大好きな「ちょうちょ」
(注1:今回の話は私が尊敬している、今回の当事者である先輩とその奥様からご許可を頂いたので、書かせて頂きました。
闘病生活の中で、こんな私の書くエッセイや小説を楽しみにして下さっているとの事で、深い感謝を捧げます)
(注2:今回はかなり長文になっており、かつ非常に暗い内容のため、それらを好まない方は読まずに頂ければと……)
私には以前も今現在も心から尊敬している先輩がいる。
綺麗で気立ての良い奥様と、ご両親によく似た容姿端麗な7歳になる女の子。
先輩は私が大学卒業後、今の事務所に勤務した際、法令遵守の重要性や、他者の生活や財産を守ることの出来るこの仕事の価値や厳しさを叩き込んでくれた。
それだけでなく、頭の回転も速く人格者であったため人望も厚かった。
そんな先輩に恋愛感情を抱く女性も多かったが、幼稚園からの幼なじみ一筋で結婚した先輩を、素直に格好いいとも思った。
力強く自身と家族の人生を切り開く先輩の将来は輝かしい物だと、私は疑いもしなかった。
だが、そんな先輩は今アパートの一室のベッドに寝たきりとなっている。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)を5年前に発症したのだ。
進行に伴い全身の筋肉……足や口、咽頭、呼吸器等々が衰えていき、歩行や食事、呼吸、発語が困難になる。
しかし、症状が進行しても意識や五感が損なわれることはない。
指定難病のため、根治する治療法は存在しない。
リハビリによる対症療法のみ。
先輩に降りかかった試練はそのような物だった。
私は何故か先輩に大変可愛がって頂き、結婚前後に奥様も含めて良く3人で遊びに行ったり、食事を共にさせて頂いていた。
だが、5年前から先輩が仕事を休みがちになっていた。
病気らしい病気もせず、意欲に満ちあふれていた人が。
それと時を同じくして、先輩と奥様からの誘いも無くなった。
一体どうしたんだろう?
酷く気にはなったが、そもそも結婚当初の家庭に頻繁にお邪魔する方が違うだろう。
仕事も忙しかったし、疲れが出たのかも知れない。
1歳になる娘さんもいるし、大変なんだろうな。
そんな事を逐一知らせてくれるはず、とうぬぼれていたのかも知れない。私は。
そう思っていた私にある日、先輩から連絡があった。
今夜家に来て欲しい。話したいことがある、と。
その夜、先輩と奥様からALSの事を聞いた。長い時間をかけて。
1年前から徐々に歩きづらくなってきていたこと。
あまりに歩行困難が目立ったことと、発語に支障が生じたため病院に行き、診断が出たこと。
世界が暗転する。
小説で良く見た表現だが、自身の身に起こるとは思えなかった。
私は言葉が出なかった。
脳がショートしたのかと思うほど、脳内に火花が散っているのを感じた。
「薫さん、泣かないで。ゴメン、巻き込んじゃって」
奥様の言葉で自分が涙を流していることに気付いた。
自覚するともうダメだった。
良く覚えていないが、後に奥様や先輩からからかい混じりに言われた内容では、私は何度も「嘘ですよね! 絶対嘘です!」「そんなのヤダ! 絶対ヤダ!」と泣きながら何度も言っていたらしい。
そして、私はその場から逃げ出した。
体調が悪いと嘘をついて。
現実を見たくなかった。
私にとって先輩はヒーローだった。
誰に対しても公平で、自分より同僚や後輩の事を考える。
どんな難しい案件もついでのようにこなし、辛さを私たちには決して見せない。
そんなヒーローが……絶対嘘だ。
その後、家に帰りたくなくて自販機を好きでも無いビールを何本も買っては飲んだ。
こんなまずいと思う飲酒は初めてだった。
1週間後、ようやく現実を見ようと思えた。
電話でお詫びの電話を入れ、またお会いしたいと伝えた。
「有り難う。京野がそう言ってくれて助かる。俺はいいけど、嫁がキツいみたいで……お前が居てくれると助かる」
電話の向こうの先輩は少し泣いているように思えた。
いつでも冷静だった先輩が……
それから毎週お邪魔するようになった。
先輩はゆっくりではあったが、確実に変わっていった。
ドライブ趣味だったが車を売ったらしい。
歩くことももはやかなりの負担で車椅子の購入を検討しているらしい。
そして、先輩から言われた。
私と一緒に演奏したいと。
先輩は子供の頃から弾いているピアノが趣味で、プロ級の腕だったので週末には私と良く、様々な曲を合わせていた。
クラシックから奥様の好きなJポップまで。
奥様1人を観客に披露するそのプチ演奏会が、当時の私は心から幸せだった。
そのピアノも来月には手放そうと思っているらしい。
最後に私のヴァイオリンと合わせたいとのことだった。
私は拒否した。
「病気は絶対良くなります。いつでも一緒に弾けます。ピアノも売らないで下さい。そんな目的なら絶対弾くのは嫌です」
私は子供のように駄々をこねた。
この後に及んでもまだ、ただ1人現実を受け入れられなかったのだ。
だが、その夜電話で奥様から泣きながら頼まれた。
この人は薫さんと一緒に弾くのを楽しみにしてた。
お願いだから弾いてあげて欲しい。
私も、最後に2人の演奏を聴きたい。
