フラクタル・ラブ

藤原くう

第1話

 ここに「フラクタル・ラブ」という小説がある。表紙に描かれた、ベンチに腰掛け本を読む女子高生が印象的な本だ。


 ひねくれ者な私がそんなもんを図書室で借りてきたのは理由がある。


 知りたかったのだ、愛というのが。


 愛とはいったい何なのか。


 この世に生まれ落ちて幾星霜。私に好きな人ができたためしはなく、私のことを好いてくれるような人もいたためしもない。


 みんな、私のことをかわいいかわいいって言ってくれる。猫にも勝るとも劣らないほどかわいがられているというのに、私へ告白してくれる人が一人もいやしないのはなぜだ。


 目元を隠すほど髪を伸ばしているのが悪いのか、それともハサミを制服の袖に隠し持っているからなのか。


 ……うーむ、皆目見当がつかない。可愛いというなら、靴箱を開けば手紙の雪崩が起きてしかるべきだろう


 可愛いのなら告白しろ、だって?


 どうして好きでもない人に告白しなくてはならないのか。そんなことをのたまう奴は馬に蹴られて死んでしまえばいい。いや言いすぎか。でも、可愛いというならば、私から告白しなくても愛されるはずなの。


 この本を読めば、作中の女子高生のように愛の一端を垣間見ることができるのではないか――そう思って、つい先ほど図書館で借りてきたのがこちらの本。


「こうやって手に取ってみると、ふつーの小説ね」


 ハードカバーの表紙をめくってみれば、題名と男か女かもわからない作者の名前があり、その先には本文が続いている。


 やけに主人公の語り口調が鼻につくところはあったけれど、パクチーみたいで刺激的。ちなみに私はパクチーが大っ嫌いだ。あんなもんなくなってしまえばいいのに。


 そんなことを思いつつ、図書室と職員室とを結んだ線の中ほどで立ち読みしていたら、職員室から出てきた動く先生Tに注意を受けたのだった。




 高校の屋上といったら、フィクションにおいては人気の場所だろう。あまたの作品において、男女あるいは男男もしくは女女が、ちんちんかもかもしていると相場が決まっている。あるいは、屋上という楽園へ続く門に銀の鍵がかけられ、不可侵領域になってしまっているかだ。


 うちの高校の屋上はそのどちらでもなかった。つまり、誰でも入れるけれども誰もいない。


 扉を開けてすぐ目に入るのは、安全を嫌でも思い知らされる緑の網。そのセーフティネットは空を緑色に染め上げていた。景色なんてあったものではなかったし、こんな中で接吻したって眠り姫も目覚めてはくれないだろう。それどころか千年の恋だって凍えるに違いない。


 そういうわけだったので、屋上には私一人しかいない。貸し切り状態の屋上を横切って、寂しげに風に吹かれているベンチへ腰掛ける。


 本を開いて、小説の続きを読み始める。


 ページからこぼれ落ちそうな文字たちは左から右へと流れ、火山灰のごとく堆積した文章は下から迫り上がってくるかのよう。横書きの小説というのはあまり読んでこなかったけれども、結構読みやすい。


 黒い文字の流れを目で追う。目から入った文字は、脳で咀嚼され、映像として浮かび上がってくる。


 フラクタル・ラブという小説の登場人物は私と同じ女子高生。私と違うのはボッチ(ここ重要)という点で、愛というものを知らない。後者に関して言えば、私と同じだ。その少女は本を読んで、愛を知っていくという話らしい。まだ五分の一ほどだけども、物語は淡々と進んでいる。


 と。


 私の背中に何やら視線を感じた。


 時に、背後からの視線を感じたことはあるだろうか。その時、すぐに振り返ったことは。ないなら今すぐ振り返ってみてほしい――そこには何もいなかっただろう。当然だ。だって、視線の主はあなたの足元から覗き込んでいたのだから。


 ……嘘です。足元に何かがいるわけがあるかいな。常識的に考えてさ。


 気を害したのなら謝るけれど、私の場合はそうじゃなかった。といっても、私の股の下に何かがいたわけではない。地面にへばりついている影を見ても、私を見つめる目はなかった。


 じゃあどこにいるのかといえば、手すりを越え、二十メートルは滑り落ちた先にあるグラウンド。


 そのグラウンドでは、陸上部と野球部が肩身の狭い思いをしながら、部活動に精を出している。実に青春って感じ。あの方々が発散するエネルギーを取りだしたら、冬の寒さどころか絶対零度だってタジタジとなってしまうに違いない。


 そのグラウンドに、エントロピーを失った原子みたいに動きを止めている生徒の姿があった。どうやらそいつは、屋上にいる私のことを見上げているらしかった。


 目が泳いでいる彼はクラスメイトの佐藤君。目が合ったと私が認識しているのと同じように、佐藤君も目が合ったと思っているらしい。おどおどしている彼へ、私はハエを追っぱらうように手を振った。


 佐藤君はポッと顔を赤らめると、何かにせっつかれるようにグラウンドへと繰り出していった。


 石灰でできたラインを、白球を避けるようにしながらハムスターのように駆ける佐藤君を眺めていると、心の中に何やら暖かいものがこみあげてくる。


「これが恋……?」


 なわけあるか。ないない絶対ない。


 私は首をふりふり、本に向き直る。本の中の少女も私と同じことを考えていたらしい。同じようなセリフを述べていた。すごい偶然もあったものだ。

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