第2話 改稿変 転入

 弥生と初めて会ったのは、小学二年生の時。その時も、弥生は突然に転入してきた。その転入初日に、物語ならばここで普段と違う雰囲気でも感じるのだろうけれども僕はそれを感じはしなかった。そもそも、彼女は親の仕事の都合で二学期からつまりは九月から新しくクラスメイトに加わったのだ。特に栄えているわけでもない地元では転入生はそこそこめずらしく、少なくとも九月にクラスメイトが増えることを予想できはしなかった。まだあの頃は素直に秋の風が吹いていた、九月のことだった。


「仙台から来ました藤原弥生です。よろしくおねがいします。お父さんの仕事の都合で転校してきました、みんなと仲良くなりたいので、みんなも仲良くしてくれると嬉しいです」


 まるで、優れた伴奏者が音符を忠実になぞるように決められた心地よい音で弥生は挨拶をした。黒板に先生が書いた文字、それがなんだか特別なもののように思えてしまって、その日に日直だった僕は、休み時間が終わるギリギリまで消すのをためらっていた。普段は退屈な日常を映すだけの深緑色のボードの上に、それだけがただの文字の集合体ではなくて僕の中に意味を持った言葉として深く残った。


 それを無邪気に、日直である僕の仕事を手伝ってあげようと消していったのは、やはり黒木結衣だった。彼女は黒板の方を向きながら何かを言っているようだ。


「なんて?」


 結衣の声が、黒板消しクリーナーのがなり立てる音でかき消されていく。無機質な金属音が、結衣の声をかき消して、スイッチを切るとどこか遠くへと急速に去っていった。教室内の喧騒が、再び僕らの間を支配する。


「転入生の子、可愛かったね」


「ああ、なんだそんなことか。確かにそうだね」


 別に、可愛いという言葉に大した意味は持っていない。もう少し成長すれば素直に褒めることはできないんだろうけど、その時の僕は素直に弥生のことを可愛いとは思っていたし、それを肯定できた。


 なにより、弥生に対してどこか自分と近いような感覚を覚えた。それに可愛さを覚えたかと言われるとそうではないけれども、彼女の存在は小学生の頃、自分の心の内側にあるキャパシティがそこまで大きくない中でも、まるで油絵のようにじんわりと滲んで、素直に受け入れることができた。


 しかし、そんな言葉の裏にある感情を読めるわけもなく結衣は不機嫌になる。ここでどうして結衣が不機嫌になったのかを、僕がわからないように人の考えてることの半分もわかりはしない。


「冬也は、ああいう感じの子が好きなの?」


「好き?」


「だって、可愛いって言ってた」


 その声が、少しだけ悲しそうに聞こえたのはたぶん僕の勝手な勘違いなんかではなかったのだろう。僕が可愛いと言ったからと怒る結衣の気持ちが、その時の僕にはわからなかった。そもそも、異性としての好きという感情が、心の中でも頭の中でもう上手く理解できていないのだから仕方がない。

 

 結衣はその性格にも合うように全体的に明るくて、肌も健康的な小麦色をしている。弥生はそれと違って、全体的に白くてお嬢様みたいだった。特に男性受けのしそうな見た目をしていた。外面だけを見るなら確かに違うし、弥生をタイプだという人は結衣を好まないだろうし逆もまた然りだ。


「結衣のほうが、可愛いよ」


 そんな言葉で、僕はお茶を濁した。


 結衣はまだ不機嫌なふりをしていたけど、少し頬が緩んでいた。


 九月に転校してきた弥生は、既に席替えも何度か行われて名前の順番からはぐちゃぐちゃに入れ替わった席で窓側の一番後ろをあてがわれた。今になって思えば、幸か不幸かその席は前に結衣を、隣に僕が座るというまるで結末を知っている今の僕からすればくだらないご都合主義のドラマみたいな展開ではあった。すべての配役を、神様でもない誰かがただの暇つぶしのために配置したようだ。


「じゃあ、さっそくだが授業を始めるぞ。まだ教科書が届いていないから藤原さんは隣の若山に見せてもらってな。じゃあ、教科書の四十三ページ」


 元気な声で担任が、授業の開始を告げる。僕は何も言わずに、教科書の背表紙がくっついた席の間に挟まるような位置へと置いた。それだけで、後はなにも起こらないはずだった。別に授業自体が面白かったわけでは無いけれども集中して聞かない理由もない。ぼんやりとただ黒板に書かれている文字をノートに書き起こしていく。とにかく板書をするタイプの先生だったから、静かに時間が流れる。


 ただ、あまりに集中しているとさすがに四十五分もの長い時間を黒板を眺めているわけでもなくふと隣に座る弥生が気になった。それは、可愛いからという理由ではなくて新しいクラスメイトに対する好奇心だったし、勉強についていけているかという気遣いのつもりだった。


 そんななかで、わざわざ授業には別に使わない緑色のペンで、弥生がノートの端に何かが書いてあるのがわかった。あまりじろじろと、視線を向けるのもいやらしいから覗き見るようにそのメッセージを目で追うと、そこには女の子らしい丸くて可愛らしい文字で短いメッセージが書かれていた。


