香文

 二〇〇三年の入谷いりや翔子しょうこはカフェでアルバイトをしていた。


 高校三年生の受験シーズン前なので、受験勉強のために辞めるか、あるいは、籍だけを残して一時休業状態とするかを考えながらもズルズルとシフトに入っている。


 特段、生活苦というわけではない。親元で暮らしている。毎月おこづかいをもらえている状態で、アルバイトを始めたきっかけといえばその両親の不仲が原因といえば原因の一つだ。


 家に居づらいなら家以外に居場所を作ればいいじゃないか。


 最初は部活動を考える。クラスメイトからも誘われたが、元来の飽き性が災いして思うようにいかず、一ヶ月程度で幽霊部員となってしまった。その点、バイトが高校三年生まで続いたのは、部活動と異なってからだ。その労働は、決して楽しいことばかりではなかったが――人当たりのいい客ばかりではない。こちらに落ち度はなくとも言いがかりをつけてくる迷惑な客もいた。レジ内の紙幣の枚数がズレていたり在庫の数が帳簿と合わなかったり――給料日になれば、報われる。


 出費は増えた。主な出資先は無口で無表情な従弟の溶石ようせきと、可愛くて可愛くて仕方ないのに直接手に触れて愛でることのできない従妹の氷雪ひょうせつだ。溶石は中学校(に通っていれば)二年生で、身長がぐんと伸びて大人びた。氷雪は正しく小学生であれば最高学年の六年生で、化粧品に興味を示している。


 弟や妹のいない翔子にとって、いとこたちが代わりとなっていた。二人とも能力者であり、やむを得ない事情でを送れていない。翔子はことあるごとに二人を外へ連れ出していた。そのためには、三人分の資金が必要だ。


 大学には行ったほうがいいだろう。父親も母親も、担任もそう言っている。勉強したい学問があるわけでもないが、将来を考えれば大学に行くのが無難な選択肢だと、翔子自身も理解しているつもりだ。


 ずっとアルバイトで暮らしていけるわけではない。そのうち、両親の元からも離れたい。大好きないとこたちのことも考えないといけない。今日のシフトはあと二時間。


「いらっしゃいま」


 目が合う。

 せ、まで言えなかった。


「翔子! 久しぶりッス」


 香春かわら隆文たかふみだ。屈託のない笑みを浮かべて、何の気なしに「久しぶり」と言った。身長は、あの時より伸びている。あの時は、目線をちょっと上に向けるだけだった。今は頭一つぶんぐらいの差がある。


「う、うん、久しぶり」


 チラチラと、隆文と手をつないでいる女性の顔を見てしまう。女性はこちらの名札を見て、それから翔子の顔を見た。凛とした佇まいの、キレイな顔立ちの人だ。素体がキレイなのに、丸メガネとおさげが可愛らしさを補っている。そのアンバランスさを白いフリルワンピースと黒いハート型のポシェットというアイテムで、見せていた。総じて、美人だ。


「ここでバイトしてるんッスね」


 翔子と隆文は、中学時代のある時期に付き合っていた。周囲も認める彼女と彼氏だった。ある時期だけは。


 例に漏れず、隆文の〝引っ越し〟によって、なし崩し的に別れた――ことになっている。隆文は別れを告げたのではなく、翔子が追いかけたわけでもない。月が夜ごとに姿を変えていくように、その想いも形が変わり、見えなくなる。


 それを『久しぶり』の一言で片付けられてしまった。


「もうじき辞めちゃうけどね」


 辞めるかどうかで揺れ動いていた心が、今、辞める方向に傾く。ここで働いていたら、また隆文が来てしまうかもしれない。いや、来るに違いない。翔子は、と思ってしまっている。


「へぇ?」


 そんな別れ方をして、奇跡的な確率で再会した。やり直したい。あの時の続きを、これから見に行きたい。


「だって、もう三年生だもの。受験、受験、大学受験」


 のだ。過去は過去で、現在とは地続きになっていない。今は、隣にいる女性が隆文の彼女で、翔子がそのポジションに収まるためには、この美人を追い出さなくてはならない。


 できてしまった接点は、消す。


「受験……? ああ、今年か。大学受験って今年ッスか。三年生になったと思ったらあっという間ッスね」


 いい機会だと思おう。

 背中を押してもらえたと考えればいい。


「隆文も彼女さんと遊んでないで、勉強しなくちゃ」


 小さな声で女性が「彼女」と繰り返した。どう見ても彼女でしょうが。それは勝利宣言のつもりか。それにしては戸惑いがあったようにも聞こえた。


「そうッスね。あとで教えてもらおうかな」


 彼女から教わるつもりらしい。そういえばコイツ、そういうところあったっけ、と思い出しながら、二人を「こちらの席へどうぞー」と案内した。

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