人魚
一
カラカラと荷車を引く音が響く。相変わらず荷車の上には丸まった尼僧が眠っており、その横を小十郎が歩いている。荷車を引いている百合は、「わあ……」と言いながら辺りを見回していた。
京もまた、趣のある建物が多かったし、大店にしばらく滞在している間も豊かなおもてなしを受けていたが。大坂は堺もまた、活気があり豊かな雰囲気に包まれている。
「人が多いですね……賑やかです」
「すごいなあ……人間ってこんなにたくさんいたんだ」
「小十郎の村の人数より多いですね」
「うちの村、全員集まってもこんなにごみごみしないぞー」
冗談を飛ばしてはいるものの、百合だって城勤めの人々を全員集めたところで、これほどの密集になるのかは疑問に思った。
大坂は東と西の境の都市であり、特に堺は港により日ノ本各地から物が届いた。物流の流れが早く、物珍しいものも次々と並ぶ。
物流がさかんということは、当然ながら行商だけでなく、品を買い求めに来た人々、行商たちが泊まるための宿や茶屋、それらが集まり、より一層賑わうという寸法だ。
「ここだったら……売っているやもしれませんね」
「人魚の肉かい? でもさあ、師匠。人魚の肉だけだったら不老不死になるだけで、必要なのは肝なんだろう? 肝なんてそう簡単に売ってるのかい?」
「さあね。河童が酔っ払っていた理由が、人魚の肉だと信じる以外にありません」
あの不可解な河童。あれが酔っ払った理由が、人魚の肉であることを祈るばかりだ……これが新酒だったら、目も当てられないと内心百合は思った。
市に入ると、「いらっしゃいいらっしゃい」とあちこちの店の人々から声をかけられ、腕を取られ「これを買わないかい?」と勧められる。
採れ立て新鮮な野菜、魚、貝。時には米を炊かれて、それを握って売っている人々もおり、時には目の前で団子を焼いて売っている人々もおり、それらにどうしても小十郎は腹をキュルキュルと鳴らせて見つめていた。
「師匠……」
「小十郎……たしかに私たち、果心様のおかげで少々小銭持ちではありますが、宿も取らなければなりませんのに、全部は買えませんよ?」
「でもなんかひとつくらい……」
小十郎に涙目で訴えられる。それに百合は大きく溜息をついた。
武士は食わねど高楊枝。先に民に食事が行き届くようにという考えが武士のものだが、あいにく小十郎は開拓農民の子である。食べられるときに食べて、食べられないときはひたすら我慢を重ねる生活なのだから、百合の価値観と合う訳がない。
「……ひとつだけですよ」
「わあ! ありがとう、師匠」
「はいはい。どれになさいますか?」
「うーんと……」
小十郎が目を輝かせて、どれを買うべきかと見ていたら。ドンッとこちらにぶつかられた。子供である。年の頃は小十郎より幼いだろうか。
「ああ、すまねえ」
「はい。気を付けてくださいね……あと、あなたの手癖はなんですか」
百合はぶつかった子供を立たせながら、ぐいっと腕を持ち上げた。途端に子供は「いたいいたいいたいいたいいたい」と悲鳴を上げる。
小十郎はちらっとその子供を見ると、懐の膨らみにひょいっと手を伸ばした。
「ああ、これ果心と稼いだ金ー。持ってくなよ。大道芸やって稼いだんだぞ」
「か、返してくれっっ! 金だ!」
「いけません。人のお金を盗って自分のお金だと主張するのは大変によくありません」
百合がきっぱりと言い切るが、それでも子供はバタバタしながら小十郎に手を伸ばすが、小十郎は背伸びして、金の入った袋を持ち上げる。
「これは俺たちがご飯を食べて、宿を取る分ー。他当たれよ」
「お前らはそれで堺を豪遊するんだろう!? おれは金がないと……父ちゃんが……」
「……穏やかではありませんね。あなたのお父様、どうかなさいましたか?」
百合は尋ねると、何度も何度も小十郎に手を伸ばしていた子供の背中は丸まり、シュンと縮こまってしまった。それを眺めながら、百合は言う。
「お金は渡せませんが、少しばかり診ることならできますよ」
「……姉ちゃんお医者さんかい?」
「医者ではございませんが、心得はありますから」
医者が呼べないような場合、城の周りに生えている野草を摘んで薬代わりにしていた百合だ。城勤めの頃は、それなりに知識があった。
子供は少し迷ったあと、小さく言った。
「……こっち」
こうして、百合と小十郎は一旦人魚の肉探しを止めると、子供の家に向かうことにした。
