いい人悪い人普通の人 後編

 扉を開けると、ケチャップに野菜、ソースに肉……もうおいしい以外にない匂いが漂っていた。それに。

 今日は珍しく店内に人が多い。皆迷子か。

 そう考えて気付いた。このサラリーマンさんと同じく、ホテルを探して地下でさまよっていた出張の人たちが、お腹が空き過ぎてここに辿り着いたんじゃと。


「はい、ナポリタンハンバーグ載せ」

「いただきます!」


 泉さんが私たちより前の人に出したのは、ナポリタンの上にハンバーグがどっかりと載った、今にも口の中からよだれが溢れんばかりになる代物だった。

 ケチャップで味付けした、野菜とソーセージたっぷりのナポリタンはもちろんのこと、その上にハンバーグ。その上にハンバーグ。誰だってテンションが上がる。


「うっまぁ……」

「おおきに。ああ、いらっしゃい」


 お客さんが夢中で食べているのを見ながら、私たちに声をかけた。


「すみません、迷子です」

「見たらわかるよぉ。あれま、お客さんもホテル見つけられんかったん?」


 どうも泉さんからしてみれば、出張の迷子の対応には慣れっこらしい。それにサラリーマンさんも、お客さんのナポリタンハンバーグ載せを凝視していたのからようやく顔を離して、顔を真っ赤にして「はい……」と言った。


「大昔に大阪に行ったときに、なにもかもおいしかったので、出張も楽しみにしてたんですよ……でも迷子になって、やけに綺麗になってしまったのを見たら心細くなりまして……」

「今は都市再開発とかなんとかでえらいきばっとるからねえ。ええかっこしいやねんな。それでホテルもあっちこっち立ててな。でも迷子増やしたらあかんやろ。まあ、座りぃ。メニューはそっち。コーヒーのメニューはこっち。コーヒーは食事中と食後、どっちがええ?」

「ええっと……食後で。じゃあ自分もナポリタンハンバーグ載せを。コーヒーはブレンドのミルクで」

「かしこまりました。ナポリタンハンバーグ載せにブレンドコーヒーミルク、と。神奈さんはどうするぅー?」

「はっ!」


 もう口の中がナポリタンになってしまっていて、本当だったら家に帰ってなんか食べようかなあと思っていたのが、一気に吹き飛んでしまった。

 私はもじもじしながら言う。


「じゃ、じゃあ……私も、同じもので」

「はい、かしこまりました。ナポリタンハンバーグ載せ、ブレンドコーヒーミルク」


 ジュワジュワとハンバーグを焼くフライパンの隣で、野菜を炒めてケチャップで味付けしている。


「なんというか……喫茶店のナポリタンって、自分実は食べたことないんです。人のがあんまりにもおいしそうだったんで」

「そうなんですか……私は実は食べたことあります。でも不思議ですね。ナポリタンって自分でつくっても、ああももちもちした感じにならないんですけど、喫茶店のナポリタンってもちもちしてます。パスタが太いから?」


 ふたりでひたすらしゃべっていたら、ケチャップに薄切りソーセージを投下しながら泉さんが言う。


「いろいろ方法はあるんやけど、うちの場合は前日にパスタを規定時間より五分長めに茹でてから、油絡ませて寝かせとるんや。あとは、パスタを水に浸けておくって方法もあるけど」

「パスタ、水に浸けるですか……?」


 サラダに使うは長めに茹でてから油を絡めて冷蔵庫で冷やすっていうのは、サラダ専用パスタがない場合にやるけれど、ナポリタンつくるときにも応用できるんだなあと思いつつ、パスタを水に浸けるって方法は聞いたことがなかった。

 それに泉さんは、フライパンに既に寝かせてあるパスタを投下し、じゃっじゃと混ぜはじめた。


「一時間から二時間くらい浸けてたら柔らかくなって、生パスタみたいになるねんな。まあ……ひと晩寝かせておくよりも、水を使うし、夏場やったら傷みやすくなるからお勧めはできんかなあ。五分長めに茹でたパスタやったら、冷蔵庫に入れておけるんやけどな。はい、ナポリタンハンバーグ載せ。コーヒーは待っててな」


 そう言いながら、私たちの前にひょいひょいと置いてくれた。

 喫茶店のナポリタンにハンバーグが載っている。しかもハンバーグにはトマトソースがちょっとかかっている。一見すると本当に喫茶店の定番メニューだけれど、細かいところでものすごく手が込んでいる。

 私はまずはハンバーグをフォークで切って口に含んでみる。ものすごくジューシーな上にトマトソースと肉汁がナポリタンにちょっとかかって、どちらを食べてもおいしいっていう循環ができている。

 ナポリタンも、タマネギにピーマン、薄切りしたマッシュルームにソーセージと、定番の味付けなのに優しい味付けにもちもちのパスタで、食べてて飽きが来ない。

 私が「おいしいおいしい」とがっついている中、隣のサラリーマンさんも嬉しそうにハンバーグを食べていた。


「おいしいです! なんか感動しました」

「まあ、大阪はほんまに今頑張ってる店やったらなんでも美味いし、胃の要領があるんやったらなんでも食べといで。梅田地下も路地裏も、なんでも美味いで」

「そうなんですけど……なんでしょ。ちょっと泣けてきて」


 サラリーマンさんは、目尻に涙を浮かべていた。

 ……もしかするとあれかな。記憶にあった光景が全くなくて不安になったところで、泉さんのコテコテな大阪人という大阪弁の店長の営む喫茶店に触れて、ちょっとだけ安心したってところなのかな。

