小三太の父に鴨の味噌漬けを入れたお粥を出すと、勢いをつけてそれを貪りはじめた。それに百合は慌てる。


「臓腑に負担がかかりますから、あまり勢いよく食べないでください」

「ああ、ああ……すまんね、すまんね。美味い……美味い……!」


 それはもう、貪るとしかいいようのない食べっぷりだった。

 たしかにお粥や重湯では味気がなく、おまけに塩味だってついちゃいない。その点鴨肉に染みついた味噌の塩味は、人に活力を与える。それを貪りたくなる気持ちは、わからなくもなかった。

 小三太と小十郎に鴨の味噌漬けを焼いてやり、粟と一緒に差し出すと、すごい勢いで消えてしまった。あれだけ小三太を嫌がっていた小十郎もにこにこと笑い、今はふたりで仲良くぽんを引っ張り出してきて、ふたりでつつき回して遊んでいる。ぽんはときおりふたりのおいたに雷を落とすが、加減してくれているのか、家が燃え尽きるほどの威力はないようだった。

 その中、百合はずっと悩んでいた人魚の肝の糠漬けを見る。

 広げてみると、糠の匂いが広がり、肝自体はよくわからなかった。


(私、これを食べて……)


 八百比丘尼として生きるべきか、百合として絡繰りとして生きるべきか、彼女は未だに天秤が揺れ動いて決着が付けられないでいた。

 しばらく眺めていたら、先程までぽんと遊んでいた小十郎がひょっこりと出てきた。


「師匠、どうするんだい。結局」

「……ええ。どうしようか迷っていたところです」

「あのおっかない尼僧になるか、今のまんまの師匠でいるか、かい?」

「はい……八百比丘尼の体の呪いに取り込まれようが、八百比丘尼の体で人間になろうが……私という人間が消えてしまうことには、変わりありませんから」


 とっくの昔に百合姫は死んでいる。

 体を乗っ取られ、魂だけ八百比丘尼の体に移し替えられた。元の体を乗っ取った八百比丘尼だった誰かは、とっくの昔に国と一緒に朽ちている。

 百合はどうあっても、百合には戻れないのだ。だからこそ、本当に百合を捨てて八百比丘尼になるかどうかを、百合はずっと迷っていた。

 彼女は尼僧ではない。尼僧の体に入ったところで、思い出したかのように仏教の教えを説いているとはいえど、悟りの道には程遠い考えしかない、俗物なのである。

 百合が迷っている中、小十郎は「んー……」と首を捻った。


「師匠、あの肉屋、昼間も言ったけれどきっと詐欺師だよ」

「小十郎」

「だから食べたところで、きっとなんにも変わらないよ」

「小十郎」

「だから俺が食べてもいいかい?」

「そっちですか!?」


 励ましてくれているのかと思いきや、小十郎は口の中をよだれで満たして、食い入るように笹の葉に載せた人魚の肝の糠漬けを見つめていた。

 それに小十郎は「おー」と言う。


「もういいじゃん、師匠。食べてみれば。もし食べないって言うんだったら俺が食べるし」

「あなたね……もしあの肉屋が詐欺ではなく本当に人魚の肝を売っていたらどうしてたんですか?」

「んー? 俺、人魚の肉は不老不死になるって聞いているけれど、人魚の肝が不老不死になるって知らないし、不老不死を元に戻すってことしか知らないけど。つまりは、普通の人間にとっては人魚の肝なんて、ただのごちそうじゃないの? 違う?

「わ、かりませんけど……!」


 だんだん、悩んでいるのが馬鹿らしくなってきた百合は、一旦荷車に向かうことにした。

 荷車の上には布が被せてある。その布を百合が引っぺがすと、相変わらず丸まって寝ている八百比丘尼が眠っていた。

 百合は八百比丘尼の隣に寝そべると、目を閉じた。

 魂を移し替えると、パチリと尼僧姿は目を開いた。


「さて……糠漬けを食らうか」


 そうニヤリと笑った。


****


 ひとまず人魚の肝を切り、粟の上に載せて湯をかけて食べることにした。それを見ていた小三太と小十郎は「食べたい」と言ってきたので、百合は渋る。


「……糠漬けはしょっぱいぞ」

「平気。味噌漬けも美味かった」

「師匠、食べたい」


 人魚の肝を、普通の子供に食べさせて大丈夫なんだろうか。そう気を揉んだものの、結局は「あまり急いで食べるなよ」と言いながら、百合が食べようとしていた通りに差し出した。

 鴨の味噌漬けで薄々わかっていたが、ふたりに食いっぷりは凄まじいものであり、あっという間に食べ終えてしまった。

 百合もそれを食べる。ぷちぷちとした食感が不思議であり、これが人魚の肝だと言われてもにわかに信じがたいものだった。そして塩分は食欲をそそり、気付いたときには全て食べ終えていた。


