人生の岐路で五里霧中 後編

 彼女はお冷を飲みながら、つっかえつっかえ訴える。


「……たくさんしゃべるのは苦手ですし、アピールポイントを訴えるのも苦手です。パソコンは一応できますけど、表計算が得意かというとそうでもないですし、できる人と比べればなんにもできません。体を動かすのも駄目、しゃべるのも駄目、機械的に物事を考えるのも駄目だとしたら、本当に就職できるのかなと……歩き回って靴擦れできるのを見るたびに、頑張らないと駄目って言い聞かせながら出かけないと、どこかでポッキリと折れそうになって、怖いんです……」

「……そういうこと、他の人に言えましたか?」


 彼女は悲し気に首を振った。

 本当に、こればっかりは世の中が悪いとしか言いようがないと思う。

 一度就職が決まらなかったら、転職すらままならない。第二新卒みたいな聞こえのいい言葉は存在していても、大学では浪人してもなんとかなるというのに、就職浪人は途端に冷たい目で見られる。

 その上、一度でも社会で正社員として働かなかったら、履歴や経歴が残らず、次の仕事探しでも苦労するという……。

 夢のためっていう言葉は綺麗だけれど、そもそも夢のための猶予期間には、お金がいる。そのお金がない人は働かなかったらそんなものがないんだから、どん詰まりになってしまうのだ。

 私は彼女の言葉に、なにを言っても無責任な気がして考えあぐねていたら。

 ふんわりとした小麦粉のいい香りが漂ってきた。

 きつね色の美しい焼き目にふっくらと膨らんだ生地。

 お皿に乗せたホットケーキは、驚くほど綺麗な色をしてやってきた。


「お待たせ、ホットケーキとカフェオレ」

「あ、ありがとうございます……」

「うーんと、さっきの話ちょっと聞こえたけど」


 泉さんは彼女に声をかける。

 彼女はきょとんとした顔で、泉さんのほうに顔を上げた。


「英語でやったら、workとjobとあるやろう? あれどういう意味かわかる?」

「へっ?」


 いきなりの問答に彼女は目を瞬かせた。

 たしかにどちらも日本語訳すると「仕事」だけれど、その違いを考えたことなんてなかった。


「どちらも仕事……ですよね?」


 案の定彼女も困ったように、声を上げる。それに泉さんは「せやね」と答えた。


「英語をもっと精密に訳せば違う言葉やねんけど、ここはざっくりと俺の思う訳を言ってみるな。jobは金を稼ぐための仕事、workはやりがいのための仕事やな。ライフワークって言葉もあるから、workなんかは日本でもよう浸透しとるね。で、日本の就職活動の場合は、それをごっちゃにして支援してまうから、おかしな話になんねんな」

「はあ……」

「自分は、やりたいことがまだあらへんて言うてるな。せやからworkをどうしようって悩んでるんやと思うけど。まずはjob。生活基盤をつくるために、なんでもええからやってみるってのはどうやろう? アルバイトやパートとおんなじや。アルバイトやパートも、まずお金が欲しいからってのが先行してて、やりがいのためにアルバイトしたいってのはないやろう?」

「で、でも……それって、面接のときになんて言ったら……」

「それは受ける会社のサイトを上から下まで舐め回すように見てみぃ。欲しい人材はそこに書いてるから、自分がそういう人材やって言い張ればええ。嘘も方便で、一度入社してから考えたらええやろ」


 泉さんはにこにこして言ってみる。


「最初からやってみたかったことをworkにした場合、いつかそれが呪いに変わって身動き取れななる人やっておる。その点、まだ天職わからん、やりたいことなんてないっつうのはラッキーやわ。いろんなjobをしてみて、その中からライフワークを探してみたってええんやから。まずはやってみてから、向き不向きを考えてみてみぃ」


 私は泉さんの言葉に、全くもってその通りだなあと思ってしまった。

 生活基盤が整えば、おのずと自分のやりたいこと、やりたくないことがわかるんだ。

 でもお金がなかったら、頭の中が常々「お金」でいっぱいになってしまって、他のことに頭が回らなくなってしまう。

 衣食住足りて礼節を重んじるという言葉があるけれど、仕事に関してもそれに近いことが言えるんじゃないかな。

 彼女は、今にも泣きそうになっていたのが、少しだけ気が晴れたようになってきた。

 それに泉さんが優しく促す。


「冷めてまうから、はよ食べぇ」

「はい、いただきます……おいしい」


 たしかにホットケーキはふんわりとしていて、表面も照りがついていて綺麗だ。

 自分でホットケーキミックスのパッケージ通りにつくっても、こんなに綺麗にはならないんだけどなあ。


「私も休みの日なんかに、ホットケーキを焼きますけど、こんなに綺麗な焼き方になりませんよ? やっぱり喫茶店のコツとかってあるんですかねえ?」

「あー……もしかして、ホットケーキ焼くとき、油敷いてる?」

「敷いてますね……だって、焦げ付きますし」

「焦げるんやったら、自宅やったらフッ素加工のフライパンで油敷かんと焼いてみぃ。うちは毎日油敷いて育ててるフライパン使てるけど、仕事しとる人に、鉄のフライパンをいちから育てるって、難しいやろ」


