文明の子
私は1人旅が大好きだ。
誰かとの旅行も好きだけど、1人旅特有の静かな空気感と、止まっているかのような時間の流れは得難いものだ。
そんな中で今でも鮮烈に印象に残っている旅がある。
それは社会人2年目の秋に出掛けた熊野古道での出来事だった。
当時、私は失恋と言うよくある出来事の傷を癒やしたくて、有給を取り1人で大好きな熊野古道へ出かけた。
今回目指すのはツヅラド峠と言う山道を踏破することだった。
とにかく無人になって身体を酷使したかったのだ。
道中渋滞もあって、本来午前中から歩くつもりが午後の到着になったけど、私は気楽なものだった。
空手を少女の頃からやっていたのもあり、自分の体力や運動神経を過信していたのだろう。
あんな1件になるとも思わず……
午後にツヅラド峠に着いた私は、軽くお昼を食べたあと意気揚々と歩き出した。
自分で言うのも何だが自分の足なら3時間あれば問題ない。
今からなら夕方には戻れるだろう。
冬に近い秋のせいか、人も居らず私と鬱蒼と茂る森のみ。
その非現実的な後景に軽く酔いしれながら、私は足を進めた。
そんな心地良い気分で歩いていると、ふと背後から足音が聞こえてくるのを感じた。
私以外で人がいたんだ……
やや驚きながら振り返ると、その人は小柄な男性だった。
でもフード付きのパーカーを着ているせいか、顔は見えない。
ペコリと頭を下げて再び歩き出す。
でもそれから30分ほどたつと、私の中に妙な不安感が湧いてきた。
後ろの人の足音、私にずっと合わせている。
たまたまかも知れない。
でも不安になって振り返り声をかけてみる。
「あの、私休もうと思うのでお先にどうぞ」
彼は少し立ち止まった。
そして、その後の行動に私は息を呑んだ。
彼が小走りで私に向かってきたのだ。
嘘……
脳の隅で「逃げろ」と言う言葉が聞こえたような気がした。
周りには誰も居ない。
でも、私はまだ信じられずにいた。
正常性バイアスと言うやつだ。
私は前を向き、朗らかな小走りにしてみた。
もしかしたら彼が一休みするかも、と期待したのだが予想に反して後ろの足音も早くなる。
私は涙を浮かべながら駆け足になった。
こんな事なら誰かと来れば良かった。
いつから着いてきてたんだろう。
かなり動揺してたのだろう。
わたしは何を思ったか、道の近くに上に上がる急な坂を見つけて、そこに垂れ下がっている鎖に捕まり必死に登った。
後ろからの足音は聞こえない。
それでも怖くて、あまり舗装されていない道を選んで必死に進んだ。
そして、眼の前をちゃんと見ていなかったせいで、足を滑らせ道の脇に3メートルほど滑り落ちた。
足に激しい傷みを感じたが、それよりも彼は?
泣きながら道を見ると人の気配はない。
それでも怖くて1時間くらいだろうか、茂みの中に隠れてじっと息をひそめた。
そしてようやく安心感が湧き上がってきた。
助かった……
足の具合もそれ程痛くない。
これなら帰れる。
そう思った私は周りを見てゾッとした。
薄暗くなっている。
冬に近づいていたため、日が落ちるのが早かった。
そして、私は現在地を完全に見失っている。
ここ、どこ?
それから、1時間は極度の不安で泣きながら歩いた。
もう周囲は完全に暗くなっている。
もうどこかで野宿しよう。
これ以上歩いてるともっと大変な事になっちゃう。
でも、さっきの人と出くわしたら……
その時はもう問答無用でやっつけるしかない。
空手は素人さんに使うのはご法度だけど、そんなこと言っていられない。
迷ってしまいギリギリまで逃げてたけど、早い段階で使ってれば良かった……
単なる旅行者で偶然同じ歩調の人だったなら、後で土下座して謝ろう。
なので、もし会ったら足か腕、蹴らせて下さい!
そんな事を考えながら、観念して野宿の準備……と、言っても何も無い。
足の痛みはテーピングをキツく行ったせいか、有り難いことに収まり始めている。
ションボリしながら、リュクサックの横を探ると、そこにはいつの間に紛れてたのか大きなスズメバチが押しつぶされていた。
その色合いは暗闇でも分かる。
私は悲鳴を上げてリュック投げた。
そして、心が折れてその場でシクシク泣きはじめた。
そして、泣きながらスズメバチを払い落とし、リュクサックを背負うと僅かに痛む足を引きずっでまた歩き始めた。
その場に居るのが堪らなく怖かったのだ。
自分が危険過ぎる事をしている自覚はあったけど、三十分程歩いた。
すると……突然目の前が開けて、舗装された広場らしいところに出た。
あの時の全身から力が抜ける気持ちは今でも覚えている。
早鐘のように鳴っている心臓を落ち着かせながら、足の痛みも忘れて歩くと……離れた所に光が見えた。
助かった……文明の光。
私は誰も居ない開けた道の土の上に体育座りをして、その場でまた泣き出した。
嬉しくて。
その時見た寂れた街の点在する光は、本当に美しかった。
今まであんなに綺麗な光を見たことがない、と思った程で、時間を忘れて見入った。
そして、街に出て食べたきつねうどんセットが美味しくてまた涙が出そうだった。
もうここは山じゃないんだ……町なんだ。
町に守ってもらえる……
それから宿にもどった私は泥のように眠り、翌朝逃げるように家に帰った。
あれからも一人旅自体は大好きだけど、山だけは近づく事が出来なくなった。
熊野古道も行くけれど、人の多い所に限られる。
ましてや一人で山道は絶対無理。
そして今でもあの時の事を夢に見るけど、不思議と男性は思い出すことはなく、何故かいつも潰れたスズメバチの鮮やかな黄色と黒だった。
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