つかの間の休息とほんの少しの下心 前編

 会社に帰った私は、取ってきた仕事の内容をパソコンに打ち込み、共通クラウドにデータを保存しておく。

 私が「うーん」と唸り声を上げていたら、多岐川さんから「お疲れ様」と声をかけられる。


「お疲れ様です」

「なあに? なんかそわそわしているけど」

「そんなことはないんですけど……」

「あの喫茶店がお気に入りなの? もしかすると会えるかもって?」

「あはははははは……」


 迷宮喫茶のことなんて、多岐川さんくらいにしか言えないし、彼女だって私が遭遇しなかったら信じなかっただろう。

 彼女も行ってみたいらしくって、ときどき一緒に探してみるが、やはり梅田地下に詳しく、そして物事に迷いのない彼女だと到着するのが難しいらしかった。

 それに多岐川さんは「そうねえ」とのんびりと言う。


「私は単純に、喫茶メニューがおいしそうだって思ったから行ってみたかっただけなんだけれど。お呼ばれされないみたいで」

「あはは……たしかにどれもこれも、ちょっと懐かしめのメニューですけどおいしいですよ」

「まるで吸血鬼みたいね」

「……はい?」


 多岐川さんは、日頃から舞台観劇が趣味なせいなのか、ときどき私だと知りようもない知識を披露してくれることがある。彼女は頷く。


「最近の吸血鬼題材にしている作品だったらどうだか知らないけどね、吸血鬼ってお呼ばれされない家には入れないんですよ」

「そ、そうなんですか……というより、吸血鬼が入れないんだったら、それでいいんじゃ」

「でも迷子以外入れないっていうのが、ちょっと気に食わないというか。私も喫茶メニュー食べたい!」

「あははははははは……」


 本当に不思議なのだ。

 迷子しか入れない。物理的に迷子か、人生の迷子かしか入れないっていうのは。私だって常日頃は既に梅田に詳しくなりつつあるから、よっぽどのことがない限りは迷子にならないし、なんだったら道案内だってできるようになってきているのに。

 ただしゃべっていて、ほっと息を吐く。出してくれる喫茶メニューがどれもおいしくて、安心感がある。でも私は、泉さんのことを本当になにも知らないんだよな。


「……なにも知らない人のことを、知りたいと思ったらどうすればいいんですかね?」


 私の言葉に、多岐川さんはきょとんとした。


「店の人と仲良くなりたいっていうこと?」

「いえ、そういう訳じゃ……」

「普通に考えたら、アプリかSNSのIDの交換だと思うけど、そもそもそんな謎めいた店の店長さんがやってるんですかね?」

「ですよね……」


 なぜか店内は未だに全部アナログで、電子マネーもクレジットも使えないのだから、既に社会に定着しつつあるアプリやSNSを使いこなしているとは、お世辞にも思えなかった。

 私がしょんぼりとしていると、多岐川さんは「うーん……」と腕を組んでみた。


「アナログなものが好きなんだったら、いっそ電話番号交換は?」

「えっ」

「いや、固定電話だろうがスマホだろうが、電話番号はあるじゃない。もしそれも交換できないんだったら、お手上げなんだけれど」

「で、できるんですかね、そういうこと」

「私も知らないけど。でも仲良くなるって、店では店長とお客だったら、それ以上の関係にはならなくないですか?」


 そう指摘される。

 ……思えば、中学校のときから、人にIDを教えるのも、スマホの電話番号を教えるのも苦手だった。もしクラスメイトにからかわれたらどうしよう。もし友達にやり取りを切り取られて見世物にされたらどうしよう。そう思ったら、素直に教えることができなかった。でも。

 店長とお客という今の関係じゃ、なんにも変わらないっていうのは当たり前の話だった。


「ありがとうございます。なんとかしてみます」

「頑張ってくださいねー」


 多岐川さんは、茶目っ気たっぷりに手を振ってくれた。


****


 もし泉さんに会えたら、電話番号交換を申し込みたい。

 大昔は、ラブレターをロッカーに仕込んで逃げていたらしいけれど、手紙のやり取りなんて方法は、さすがに迷子にならないと辿り着けない喫茶店で通用するとは思えなかった。

 私はお腹を空かせたまま、ぐるぐると地下道を歩いていた。

 既に立ち食い屋には昼休み中のサラリーマンが詰めかけているのが見えるし、なんだったら私もそこに突撃したかったけれど、泉さんに会いたいと思ったら、全然辿り着かない道もなんとか歩けた。

 でも私、今は迷子なんだろうか。道には当てずっぽうで歩いているとはいえど、迷子にはなっていない。今は人生に特に迷いはない。強いて言うなら、恋の迷路に迷い込んでいると言ったところだけれど、そんなシャレが迷宮喫茶には通じるんだろうか。

 そうグルグルグルと歩いていると、だんだんと工事で閉鎖していた道の注意書きが見えなくなってきた。そして、水音が響いてくるのがわかる。

 目の前の噴水が見えた瞬間、私は思わず「やったー!!」と歓声を上げて走り出していた。でも。そこでおかしなことに気が付いた。

 制服……この辺りじゃ見慣れない学生服だ……の子たちが一生懸命スマホで噴水の写真を撮っているのが目に入るのだ。

 私が首を傾げていると、その中のひとりの子が「あの、すみません!」と走ってきた。

 言葉の端々が、関東弁でも関西弁でもない。九州のほうの言葉だった。


「はい、どうかしましたか?」

「すみません! 西梅田駅に向かわないと駄目なんですけど、間に合うかどうか!」

「西梅田……ああ!」


 ちなみに大阪には梅田駅がたくさんある。

 梅田駅に、東梅田駅、大阪梅田駅。ちなみに私鉄も地下鉄もJRも一カ所にまとまっていないせいで、駅を求めてうろうろするってことはしょっちゅうある。

 西梅田駅は地下鉄四つ橋線の駅で、たしかに泉の広場がある場所の近くなんだけれど……もしかしなくっても、この子たちは修学旅行で梅田地下で迷子になった被害者たちなんだろうか。

 私は「うーん」と考え込んだ。

 たしかに今の私だったら、この子たちを四つ橋線まで案内できるし、なんだったら口頭でも説明できる。でも、この子たちがまた迷子になったら? また迷宮喫茶近くに放り出されてしまったら?

