水鳥がついーっと飛んでいるのを眺めながら、舟は進んでいった。

 小十郎は話のいきさつを聞きながら、行方不明になっていたぽんを頭の上に乗せている。


「結局なんで河童が暴れていたんだい?」

「それが原因がわからなかったんです。強いて言うならば……酔っ払っていたようでした」

「酔っ払った? 河童の皿に酒でも入ってたのかい?」

「私にもそこまでは……」


 百合と小十郎がしきりに首を傾げる中、果心居士はくわりとあくびを噛み締めていた。


「いやいや。河童が舟を止めるほどの大暴れをしていた酔いっていうのは、酒のほろ酔いじゃあまず無理だろうね」

「ほろ酔いではなく……なら泥酔してたんですかねえ?」

「ははははは、おひいさんは相変わらず、突拍子もないことばかり言う」


 暗に「全然違う」と言われ、百合は思わず肩を竦めるが、小十郎は「んー……」と小首を傾げた。


「酒以外で酔ったってこと? 場の空気に酔うとか、女に酔うとか、うちの村の連中はしょっちゅう言ってたけど」

「小十郎、あとでお話があります」

「師匠ー、うちの村ではこれが普通だったんだって」

「あなたの村、ほんっとうにろくでもありませんね!?」


 あけすけが過ぎる言動は慎む。城勤めをしていた百合だったらいざ知らず、娯楽のほぼない開拓農民の小十郎とその村でだったら理解できるはずもない話である。

 師弟のやり取りに「ははは」と笑いながら、果心居士は今回大手柄だったぽんの頭を撫でる。ぽんはパチンと小さな雷を出したが、人形である果心居士はどこ吹く風だ。


「河童は元々相撲を取る、尻子玉を引っこ抜く、それ以外だったら大したことのない大人しい妖怪だ。たしかに中には人を川に引き摺り込むような悪逆を働く奴もいるらしいが、今回当たった河童は比較的大人しい奴だった」

「たしかに……殴れども刺せどもびくともしませんでしたが、人を川に引きずり込むんでしたら、行商の方々は舟を使うのを諦めていたでしょうに、待っていました。まるで」

「……酔っ払いが鎮まるのを待っていたようだなあ」


 酔っ払いは水を飲ませて酔いを醒まさせるか、物理的にねじ伏せて寝かせるかすれば治まる。行商は基本的にたくさんの商品を仕入れて商いを行っているのだから、川に引きずり込まれると知っていたら商品が傷むと判断して、舟から徒歩に切り替えていただろうが。彼らは舟乗り場付近で商売をしていたのだから、酔いが醒めれば終わるとわかっていたのだろう。

 果心居士は続ける。


「血で酔ったんじゃないかい?」

「血? 戦にでも出たんでしょうか」

「この数年、日ノ本じゃ大がかりな戦は起こっちゃいねえ。だとしたら、余計な肉でも食らったんじゃないかい? 鯉かどじょうを食らおうとして、人魚の肉でも食らったか」

「…………っ!」


 百合ははっとして果心居士を見た。果心居士は目を細める。


「自分は人間の体にゃ未練がねえが、おひいさんは人魚の肝を探してるんだろう? 河童が暴れ回り、尼僧の体が呪いの塊になるような物体だ。食べてまともかどうか、わかりゃしねえが、それでも食らう気かい?」

「……私は……」


 今のままでいい。今のままがいい。果心居士の親切心で、触覚が生まれた絡繰りの体だ。果心居士に仕立ててもらった着物は、八百比丘尼の体に合わせていたはずなのに、不思議と百合の体にもぴったりと合った。むしろ、名前の通り山百合のような出で立ちの百合のほうが、仕立てた着物によく合っていた。

 八百比丘尼ほどの美貌はなくても、馴染んだ絡繰りの体。その体のままでいられたら、どれだけよかっただろうか。

 百合は口を開いた。


「……見た目は変わります。呪いが解けるかはわかりません。それでも……人間の体がいいんです。私は時間の流れがわかりません。私にとっては瞬きの数ほどの時間でも、小十郎にとっては大変な時間が経っていること、ありますから」


