翌朝、小三太の父の呼吸は安定していた。肺をやられていたのだから、薬なしでは無理だろうと思っていたが、不思議と容態は安定したようだった。

 最後に昨日の残りの肉と粟のお粥を皆で食べてから、百合と小十郎はここを発つことにした。


「あ、ありがとう……!」

「いいえ。肉屋の肉が体に合ったのでしょうね。どうかお元気で」


 百合と小十郎は小三太に別れを告げ、荷車をカラカラと引いていく。


「でもさあ、師匠。人魚の肉。当てが外れちゃったけどどうすんの?」

「そうですね……まずは絡繰り人形の体で、どこまで生きられるか考えてみようと思います」

「それって、ずっと師匠が悩んでた、八百比丘尼になりたくないって奴?」

「……はい」


 たしかに百合は元の人間に戻りたい、痛みや温度、涙を失った絡繰り人形のままでいたくないという気持ちは今もある。ただ。

 いざ人魚の肉を手に入れたかもしれないとわかった途端にうろたえた、自分が完全に消えてしまうという恐怖は、人間に戻りたいという渇望よりも計り知れないものがあったのだ。

 百合はカラカラと荷車を引き、ちらりと荷台に乗せたまんまの尼僧を見つめる。今は布を被せているため表は見えないが、ここには昨日肉を食らった尼僧がたしかに眠っている。


「人間のやりたいことって、人間でなかったらできません。食べること、飲むこと、春のまどろみ、夏の力強さ、秋のざわめき、冬の静けさ……それらは人間でなかったら感じ入ることができません。でもそれって、自分自身が消えてまで欲しいものなのかが、わからなくなってしまったんです」

「師匠、八百比丘尼になった途端、おっかなくなるからなあ……」

「……今だったら、果心様が気遣ってくれた意味、少しわかるのですよ」


 彼は限りなく人間に近い絡繰り人形をつくり、実際に飲み食いをして、彼自身が絡繰り人形だということを悟らせないほどに精密なものをつくる天才だった。

 しかし彼は人からはすっかりと外れてしまっている。

 彼が何度か言った、人間に戻るのを諦めさせようとした意味は、なにも絡繰り人形以外を愛せないだけではないような気がしたのだ。

 あの飄々として捉えどころがなく、いつも周りを煙に巻く態度しか取らない者だから、いったいどこまでが本当なのかはさっぱりとわからないが。

 今は丹波にいるはずの果心居士のことを思うと、絡繰り人形にはないはずの心の臓がきゅんと疼くような気がする。彼女の体に詰まっているのは臓物ではなく歯車のはずだが、今の彼女には臓腑と歯車の区別が付かない。

 それらを黙って聞いていた小十郎は「ふーん」とだけ言った。


「なら、これから先どうするの? あてもなく旅?」

「いいえ。大坂や京は武家屋敷や豪商も多く守りが堅かったですが、それ以外のところでは未だに守りも弱く、どうしても妖怪が出ます。その妖怪を屠る手伝いをしようと思っているんです」

「ふーん。でもさあ、師匠。それだったらむしろ落ち武者狩りのほうがまだ道があると思うんだけどなあ」

「それはどうでしょうね?」

「と、言うと?」


 百合は辺りを見回した。

 未だ堺は道が整備され、行き交う人々も護衛なしで歩いている人すらいる。百合がかつていた国では、城下から離れたらそこまで人がひとりで歩いていても平気な場所はなかった。なにかあったらすぐに捕まって売られてしまう。貧乏になっても売られてしまう。彼女の知っている世界はそういうところだったのだが、どうも栄えている場所はそうではないようなのだ。


「もうちょっとしたら、もっと平和になるかと思います。そうなったら落ち武者もなかなか出なくなるでしょうから、まだ妖怪退治のほうが目がありますよ」

「うーん、そうなのかい……だとしたら、俺はどうしようかなあ」

「小十郎?」

「ずっと勝手にあっちこっちで戦をしているし、実際に俺たちの村を追われて、山に逃げ込んで畑を開拓するしかなくなったけどさあ。それでも落ち武者を殴って、身ぐるみ剥いじまえばなんとか生活できたんだ」


 聞かなかったことにしよう。百合はこっそりそう思いつつ、相変わらず子供なのか大人なのかさっぱりわからない弟子を見つめる。

 小十郎は相変わらず淡々としていた。未だに果心居士ほどの掴み所のなさは会得してないが、彼は年の割には物事を知っていて、その割にはひどく幼い、珍妙な情緒を育んでいた。


