる中、泉さんは「せやから」とのんびりと口にした。


「迷子が元いた場所に帰れるよう、うちの店はやっとるよ。元の場所に帰れるように」

「……泉さんは、店の外には出られないんですか?」

「たまには出るけど、でも神奈さんと同じとこではないかなあ。さっきも言うたやろう? 世界と世界の歪みがあるって。何個も何個も、平行世界がある狭間にあるから、神奈さんと同じとことはちゃうよ」


 ええっと……。SF映画とか、ファンタジー映画とかのことを頭に思い浮かべる。


「平行世界。パラレルワールド。限りなく現代社会に近いけれど、なにかがずれている世界。つまりは、泉さんの本来の世界は、私が普段行き来している梅田ではなくって、その違う世界の梅田ってことで、いいですか……?」

「まあ、そういうことになるかなあ」

「……電話って通じますか?」

「はあ?」


 私がグルグルしながらそう尋ねると、当然ながら泉さんは素っ頓狂な声を上げた。私は続けざまに尋ねる。


「スマホか固定電話か、持っていますか?」

「ま、まあ……うちには固定電話はあるかなあ……?」

「電話番号交換とかってできますか!?」

「へえ……!? ……まさかと思うけど、神奈さん、俺と電話したいん?」

「だってしょうがないじゃないですか。私だって本当は電話苦手ですよ。でも、泉さんスマホも持ってないし、スマホがないならメールもアプリも駄目じゃないですか。だったら、固定電話しか連絡手段ないですよね?」


 私がテンパってテンパって吐き出した言葉に、泉さんはしばらく固まっていた。

 やがて、噴き出した。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ…………!!」


 お腹を抱えて、そのままゲラゲラと笑われる。私はだんだんといたたまれなくなってきた。


「だ、だって……私だって、もうちょっとこう、距離の詰め方について考えたかったですけど、文字通り世界が違う人だった場合、どう詰めるのが正解なのかわからなかったんですもん……!」

「いやあ……ハハハハハハ……普通、こんな都市伝説聞かされたら怖いやろう? ほんまやったら、ここに来えへんほうが正解なんやけど、なんや神奈さんは、問題には巻き込まれん体質みたいやしなあ」

「はい?」

「いや、なんも問題がないならええねん。電話番号やったらええよ」


 そう言いながら、カウンターに戻るとメモを取り出して、ガリガリと書いてくれた。それを見て、私も慌ててスマホを取り出すと、電話番号を取り出して、それをメモに移す。


「はい、神奈さん」

「あ、はい……登録します。えっと泉さん。これが私の電話番号です」

「おおきに。なにかあったら電話しぃ? まあ……いつでも出られる訳ちゃうけどな」

「いいですよ、それでも」


 私は電話番号をスマホに登録すると、ようやく会計をした。


「また来ます」

「おおきに。また来ぃ」

「はい」


 そう言って、私は扉を開けた。

 喧噪の街であり、いつもの見知った地下道だった。

 あの修学旅行生たちは、無事に地下鉄に辿り着けたかな。私はそう思いながら、会社へ戻る道を歩きはじめる。

 泉さんの店の話をちょこっとだけ教えてもらえた。

 最初の泉さんは、迷宮喫茶の常連にはなって欲しくない言動だったけれど、今は違う。また来てもいいって言ってくれた。

 それはいいことなのか、悪いことなのか、今の私にはよくわからないけれど。

 私はスマホの入った鞄を撫でた……本当に行きつけの店の店長と客から、少しだけ進化したような気がする。

 足取り軽く歩く足音は、喧噪に溶けて消えていった。

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