百合の絡繰り人形は全部組み立てられた。

 もうどこが壊れていたのかさえわからない、つるりとした肌。きちんと隠された関節。尼僧は尼僧姿に戻り、百合は久し振りに絡繰り人形に魂を移し替えた。


「……あら?」

「師匠?」


 百合は手を動かし、首を動かし、腰回りを少しだけ回してみる。前のときは、触覚がないせいでなにもかも、ただ見ているだけという感覚が抜けきらなかったが、今はどうなのか。


「いい出来でしょう? おひいさんの言っていることを、きちんと人形に反映させたのさ」


 果心居士はニヤリと笑う。それに百合は体に触れた……硬い。つるつるしている。それに思わず手を跳ねさせた。


「……人形なのに、触覚が?」

「ええ、ええ。自分の幻術でちょーっとばかり、感覚を与えたんですよ」

「絡繰り人形に幻術を使い続けているんですか?」

「人形であったとしても、おひいさんは視覚も聴覚もきちんと存在している。それを弄れば、さも触覚があるように感じるんですよ。ほら」


 そう言いながら果心居士がするりと百合の腰を撫でるのに、百合はビクンと腰を跳ねさせた……今までだったら触られても反応が遅れていたが、たしかに人間のときのように、触られるとすぐにわかる。

 ……そして不愉快だ。思わず百合は果心居士の手の甲を抓り上げた。


「触覚をくださってありがとうございます……そして人の体をむやみやたらと触らないでください、不愉快です」

「いたたたたたたたたたた……」


 果心居士はあからさまに悲鳴を上げるのを、小十郎は呆れた顔で見た。


「果心はどうしてそんな余計なことしかしないんだ?」

「いえねえ……人形が好きなんですよ。自分は」

「……あなた。まさか八百比丘尼のときの自分にはなんの反応もしなかったのは……」

「どれだけおひいさんがあれを呪いの物扱いしたってねえ。ありゃ人間ですし。おひいさんは人間に戻りたがってはいますが、自分はそれをひどく残念だって思ってますよ。本当に」


 百合はあからさまに自分自身を抱き締め、小十郎は本気でわかってない顔で果心居士を見ていた。そして百合はしらけきった目で果心居士を睨んだ。


(私が八百比丘尼の体で見たとき、彼に対していちいちときめいていたのは……錯覚。ええ、錯覚だったんだわ。この人本当に……気持ち悪い)


 遅過ぎた恋は、あまりにも呆気なく散ってしまった。

 彼女は恋に恋する年頃でもなければ身分でもない。それでもしてしまったものはしょうがないと諦めていたが、終わるのも早かった。

 ただ、恋が終われど情が終わる訳でもない。


「それで……私たちはこれから大坂に向かいますが、果心様はどうなさいますか?」

「そうですなあ……自分は正直、関白殿下に見つかりたくないんで、大坂には行けないのですよ。ですので、舟でお別れですな。そこまでは送りましょう」

「そうなのですか……残念ですね」


 実際にこの御人がなにをそんなに公家から目を付けられているのか、百合の知識や常識ではいまいちわからない。彼の技術がすごいこと、彼の幻術がすごいこと以外、なにもわからないのだから。

 でもこの三人で歩くのもこれでおしまいかと思うと、名残惜しくもある。


「あのう……果心様は、大坂には出ないとなりましたら、次はどちらへ?」

「そうですなあ……どこに行こうか迷っているところです。最近東のほうには大きな都が建設中というので、そちらに行ってみるのも面白いでしょうし、関白が死ぬまで丹波のほうに潜伏するのも一興でしょうし」

「結局は大坂には入らないで素通りするおつもりなのですね……」

「はい。あまり寂しがらないでくださいよ」

「……寂しがっていません」


 いや、嘘である。

 百合からしてみれば、弟子の小十郎以外では初めてだった。自身が人間でなくてもよく、八百比丘尼の狂乱を見ても脅えられることもなく、ただの人間と同じように接して、ただの女のように扱ってくれたのは。

 これで果心居士が好きなのが人形ではなく人間であったのなら、百合はもうちょっと早く人魚の肝を食らって人間に戻りたかったが、彼の好みが人形だと知り、どうしたもんかと悩んでしまっていた。それくらいには、彼には情が湧いてしまっていた。

 小十郎はぽつんと百合にだけ聞こえる声で言う。


「師匠も四の五の言ってないで、最後の思い出で夜這いでもしたらよかったのに」

「小十郎!?」


 耳年増の小十郎の耳を思いっきり抓り上げ、小十郎は「痛い……」と涙目になる。それを果心居士はカラカラと笑った。


「あまり弟子に当たりなさるな。どうせ……うん十年経って、ひとりが寂しいと泣くようでしたら、抱いてあげますから」

「……あなた」


 思わず百合は目を見張った。

 ふたつの体を行ったり来たりして感覚が麻痺してしまっている百合はもちろんのこと、ずっと人間のままの小十郎すら、わからなかった。

 果心居士はぺらりと傾いた袖を捲り上げた。

 剥き出しの腕についている丸い関節は、あからさまに人間にはないもの……彼もまた、絡繰り人形だったのだ。


「……どうして? どうして絡繰り人形が……でも、あなた前に会ったときと姿や口調が違うのは……」

「ああ、この間申したでしょう。ちょっと有名な大名と揉めましてねえ。そのせいで危うく死ぬところでしたのでね。自分自身を絡繰り人形に変えて逃げたのですよ」

「関白殿下に疎まれているのは」

「さあ。あの人はなんでそうまでして自分に目を付けているのかわかりません。単純に気に入らないのかもしれませんし、人間が魂を絡繰り人形に移し替えて生きながらえる術を、危険だと思ったのやもしれません」


 頭が痛くなるというのは、こういうことを言うのだろう。百合は思わず額に手を当てた。


(私がずっと欲しかった肉体を簡単に捨てて絡繰り人形になって……生身の女に興味がないと思ったら絡繰り人形の女に惹かれて……そんなの、ただ同類が欲しかっただけじゃない。どうして混ぜっ返してばかりで、先に大事なことを言わないんでしょう……いいえ、それは私も同じか)


 百合が自分がどんどん人間の感性から離れていくのを怖がり、なんとか体をふたつ往復することで人間性を保っているのと同じように。

 果心居士もまた、同類と一緒にいることでどうにかして人間性を保っている。

 人じゃない体に対する感情が、ふたりとも違うだけなのだ。


(……ずるい人)


 百合は心の底からそう思った。

 人間に戻りたくて仕方がない百合と、人間じゃないままのほうがいい果心居士。

 果心居士に気に入られたくば人間に戻ることを諦めねばならず、人間に戻りたければ彼に対する恋だけでなく情まで捨てないといけない。

 それをずるいと思わずしてなにを思うのか。

 百合は自身のしっとりとした感情に嫌気が差しながら、一旦都を離れた。

 京の南東に舟が出る。それに乗れば大坂に出られるはずだ。

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