定型文を言い換えて

紫鳥コウ

定型文を言い換えて

 学部生は卒論をメールで送ることが許されているのに、修士論文は大学院事務室にまで直接渡しにいかなければならない。開室時間も朝9時から昼3時まで。連日の「追い込み」で昼夜逆転になっている。寝坊したら卒業できない。


 コーヒーを何杯飲んだか分からない。一睡もせずに大学へと来たわけだが、すでに二野ふたのが事務室の前で開室を待っていた。

「すごく眠そうだね」

 二野だって疲労の色を隠しきれていない。それでも微笑んで見せている。ずるいと思う。


「この後ふたりで打ち上げしようって言ってたのにさ」

「だからって、明日ってわけにはいかないしな」

「そうだねえ……もう戻っちゃうんだよね、実家に」


 肩を落としてため息を吐く二野。


「修論審査のときに、もう一度帰ってくるけど……そのときにする?」

「うん、そうだね。ちょっと今日の六条ろくじょうは、ぶっ倒れそうな感じがするし」

「二野も、だいぶ疲れてそうだな」

「差し替えができないから、何度も読み返してたからねー」


 冬のひんやりとした壁にもたれかかる二野は、何度も、目をぎゅっとつむっては開いている。

「これで六条ともお別れかー」

 全身が疲れているのだろう。二野は紐綴ひもとじされた修士論文を抱えてしゃがみこんだ。


「またいつか、会えるだろう」

「またいつか……か。常套句というか定型文というか。なんの責任もない言葉だよね」


 いつになく辛辣しんらつな言葉を吐いてくる。

 ぼくは、呼吸を整えて、二つ折りにしたA4用紙をリュックから取りだし、二野の前に差しだした。


「なにこれ?」

「読んでくれないか?」

「音読するの?」

「黙読してくれ」


 目をこすり、二野は読みはじめた。

 そして、くすっと笑う。


「もし、これを提出していたとしたら、怒られるだろうね」


 二野は立ち上がり、「言葉にしてくれれば、オーケーしてあげても良かったんだけどなー」と、ぼくの顔をのぞきこむ。


「研究者だからこういうのがウケるとか思ってたなら、残念だなーって。どうなの? あの『謝辞』の部分に書いてあること、面と向かって言ってくれない?」


 逃すものかとじっとこっちを見つめてくる二野。

「あと少しで、開室になっちゃうけどなー」

 ぼくは覚悟を決める。


「二野、まずは修論をリュックにしまってくれるか? 落としたら大変だし」

「六条も、その修論をしまって」


 ぼくたちは、リュックにそっと修論をしまった。紐がほどけたり、紙が破けたりしたら取り返しがつかない。

 なにも持っていない両手。そこへつかみたいものがある。右手を彼女の前に差しだす。


「ぼくが、ここまで頑張れたのは、二野のおかげです」

「うん」

「何度もめてしまいたいと思ったけど、その度に、二野が励ましてくれて……そうするうちに、だんだんと好きになって、それで……」

「うん」

「もう、平然を装うことができないくらい好きになっていて……二野と、別れたくない」

「…………」

「だから……ぼくと付き合ってください!」


 そのとき、内側のカーテンがひらき、事務室の鍵がいた。

 掛時計かけどけいは「9時1分」を指し示していた。


     *     *     *


 学部生が長期休暇を謳歌おうかするなか、今日、がらんとした大学の一室で修論審査が行なわれる。


 提出した修士論文をもとに、複数の教員から口頭で質問を受け、それに答えるというものだ。修士論文の要約を十分間はなしたあと、二十五分間の質疑応答の時間が設けられる。これをパスしなければ、卒業はできない。


 1階の広い休憩スペースの丸テーブルの椅子に腰をかけて、修士論文を読み返していると、二野が――沙妃さきが姿を見せた。


 白のシャツの上に、膝まであるベージュのコートを羽織って、白色のズボンの裾をブーツのなかに軽く入れている。肩下あたりまで流れたブラウンの髪によく似合っているコーディネート。遠くからでも、沙妃だということが分かる。


「久しぶり。あれから元気にしてた?」

 ぼくは立ち上がり、どんどん沙妃に近づいていく。


「んっ……ふふ、そんなセリフを囁きながら抱きしめてくるの、なんかおもしろい」

「だって、会いたかったから」

「審査が終わったら、いくらでも甘えさせてあげるから……もう、離れなさい」


 ひとの姿は見えず、軽食を売っているお店は閉まり、コピー機の電源は三つとも落ちており、テレビ画面は消えていて、時計だけが動いている。


 ふたりきりの空間。まだまだ寒さの厳しい1月の下旬。

 ぼくたちは、雪解けの川のせせらぎのように静かに、唇を重ねた。

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