「……美味かった」


 京の大店で毎日出されていた食事と、どちらが美味かっただろうか。

 そう思えるほどに、この珍味は美味だったが。問題は、これで本当に不老不死が解かれているかである。百合は、台所に入り、そっと包丁に指を押し当てた。

 が。指にじんわりと傷が通ったと思ったら、すぐに塞がってしまった。血を操る術も、魂を移動させる術も、あとあとこの体が習得したものであり、不老不死の有無と関係がない。つまりは。


「……ああ……」


 百合はぽろぽろと涙を流しながら、座り込んでしまった。

 不老不死は消えなかった。つまりはあの肉屋の売っていた肉は、さんざん小十郎が指摘した通り偽物だったのだ。つまりは。


(私は……まだ百合のままでいられる……私が……消えてなくなったりしない……)


 泣くことができるのは、人間の体だけ。いくら触感が戻ったところで、絡繰りの体では泣くことすらできなくなるのだ。

 しかし百合はそれでよかった。それがよかった。自分自身が消えてなくなるよりも、ずっとマシだった。

 自分自身がこれだけ自分自身に執着しているなんて、百合本人だって知らなかった話だ。


****


 百合が小十郎に「不老不死は消えなかった」と言ったら、小十郎は「ふーん」と答えた。彼はとっくの昔に肉屋が詐欺師だとわかっていたのだから「やっぱり」という態度であった。

 それに百合はぶすくれる。


「なんだその反応は」

「だってさ。俺何度も言ったじゃん。あの肉屋は嘘つきだって。師匠、藁にもすがる思いなのか肉捨てたいのかわかんなかったけど、全然聞いてくれなかったしさ」

「あーあーあーあー、私が悪うございんしたねっ!」

「別にそんなことちっとも言っちゃいないけどさあ。でも結局、その肉なんだったんだい?」

「わからん。ただ食感からして、魚卵のようには思う」

「魚卵? 魚の卵なんて食べられるのかい?」

「魚の卵は、たくさん生まれるから、魚を捌いたときに出てきたら、それに火を通して食べるんだが……私たちはいったいなにを食べたんだ?」


 あの問題の肉屋をとっちめて尋ねるべきかどうかは、わからなかった。

 ちらりと見ると、あれだけ苦しんでいた小三太の父の様子は今は安定し、変な咳をしていた肺も今は落ち着いている。それにほっとして、小三太も転がって眠っていた。


「……私もそろそろ絡繰りに戻る。小十郎。お前ももう寝ろ」

「うん、おやすみ師匠……でもさ、俺は師匠が師匠のまんまでよかったと思うよ」

「……それはどういう意味だ?」

「師匠はずっと自分の体に食い潰されるのを怖がっていたから。そうならなくってよかったというだけでさ。俺は絡繰り人形の体であろうが、師匠は人間だと思うから」

「……人の器でなくてもか?」

「人の器だから、あの果心に惚れたのかい? 器が変わればそれって薄らぐのかい?」

「……あれの話をするな」


 百合はむくれると、小十郎を寝かしつけてから魂を再び絡繰り人形の器に戻したのだ。尼僧の体を再び荷車に乗せ、そこに布をかけながら、百合は空を見上げた。

 果心居士は今は丹波を旅しているという。彼の持つ技術は素晴らしい。幻術を巧みに操るだけでなく、技師として絡繰りだけでなく細工ものにも精通しているのだから、困っている人々を助けるだろうし、それで金を稼ぎながら旅を続けることも可能だろう。


(……あの方を追いかけるのは、小十郎が成長してからですね)


 人に限りなく近い体だが、それでもつなぎ目を見たら彼女が絡繰り人形だとわかってしまう。関節は人のものとは程遠い、人形のものなのだから。

 百合はそう思いながら、空を眺めた。

 絡繰り人形にとって、一日は全て一直線上に存在する。

 夜になれば星を眺めて明日を読み、日の入りの金色を眺める。空が白んで青空が出た頃、やっと人の営みははじまるのだ。

 夜に誰かと語らえるようになるまで、まだまだ時間はかかりそうだった。


****


 ふぐという魚がいる。

 その身は口がとろけるほど美味いが、毒がある。

 時には口がぴりぴりするのがたまらないとその毒を好んで食べる人間もいるが、羽目を外して死ぬ人間も出ている。

 おかげでふぐ鍋は別名てっぽう鍋と呼ばれている。いつ死ぬかわからないからてっぽう鍋とは、ずいぶんな名前を付けたものだ。

 しかし、世の中には珍味を食べたい人間は意外と大勢いて、さらにどうにかして毒を克服して食べたいという者たちも大勢いて、とうとうふぐの毒を克服してしまった。

 それは、基準通りの手順で糠漬けにすることだった。

 その手順通りに漬けられたふぐの糠漬けは珍味として、大名が好んで食べたという。

 どうして糠に漬けたら毒が消えるのかはわからない上、手順をひとつでも謝ると毒が消えないという謎。

 その謎は謎のまま、その手順だけが延々と残されている。

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