「だからさ、いきなり戦のない世の中になるって言われたら、俺が生きていく道はあるのかなって思ったんだよ。だってさあ、俺。師匠から教わった槍以外、取り柄はないし」

「ですが、あなたはもう算学だって学んでいますし、文字の読み書きだってできます。もちろん今は私が面倒を見てあげますが、私から独り立ちしても、きっとひとりで生きていけるようになりますよ」

「うん……だといいなあ」


 ふたりはそう言いながら、堺の港に出た。

 今度は堺から西へと向かい、世の見聞を深めようとそう思ったのだが。

 ふたりはまさか、人魚の肉の話には続きがあることなんて、想像もしていなかったのである。


****


 堺は名前の通り、三つの国の境に存在する町であった。

 摂津国、河内国、和泉国。

 そして百合と小十郎は、摂津国へと向かうことにした。丹波に向かった果心居士と違い、南へ南へと、百合たちは道を進んでいった。


「このあたりは農村が多いですね」

「おー……この辺り、堺と比べたらうちの村に結構近いな」

「そうですか……」


 小十郎の村はそもそも作物が未だに乏しいくらいにしか獲れないところなのだから、この辺りの豊かな田畑と一緒にするのはまずいような気が百合にはした。

 やがて、だんだん田畑の脇のあぜ道を抜けていくと、森に差し掛かってきた。さすがに荷車も押しにくくなるため、森を抜けるか回り道するかを考えあぐねている中。


「もし」


 女性に声をかけられ、百合と小十郎は振り返った。凜とした立ち振る舞いのその人は、どうも巫女のようだった。


「なんでしょうか」

「いえ。あなたがたもまさかとは思いますが、金鶏を盗みに参ったのですか?」

「はいぃ?」


 いらぬ濡れ衣を着せられ、ふたりは口をパクパクとさせる。巫女はキリッとした立ち振る舞いで言う。


「もうすぐ乱世も終わりが来ます。それだというのに、金鶏を盗もうとは不敬な。かくなる上は。はあっ……!」


 この巫女と来たら、何故か腰に小太刀を携えていたので、慌てて小十郎が槍で応戦した。ガンッと耳に突く音が響く。


「いっだあ……なんなんだよ、この人は!」

「やりますね。ですが、こちらだって負けてはいられません。やああああ……!!」


 ずっと小十郎が素振りや捌き方、突き方の稽古をしていたからだろう。背丈は巫女のほうが高いが、小十郎は彼女の太刀筋をかいくぐってきっちりと応戦していた。

 ちゃんと彼女の攻撃に応戦できている小十郎に、百合は心底ほっとしつつも、この戦いをどう治めるか考えあぐねる。


「大変申し訳ございません、私たちがこの地に来たのは、つい先程です。私たちはそもそも

、金鶏なんて存じておりません」

「また戯言を、たあ……!!」

「で、ですから……本当ですってば!」


 百合はどうすべきかと迷った結果、ちらりと荷車を見てから、魂を八百比丘尼のほうに移し替えた。

 唐突に百合の体が崩れ落ち、それで小太刀を振るう巫女の動きが少し緩やかになった。


「ああ、師匠。別にこれくらい俺ひとりで……」

「たわけたこと言うな。お前だけでなく、この女にもしものことがあったら事だ」


 そう言いながら、八百比丘尼は指を噛み切った。トロリと血が溢れ、それが蜘蛛の糸のように流れたと思ったら、巫女を縛り上げた。それに巫女は悲鳴を上げる。


「あ、あなた……! まさか妖怪で!」

「違……とは言い切れないが、うちの弟子とこれ以上やり合うのは勘弁願おう。私も寺社仏閣とは事を構えたくない」


 そう百合はきっぱりと言い切った。

 寺社仏閣には基本的に僧兵がいるものであり、自衛のために武装するのが常だった。今はあまり刀を派手に持つような戦がないようだが、それでも落ち武者が下手なことをしたら、人が死ぬ。人が死なぬために武器を構えるというのが出来上がっていた。

 大方この巫女が小太刀を震えるのも、その寺社仏閣の指示だろう。

 巫女はしばらく黙ってから、溜息をついた。


「……たしかに、あなた方は本気で金鶏を知らないようですので、これ以上は私も攻撃しません。ただ、この地ではどうしても金鶏を掘り当てようと有象無象が寄ってきてきりがないのです。このところ平穏になったせいでしょうか……戦がないせいで食いっぱぐれたものたちがやってくるのです」

「その金鶏とは、いったい? 私たちは妖怪退治を生業にはしているが、戦を所望はしていない」

「退治屋でしたか……なら、かまいませんね」


 こうして巫女は口を開いた。

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