 百合にとって、最初の体を奪われ、八百比丘尼になって火刑にかけられてから十年経っても、彼女にとっては大した時間ではなかったのだ。

 子が生まれ落ちたら、既に妹弟の世話をしている年頃だというのに、それでも、彼女は時間の流れの速さを、なんとも思っていないのだ。

 だからこそ、ちゃんとした時間を感じられる体でいたかった。


「私は……まともな人間に戻りたいんです。朝が来て、昼が過ぎ、夜を迎えて次の日を感じられる……そんな……そんな体に戻りたいんです」

「そうかい。それがつらいことかもしれないが」

「……あなたは簡単に人間の体を捨ててしまいましたが、つらくはなかったんですか? 苦しくは?」

「ははははは。おひいさん。自分はおひいさんほどの繊細さは持ち合わせちゃいませんぜ」


 果心居士は百合の髪に指を滑らせると、何度も何度も撫でた。それは恋人にするような情けをかけているのか、子供をなだめるためにしているのか、百合にはいまいちわからなかった。

 やがて。京のどこか緩やかだった空気はなりを潜め、がやがやと騒々しい空気が舟乗り場の向こうから漂ってきた。

 大坂に着いたのである。

 このまま乗って丹波に行こうとする果心居士とは、ここでお別れだ。


「大坂についたら、歩いて行けば堺に到着する。堺は物流の合流地点で、北からも南からも商品がやってくる。特にあの地はいい刀や包丁も揃っている。おひいさんはもし本当に人魚の肉を手に入れたのならば、そこらでいい包丁を買うといい」

「……本当に。なにからなにまでありがとうございます」

「おひいさん。今生の別れって訳じゃねえんだ。そろそろ手を……」

「あ」


 降りなければ舟は進んでしまうのに、百合は名残惜しがってなかなか足が舟乗り場に向かない。溜息をついた果心居士は、彼女の掌を取ると、その掌を広げて、唇を押しつけた。そこには湿り気はなく、あれだけ酒を飲んでいても嘘のようにからからとしている。


「…………っ」

「ほら、人間ではなかった。それじゃあおひいさん。お達者で。縁があったらまた会いましょうや。坊も元気でな」

「おーう。師匠、師匠。行こう」

「……はい」


 百合はカラカラと荷車を引きながら舟を降りていった。舟はゆったりと進んでいくのに、百合は何度も何度も手を振った。


「師匠、悲しい? あの人いなくなって」

「……そうですね。おかしな方でした。おかしいと言えば、あの方自身のことを絡繰りだと言い張っていた割に、食事をしていましたね? あれは結局どうだったんでしょうか?」

「あ、そういえば」


 彼は幻術師であり、奇術師であり、絡繰り技師であった。どこかで奇術や幻術の種を仕込んで惑わせていたこともありえそうだった。

 百合はもやもやとした。


「……私たち、あの方のことなんにも知らないままでしたね。私にあの方は同士だと親しみを込めていましたのに」

「でも果心が絡繰り人形以外に興味なかったのは事実だと思うー。八百比丘尼のときの師匠よりも、今の師匠のときのほうがあからさまに機嫌がよかったから」

「あの方、本当にそればっかりですね……ずるい人。それじゃあ、参りましょうか」

「おーう」


 カラカラと荷車は進んでいった。


 果心居士。その正体は何者なのか、そもそも人間だったのか妖怪だったのか、誰も知らない。何故か時の有名人の前にひょっこりと現れては立ち去っていく、掴み所のない存在だったという記述だけが存在している。

 何度死んでも何故か死なないとか、壊した物さえ元に戻すとか、不思議な逸話ばかりが残されている。

 ただ、それらの共通項として、彼が現れた人々には大概天下人としての素質があった。天下を取ったか否かは、後の歴史のみが語ることだ。

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