 そう言いながら、泉さんがひょいとホットケーキを焼いていたフライパンを見せてくれた。

 フライパンは黒光りしていて綺麗だ。油を敷いて何回も使い込むことを「育てる」って言うんだったら、たしかに私では無理だなあと痛感する。

 ホットケーキを食べていた彼女は、それに首を捻った。


「私もホットケーキをフッ素加工のフライパンで焼いてますけど……焼き加減はこんな感じですけど、ケーキがこんなに艶出ませんよ?」

「せやねえ……なら、規定量の牛乳を少し減らして、その分をみりんに置き換えてみぃ。それで艶も出て、焼き具合もふわっふわになるやろ」

「……卵焼きみたいですね?」

「そうかもしれんねえ」


 みりんかあ。たしかに照り焼きや卵焼きを焼くとき以外はご無沙汰な調味料だったけれど、それをお菓子に使うって発想はなかったな。今度やってみよう。

 そう思っていたら、私のほうにもコーヒーが回ってきた。


「ほら、神奈さんも」

「あー、ありがとうございます」

「なんも食べんで大丈夫か?」

「まだ会社に帰らないと駄目なんで。昼休みになったら食べに来ますよ」

「ほう……なら待っとるよ」


 行けるかどうかなんてわからないけど。でも辿り着きたいな。

 私はそう思っていたら、彼女もようやく「ご馳走様です」とホットケーキを平らげた。


「はい、おおきに。うちは現金しかないんやけど、持っとる?」

「あ、大丈夫です。うちの親、災害対策で現金は必ず持っているようにって言ってるんですよ」

「なら安心やね」


 たしかに。電子マネーもクレジットも便利なんだけど、地震や台風の停電ではまるで役に立たない。

 私の場合は泉さんの店に立ち寄るために、この数か月は財布に現金を納めているけれど、他の人は災害対策でもなかったら現金を持ち歩かないんだろうなと思う。

 彼女の支払いを確認してから、私もお金を支払う。

 そのとき、泉さんに尋ねられた。


「もし来られるんやったら、なに食べたいん?」


 そう尋ねられ、私は戸惑う。

 今の私だと、ここに来られるかどうかわからないのに。でも、もし行けるんだったら。

 考えあぐねた結果。


「……喫茶店のサンドイッチっておいしいじゃないですか。サンドイッチ食べたいです」

「そかそか。なら考えとく」


 そう言われて、私は体温が上がった気がした。

 ……もしかしたら、この訳のわからない店の常連客なんてポジションに収まったから、世間話の一環で聞いてくれただけかもしれないけれど。私にとっては充分に嬉しかった。

 店を出ると、元の滝見小路に戻っており、あの泉の広場も、明るい電光も消えてしまい、薄暗い昭和風の街並みを模した地下街に切り替わっていた。

 それに彼女は「あ、あれ……?」ときょろきょろと見やる。


「あの……さっきの店はいったい……?」

「さあ? 迷っている人以外は行けないって聞いたけれど」

「……ホットケーキにみりん」


 彼女は口の中で言う。


「今度試してみようと思います。あと、やりたいことを探すためにも、もうちょっとだけ、就職活動を頑張ってみようと思います」

「そっか……それはよかったですね。もう、緊張は解けましたか?」

「おかげさまで……なんか店長さんのホットケーキ食べてたら、なんだか安心して、気持ちがほぐれたんです」


 あれだけ泣きそうな顔で立ち往生していた彼女は、もうにっこりと笑っている。

 きっと泉さんのホットケーキもだけれど、周りからは「甘えている」と責められ勝ちで言いづらい弱音を吐き出せたことが、彼女にとってはプラスの方向に働いたんだろう。

 彼女は何度も何度もお礼を言ってから、空中庭園の面接会場を目指して出かけて行った。

 私はそれを見送ってから、元の道を戻っていく。

 それにしても。


「大阪だったら、繋がっていなくっても行けるもんだったんだな……」


 あの不可思議な泉の広場の噴水付近の、迷宮喫茶。

 迷子にしか辿り着くことのできない店とは聞いていたけれど、地下であったら、地下道が泉の広場に繋がっても辿り着けるってのは、今日実験してみて初めてだったから。

 泉さんがどうして、あんな不思議な場所で店を開いているのか、単純に迷子の案内をしているのか、思えば聞くタイミングがなくって聞きそびれてしまった疑問ばかりが付きまとう。

 ただ、まあ……。


「……おいしいんだよね、あの店のものは、なんでも」


 おいしいコーヒー、昔懐かしい喫茶メニュー。それが迷子たちの味覚を魅了する。

 今はそれで充分なような気がする。

 お昼休み。私は迷宮喫茶に無事に迷子になることができるのかな。

 そればかりを気にしながら、私は会社へと帰って行った。

 午前を乗り越えなければ、お昼休みはやってこないのだから。

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