****
どれだけ豊かな町であったとしても、一歩路地裏に入れば、あちこちに洗濯物が引っ掛けてあり、子供たちが棒を持って走り回る民家の通りになる。狭い路地にはみちみちと掘っ立て小屋のような家が建ってあり、そこに人々がひっそりと暮らしているようだった。
「ちなみにあなたのお名前は? 私は百合で、この子は私の弟子の小十郎になります」
「うん……おれは小三太。あの、荷車の人は?」
相変わらず荷車には尼僧がいるのだから、小三太は気遣わしげにちらちらと見るが、それに百合は首を振る。
「あの人はあのままで結構です。それで、お父様は……」
「父ちゃんはこっち……父ちゃん。肉は買えなかったけど、お医者さんみてえな人は連れてきた」
「小三太ぁ……うちにゃ医者にかかれる金なんかねえぞぉ……」
どうにも息が荒れている。ぜいぜいと言っているので、念のため百合は小十郎に「荷車の近くで待ってなさい」と言った。それに小十郎は変な顔をする。
「なんで?」
「流行り病でしたら移ります。私は絡繰りですから問題ありませんが、あなたは生身の人間でしょうが」
「ああ、そっか。わかった」
百合はそろそろと向かった先には、寝台でぜいぜいと息を切らしている男がいた。小三太の父親だろう。
「小三太、あなたのお母様は?」
「去年流行り病でぽっくりいった。次は父ちゃんかもしれねえ」
「……息が荒れていますね」
百合は熱が測れることを祈りながら、父親に手を伸ばした。熱い。そして小三太の額にも手を伸ばして温度を比べる。
「……やはり高い。そしてこの咳……」
どう考えても、このおかしな咳は肺を患っている。肺を患った風邪なんか、もう助かる見込みは南蛮渡来の薬くらいだが、そんなもの当然ながらここにはない。
それでもせめてもと、百合は台所に入った。台所を見ると、粟はあったので、慌ててかまどに火を点けて、粟を水で煮はじめる。
「あの……肉は……」
「今肉を食べさせてもあまりよくありません」
粟でお粥をつくる。病人はとにかく栄養が足りないが、臓腑が弱っていたらほとんどのものは食べきれないのだから、できる限り食べやすいものを食べさせる。百合はギリッと歯を食いしばった。
(この家は見たところ、本当に今日一日食べられる分の食事しかないし……栄養のあるものを食べさせようにも、体にいいものなんてほとんどない。この辺りは野草の生えそうな場所に片っ端から家を建てているから、摘むことすらできないし……)
一応それを食べさせたあと、汗を掻いているのをお湯で温めた手拭いで拭ってやり、一旦呼吸が落ち着いたのを見ながら、百合は話を聞くことにした。
「あなたが私たちの財布を盗んだのは……」
「……市にたまに来るって聞いたから、それを買おうと思ったんだ」
「市にですか?」
「食べるとどんな病気も治る肉屋が」
「……ぬっぺっぼう」
それは以前、百合が小十郎の村で仕留めた妖怪である。それに百合はまたしても歯をギリッと鳴らした。
(あのときの肉を売ってなければ、この子のお父様に食べさせられたのに……そのまんま食べさせることができなくても、せめて出汁にしてしまえば……)
あのよくわからない肉塊の妖怪を、薬師が心底嬉しそうに買い取っていったのが忌々しかった。しかし小三太は「ぬっぺっぼう?」と首を捻っている。
「おれの買おうとしてた肉、そんな名前じゃなかったけど」
「あら、違ったんですか?」
「そんなよくわからない名前じゃなくって……人魚の肉屋だって言ってた」
「…………っ!!」
まさか、探していた肉屋の名前をこんな病人のいる家で聞くことになるとは思わなかった。小三太は動揺している百合を見て、慌てて首を振った。
「ご、ごめんよ。もう盗まないから!」
「いえ……もしその肉屋が本当にあるのでしたら……探したいと思います」
しかしそれは百合にとっては喉から手が出るほど必要なものだが。
(でも……いくら病気が治る肉だからって、そんなものを普通の人間に食べさせてしまって平気?)
あれは本当に死ぬことはかなわず、最終的に呪いの塊になってしまうもの。そんなこと、小三太だって望んではいないだろうに。
しかし、南蛮の薬なんて、果たして百合たちが手を出せるものなんだろうか。百合の悩みは尽きなかった。
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