第4話 改稿版 傷跡

 そういうと、弥生はするすると服を脱ぎ始めた。僕はそれをすぐに止めるべきだったんだろうけれども、そこでは自分の男性的な本能ではなくて、理性でもそれを止めるべきじゃないと判断した。ただただ、弥生が生まれたままの姿になるのを見守っていた。だけれども、現実はそうはならなかった。


 白いライトに照らされ、まだ西日が差し込むには時間が早い。白を基調としたその部屋の内側ではっきりと色を持つランドセルや本棚の背表紙は目立っていた。しかし、そんなものの色がすべて消えてしまうくらい、その体は色づいていた。


「ひどい傷だ」


 本当なら、乳白色の綺麗な体。それこそ、先ほど見たような弥生のお姉さんみたいに珠のような肌が露になるはずだったのに、弥生の体はそうではなかった。


 ところどころ、ちょうど普段なら服に隠れて見えないところに青い無残な傷跡が残っている。僕の視線は、本当なら乳房や鼠径部など女性らしさを象徴する場所へと向かうはずなのに、どうしてもその紫や青色に染まった肌のほうへと視線を引き寄せられる。


 その傷は生々しくて、見ているだけで痛々しい。それを受けた時の痛みが自分にも感じられるようだった。本来なら小学生の少女の体にはとてもじゃないけれども、この世界に存在してはいけないような傷だった。暴力なんて駄目だと先生が言っているけど、その意味がはっきりとわかった。


「若山君なら、この傷のことを聞いても気持ち悪がらないと思って」


 弥生は、今にも消えてしまいそうな声で確かにそういった。その声があまりにも寂しそうで、切なそうなものだったから僕は思わず弥生の体を抱きしめてしまった。僕が着ている薄いシャツ、一枚の布越しに弥生の熱が伝わってくる。


「ねえ、嫌じゃない? こんな体」


「そんなこと、思わないよ」


 僕は、弥生の傷を本当に気持ち悪いとは思わなかった。ただただ、痛々しかった。


「若山君なら、私のこと嫌いにならないって信じてる」


「当たり前だよ。そんなことで嫌いにならない」


 泣き出しそうな弥生の体を、きつくきつく抱きしめた。なんだか、折れてしまいそうなくらいに小さく、細く、儚げだった。この体の内側から、こんなにも温かい涙が流れてくるのが不思議だと思えるほどに、体は冷たかった。だけど、これで先ほどの謎めいた質問の意味もよくわかった。


「その傷は、お姉さんが?」


「……うん」


「それはお母さんたちに相談したの?」


「ううん」


「どうして、今からでも相談しよう」


「パパもママも、このことは知ってるの。だけど、パパもママも私よりお姉ちゃんのほうが好きだから。お姉ちゃんが私に暴力をふるって気が晴れるならって」


 好き? そんな言葉でこれを見過ごしていいわけがない。


 弥生の体に刻まれた傷は、表面的に見ても無残だが、それ以上に心に消えない傷をつけていく。僕のこれは同情という感情だけれども、それは別にかまわないと思う。僕だって、同じ状況だったら誰かにその傷を理解されたかったに違いないから。同情でもいいから、救ってほしいと思うはずだから。


「どうして? やっぱりおかしいよ。こんなのは」


「でも、仕方がないの」

 

 弥生はそう答えたきり、喋ろうとはしなかった。ただ黙って自分の腕を抱いてみているだけだ。僕は、もうその目を見ると何も聞けなかった。ただ、小さく震えるその体を、シーツごしに抱いてゆっくりと傷があったところを擦ることしかできない。まだ残暑のきつい九月の末。その薄いシーツでは青くなったその肌は透けて見えた。まるで、僕の体温が弥生の心を癒してくれることを願っているようにも感じた。


「すごく、あったかくて、きもちいい」


 僕がその傷に触れるたびに、弥生は体をよじって気持ちよさそうにしている。そのまま眠ってしまいそうなほどに、恍惚の表情を浮かべていた。


「若山君は、おかしいと思う?」


 その小さな声は、今にも消えてしまいそうだった。


 だけど、それでもその言葉は僕にとって聞き逃せない言葉だった。


「思うよ。こんなの普通じゃない」


 絶対にこんなこと、あっちゃいけない。自分でどうにかすることはできないけれども、誰かがなんとかしなくちゃいけない。誰かが弥生を救わないといけない。


「じゃあ、お願いがあるの」


「なに?」


 その時の僕は、弥生の言うことはできるかぎりで何でも聞くつもりでいた。こんな姿を見せられて、涙まで見せられたら男は弱い。このままここで守ってもいい。


「若山君が、私を攫って。ここから、連れ出して」


 そんな思いもよらない言葉を、弥生は吐き出した。僕はその時、無力でそれはできないからとその小さく細い体を抱きしめることしかできなかった。


「今はできないけれど、いつか僕がこの家から出してあげる。攫うって約束する」


 その言葉に、弥生が頷いたことが肩口にぶつかった衝撃で分かった。そして、その言葉が僕から弥生への告白になるなんて僕は思いもしなかった。


 ただ、この時から僕は確かに藤原弥生という少女に惹かれていたんだと思う。それが、恋と呼ぶべきなのかはわからないけれども、あの瞬間に僕の心は弥生に鷲掴みにされたのだ。それは、今でも変わらない気持ちだ。


「どうした、なんだか今日は箸の進みが悪いな」


 その日は僕の好きなニンジンの入ったハンバーグが夕食に並んだけれども、とてもじゃないけど食べる気にはならなかった。その色が、殴られてついた傷の跡、その端と同じ色に見えてしまったからとてもじゃないけど食べる気はしなかった。


「食欲ない。今日はもう寝る」


 僕は、早々に夕食の席から立ち上がる。何か、父が話しかけてきたけれども僕はそれを無視して二階の自分の部屋へと上がった。階段を上りながら、一度だけ階段途中の窓から弥生の家があるほうを見たけれども、さすがに遠くて見えなかった。


 今日は、殴られていないだろうか。それとも、もう寝てしまったのかもしれない。 


 電話でも持たせてもらえれば確認ができるし、電話中は暴力を受けないだろうけど。家の決まりで携帯をもらえるのは中学生からだった。中学生になれば携帯を持てる。それまでに、僕は弥生をなんとかして守ってあげたいと思うけれども、今の僕にはどうしようもない。なんとかしないといけないのに、無力なのが苦しかった。


 窓の外には、弥生の消えない傷を隠すようにしとしとと雨が降り始めた。

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