私は渋々同意した。
奥様にはどうにも弱い。
翌週楽器を持ってきた私は、以前良く一緒に合わせていた「前奏曲とアレグロ」を、と考えていたが、先輩から提示されたのは「ちょうちょ」だった。
そう。童謡のあの「ちょうちょ」だった。
私は愕然とした。
そんなに……
「前奏曲とアレグロ……良く弾いたじゃないですか」
「ごめん。指、動かなくてさ」
悪さがバレた子供のような恥ずかしそうな笑顔で話す先輩に私は激しい怒りを感じた。
先輩にではない。
先輩から眩しいほどの輝きを一個一個もぎ取っていく「病気」に。
「……ちょうちょなんて……嫌です。前奏曲とアレグロ……弾きたいです」
「……ゴメン。ホント……ゴメン。俺は、お前ともう一回一緒に弾きたい。だから『ちょうちょ』で頼む」
「嫌です!」
自分の発した大声に酷い自己嫌悪を感じ、私は深呼吸した。
「……分かりました『ちょうちょ』弾きましょう」
「ありがとう。こいつもちょうちょ好きなんだよ」
ああ、娘さんか。
私は調弦を行うと、先輩と一緒にちょうちょを弾き始めた。
ああ……懐かしい。
だが、感慨よりも涙をこらえることで一杯一杯だった。
翌年、奥様と先輩から話を受けた。
今年のどこかで、先輩は施設入所をするつもりだと言う。
先輩は酷く途切れ途切れに話した。
「ラッキーだったよ。運良く施設が見つかって」
次に2人から聞いた言葉に私は耳を疑った。
「施設に入ったら、娘には『父親は死んだ』と伝える事に決めた。京野も話を合わせて欲しい」と。
先輩が言うには、今後遠からず気管切開も行わなければ行けない。
そうなると話も出来ない。
外見も大きく変わる。
この子も今はいいが、大きくなるときっと怖がるだろうと……
私はそれにキッパリと反対した。
「それでこの子がホントの事を知ったら傷つきますよ。それに、今の……これからの先輩はそんなに恥ずかしいんですか。病気になるのってそんなに恥ずかしいんですか!病気になるのって悪じゃないでしょ!ふざけんな!自分たちの勝手で子供の気持ちを決めつけるな!子供をなめるな!」
先輩に、奥様にあんな酷い口を聞いたのは、最初で最後だった。
でも……現実をどうにもできなくても、せめて……せめてそんな自分たちを、恥ずかしいと思って欲しくなかった。
私の考えが正しいのか間違ってるのかは分からない。
もしかしたら、安全圏に居る人間のきれい事かも知れない。
でも……恥ずかしいとだけは思って欲しくない。
だって、ずっと戦ってきた。
色んな輝きを無くしても、生きてきた。
生きていこうとしている。
それのどこが悪い?
なんでそれを隠さないといけない?
2人は泣いていた。
先輩の泣き顔は初めて見た。
「ゴメン。ホント……そうだな……ゴメン」
先輩は笑いながら言った。
「初めてお前に怒られたよ」
その帰り、私は神社に行った。
そして、千円札を入れてお参りした。
どうか、神様や仏様がいるなら出てきて下さい、と。
出来て来くれたら……あらん限りの罵詈雑言をぶつけてやれるのに。
そう思って願ったが、当然出てくるはずが無い。
ため息をついて神社を後にした。
その日の夜。
先輩からラインが届いた。
内容は、私への感謝とお詫び。
そして、娘さんには施設に入った後も定期的に面会に来てもらおうと思っている。
その時は、来れるときでいいから私も来て欲しい、との事だった。
そして現在。
先輩はベッドで寝たきりになっており、人工呼吸器も着けている。
そのため、今は機械を使用しての筆談のような形になっているが、先輩の知性溢れるユーモアや感性。理性的な人格は相変わらずだ。
奥様と娘さんは月に2~3回は面会に来ているらしく、先輩はそれが何よりの楽しみとのことだった。
そして面会したとき、話の流れでぽろっと小説やエッセイを書いていることをしゃべってしまい、先輩と奥様、娘さんから言われるまま已むなくカクヨム様での作品を見せたところ、驚いたことに「凄く面白い。続き見せて」と、好意的に受け入れて頂き、新しく書く都度見せるようになった。
ホントにいいのかな……
そして、自分達の事もエッセイにしてはどうか?とのお話もうけた。
当初、強く拒否したが「お前がこの事をどう書くのか見せて欲しい」と言われて、書くことにした。
書いた後、見て頂き「もっと自分たちとのやり取りやお前の心の動きをしっかり書け」等々、こっちが焦るような要望頂き、最終的に奥様や先輩からお褒めの言葉を頂いた。
そして「いつかお前の本が出て売れたら、何%かは還元しろよ」と、言われて苦笑いした。
相変わらずだな……
そして、3ヶ月前は施設の夏祭りで何と、先輩からの紹介で私にヴァイオリン演奏を、とのご依頼頂いた。
もちろんお受けさせて頂いた。
入所者の皆様や職員様、先輩や奥様、娘様の見ている前でJポップ、Kポップのヒット曲、懐メロ等々弾いたが、その中で私の我が儘でこの曲だけは弾きたかった。
それは最後に先輩と弾いた「ちょうちょ」だった。
こんなに気持ちの良い曲だったんだ……
私は深い満足感と共に弾き終えた。
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