 むしろ迷宮喫茶に入れてあげて、出て行ったほうがよくないだろうか。なぜか迷宮喫茶から出たら、元々いた場所や目指していた場所に辿り着けるんだから。

 私はおずおずとこの子たちに聞いた。


「あなたたち、お昼ご飯はもう食べましたか?」

「まだでーす」

「現地で食べなさいって言われてて、ご飯探していたら迷子になりました」

「もう帰りたい……ずっと地下歩いてて疲れた……」


 よっぽど歩き回って疲れたのか、一部の子たちはぐずついている。

 わかる。初めて大阪に来たとき、私も「ここはどこ!?」と泣きべそかきながら歩いていたから。

 私は「ならそこの喫茶店でなにか食べませんか?」と提案した。

 全員、一斉に顔を見合わせる。


「……大阪に来て、喫茶店?」

「大阪と他の地区だと、結構いろいろ違うから! 店長さんも面白い人だし! さあ!」


 まさか迷宮喫茶でご飯を食べて帰ったら、目的地に着くよなんてうろんなこと、言える訳もないしなあ。

 私も我ながら怪し過ぎることを言ったせいか、この子たちは一斉に顔を見合わせて、小声で話し合いをはじめた。

 ……でもここに立ち往生させるのもなあ。私は「じゃあ、私は先に行きますから……」と言ったら、ひとりの子が勇気を出して手を挙げた。


「もうお腹空いた! 豚まんもイカ焼きもお好み焼きも食べられないんだったら、ここ入る!」

「じゃあ私も!」

「私も!」


 全員よっぽどお腹を空かせていたらしく、辛抱たまらんとそのまま迷宮喫茶に突撃していった。

 私はほっとしながら、その子たちの背中を負って迷宮喫茶に入った。

 入ると、泉さんは事前にこの子たちに聞いているようだった。


「そりゃうちで食べるのはかまわんけど。現金は持っとる?」

「お土産買うから持ってます!」

「スマホの電池は節約したいから!」

「そかそか。えらいしっかりしとるねえ。じゃあランチメニューはこっち」


 そう言いながら修学旅行生をかいがいしく世話をしはじめた。

 カウンターでわいわいしている子たちを眺めながら、私は席に着く。泉さんは全員の注文を聞いて、メモをカウンターに貼り付けてから、こっちにやってきた。


「堪忍なあ。この時期になったら、迷子がようさん来んねんな」

「修学旅行ですかねえ」

「せやせや。修学旅行で地下鉄使って横断させるのは、制限付けんと迷子が増えるだけやねんけどなあ……」

「わかります。あんまりにも入り組んでますしねえ……」


 正直、いくら梅田地下に慣れたとはいえども、地下鉄横断に慣れたとはお世辞にも言えない。あんなに同じ名前の駅名だらけで、線路も近いとなったら、乗り間違えてもおかしくはないんだから。もしスマホの電池が切れたら、検索だってままならないし。

 私がメニューを受け取ろうとする前に、泉さんが尋ねてきた。


「サンドイッチ食べたいって言うてたけど、なににする? 野菜サンド、カツサンド、卵サンドがランチメニューやと選べるけど」

「どれもオーソドックスですねえ……じゃあ、卵サンドのセットでお願いします」

「おおきに。ちょっと混んでるから待っててや」

「あ、はい。それは大丈夫です」


 修学旅行生の子たちは、きゃらきゃら笑いながら、お土産を皆で見せ合いっこしていた。可愛いなあ。そう思いながら眺めていたら、「はい、お待たせ。ミックスジュース」と言って差し出したのは、以前に私が出してもらったミックスジュースだった。

 それをこの子たちは目をキラキラさせながら飲みはじめる。


「ミックスジュースって、なんか聞かないよね」

「大阪名物なの?」

「んー、昔は阪神梅田の近くにあった店のミックスジュースが有名になってんな。それのおかげで、うちも流れてよう頼んでもらえるようになったというか」

「えー、パクリ?」

「ちゃうちゃう。レシピはうち独自のもんや。でも大阪のミックスジュースは、基本的にみかんの缶詰と牛乳、氷を入れてできてるねんな。他のフルーツジュースとはちゃうよ」


 そうだったのか。阪神梅田のミックスジュースの店は、私も見たことがある。飲んだのは初めてだった割には、なぜか懐かしい味がして、老若男女問わずに飲みに来ているのを見て、皆このよくわからないノスタルジーを飲みに来ているんだなと感心したものだ。

 修学旅行生は、それに「へー」と面白そうな顔をしていた。


「はい、次はトーストセット。誰や、トーストセットは」

「私でーす。本当に大阪ってトーストが分厚い!」


 その子たちは興味津々な顔で、トーストを眺めていた。

 そういえば、関東では十枚切りが基本なのに、関西ではなぜかどんなに薄くても六枚切りが基本で、パン屋さんに入っても滅多に薄切りにはお目に掛けなかったな。

 それに泉さんは「目の付け所がええなあ」と笑っていた。

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