 そんなサラリーマンさんに、泉さんは笑う。


「変わり過ぎたらびっくりすることはあるからなあ。それに座る場所も減ったからくたくたになってもうたんやろ。ナポリタン食べて、コーヒー飲んで休んだら、もうちょっとだけ歩きぃや」

「はい……はい……」


 多岐川さんが言っていた言葉を、少しだけ思い出した。

 今、大阪周辺は座る場所がかなり減ってるって。


『あんまり人にたむろして欲しくないから、座る場所を減らせばいいって考えなんだろうけど。皆が皆、いつでもいつまでも元気な訳じゃないから、ちょっとだけ優しさが足りなくって荒んで感じるときもあるんですよね』


 泉さんがこの迷子にしか辿り着けない喫茶店を営んでいるのは、こんな人たちを休ませるためなのかもしれない。

 そうこうしている間に、ブレンドコーヒーが届いた。それにミルクを入れて飲みながら、サラリーマンさんは満足そうに目を細めた。


「ありがとうございます、本当に」


 私にそう言って、目をパチパチとさせた。


「私、なにもしてないですけど」

「いえ。自分も久々の大阪で迷子になって、情けない気分でしたので。本当にありがとうございます」

「はあ……」


 私が返答に困っている中、サラリーマンさんが領収書を取った。


「お礼でおごらせてください」


 さすがにそれは困る。私は首をぶんぶんと振った。


「い、いえ。私のほうこそ、ここに来られてよかったんで、おごってもらうのはお門違いと言いますか」

「ですけど」

「本当に、大丈夫ですから……!」


 私が変なリアクションをしている中、店長さんは「ここはにこにこ現金払いなんやけれど、現金あるのん? なんや今日は、皆現金忘れてきた人ばっかりやから困ってたんやけれど」と口を挟んできた。

 途端にサラリーマンさんは固まった。


「……すみません、ひとり分しか払えません」

「あらら。最近電子マネーとかカード払いとか多いけど、それやと公衆電話やこんな店やったら使えんやろ。たまには現金のこと思い出したりぃ」


 サラリーマンさんはとぼとぼと現金で自分の分を支払うと、申し訳なさそうに私を見てから出口を出た。


「あ」


 私は声を上げる。あの人、ちゃんと目的のホテルに辿り着けたんだったらよかったけど。私がそう思って見ていたら、「神奈さん神奈さん」と泉さんに手招きされた。


「はい?」

「あれ、普通にナンパやろ。話聞いてる限り、自分はただの道案内のつもりやったみたいやけど」

「ええ? そう……でしたかね?」

「自分気ぃ付けえや。今時なにあるかわからんから、若い男はまず女子に道案内頼まへん。自分『声かけやすいのかな』で何人も道案内しとる口やろ。おんねん。たまに若いのんが女子のナンパを梅田で迷子になったから案内してって。しかも地元ちゃうからええやろって出張してきたんが」

「えええええ」


 ものすごく、心当たりがある。もしかしなくっても私、危なかったのか。

 それに私はシュン、とうな垂れた。


「私、よく迷子になっているとき、地元の人に何度もお世話になったんで、迷子だって言われると、放っておけなくて……」

「せやね。ここは迷いやすいようできとるから、ほんまに迷子になってるんはおるよ。だけど、それは地元の観光案内板に頼みぃ。そこに大概人はおるから、その人に任せたらええから」

「はい……肝に銘じます」

「おし、説教終了」


 そう言いながら、泉さんは私のカップの近くにコトンとなにかを置いた。粉砂糖をまぶしたクッキー……スノウボールだった。


「あの、これは?」

「説教代やわ。この分はお金は取らんよ」

「……ありがとうございます。でも、ひとつだけ反論してもいいですか?」

「なんや?」


 私はスノウボールをひとつ、口に含んだ。本当にシュワリと雪のように溶けて消えた。


「あの人、やっぱり迷子だったんだと思いますよ? だって……私道を覚えてきていますもん。だからきっと、私ひとりじゃもうここに来られないですよ。ナンパは……わかんないんですけど」

「ん、せやなあ。困りながら悪いことしよる奴もおるし、本当に困ってた奴もおるし。そこは、俺が悪かったかなあと思うよ?」

「なら」

「でも、神奈さんはもうちょい注意しいや……来てくれるんは嬉しいけど、自分になんかあったら心配やわ」


 そう言われてしまい、会計が終わって店を出て、見知った道に辿り着いても、その言葉が抜けなかった。

 あれって、どういう意味だったんだろう。

 都合よく取れたらいいけれど。でも。

 迷子にならなかったら辿り着けない店の中の人に、どんな感情を向けるのが正しいんだろう。

 私はポヤポヤとした気持ちのまま、人波に乗った。

 今日は早い夕食も食べたし、お風呂によく入って早めに寝よう。

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