『教科書を見せてくれてありがとう。これからよろしくね。弥生』


 その、届くかもわからない手紙に対して僕は返信を書くことをしようとは思わなかった。なんだかその行為が女の子らしくて背中がむず痒かったからだ。しかし、無視をするのも気持ち悪い。どうせ、今日の授業はほとんど理解できているからその返答を考えていた。けれども、それに対する返事はこれまでの人生で解いてきた問題の中でどれよりも難しく、ちょうどいいものが見当たらない。


「じゃあ、今日の宿題はドリルの三十七ページ。気を付け、礼」


 担任が授業に幕を下ろすと、僕はその瞬間にトイレへと向かう。なんだか、恥ずかしさと居辛さを覚えていたからだった。そして、背後に向かって言葉を発した。結局、こんなものしか思いつかない。


「どういたしまして」


 なんだか痛いやつに見えるけれども、よくよく考えれば小学校の頃なんて思い出せば恥ずかしいことばかりだ。人生の途中にある幼いあの頃を思いだす時間。くすぐったくなるけれども、それが決して不快ではなくて、懐かしい日々への郷愁を覚える。


「ふふっ」


 後ろから、弥生の小さな品の良い笑い声が聞こえた。



 それから、僕と弥生は少しだけ話すようになった。


 弥生からこちらへと結衣のようなわかりやすい好意があったわけではないし、普通に授業の連絡や英会話や音読の練習で話すだけだ。どちらからともなく、話すことがあるから話すだけだった。


 基本的に弥生よりも僕は男子同士や幼馴染で気兼ねなく何でも話せる結衣といるほうが落ち着けた。しかし、結衣に抱いていたことが恋という気持ちではないことはその時の僕でもわかっていたけれども、弥生への気持ちが恋ではないとは言い切れなかった。彼女への感情に明確に名前を付けることはできなかったからだった。


 話していることに共感も少ないし、わかりやすい面白さもない。その点で言えばやっぱり男子同士で話している方が楽しいのに、どうしてか弥生との会話には惹かれるものがあった。特に、教師の目を盗んで会話をするときに、他の人とは違う罪悪感とは別の、それでもそれとよく似た感情が刺激となって僕の心を高ぶらせて、その抗いがたい魅力にだんだん飲まれていった。


 そんな状態でいつも五時間から六時間ほど隣に座って授業を受け、昼食の時間などを過ごして入れば自然と仲良くなる。弥生はいわゆる女子同士で固まるというタイプではなくて、男子とも分け隔てなく話していた。早熟な男子は、その見た目に惹かれてよく僕に話しかけてくるついでに、いや弥生に話しかける口実として僕の席へとよくやってきた。だけど、僕が見る限り、弥生は誰とでも仲良くなれる代わりに誰とも深くかかわろうとはしなかった。明確に線を引いて、それ以上は強制もしていないのに達は入れないような、踏み込むことは許さないようなオーラがあった。


 かなりコミュニケーションをとるのが上手で、友達や親友が多い結衣でも、弥生には顔の表面で会話しているようには感じていた。言葉を取り繕って、僕と話しているときよりワンテンポだけ遅い気がする。まだ自分を上手く隠しているようには見えた。そんなことを考えてぼんやりとしていた時だった。


「ねえ、若山君。さっきの授業のプリント見せてくれる?」


 昼休みに、僕にそんな風に話しかけてきた弥生に僕はプリントを渡した。その時に、ふと気になったことを聞いてみた。今になって思えば、それは不注意だったというのがよくわかる。


「弥生は誰か友達を作らないの?」


 昼休み、ちょうど昼食を終えてなんだかぼんやりと眠かったせいで考えていることがこぼれるようにそのまま口から出てしまった。その時、弥生はちょっとだけ驚いたような顔をすると、すぐに口角をあげて笑った。その笑顔も、上手く笑えていないような気がした。無理やり顔に張り付けた笑顔の紙が、糊が乾いて浮いてきたように、他のクラスメイト達が談笑している中でその笑顔だけが浮いていた。


「友達? 私はみんなのことを友達だと思ってるよ? 若山君は違うの?」


 当の本人は何を言っているのかわからないというような表情で聞いてくる。


「いや、ごめん。でも、なんか弥生っていつもなんとなく距離を置いているような感じがするから。いや、そういう非難するつもりじゃなくて、どうしてなのかなって」


 その言葉は、半分が本当で半分嘘だった。友達の定義なんて様々だけれども、僕の中では休みの日に遊びにいくのが友達だと思っていた。しかし、弥生が月曜日に登校してきても、誰も週末に遊びに行った感想を、弥生の席まで言いに来る人はいなかった。その決めつけはひどいけれども、世間一般的にもその距離感を友達ということは何となく知っていたから、自分が正しいと思っていた。


「距離なんて置いてないよ。でも、そう見えるかな?」


 純粋無垢な瞳が、困惑の色を帯びてより魅力的にすら見える。


「うん。なんとなくだけど」


 その目がどこか僕を糾弾するようで、申し訳なくなりながら必死に言い訳を探す。


「そっか、ごめんね。でも、私はみんなのこと友達だと思ってるから。若山君とも友達だと思っているしね。それとも、若山君は違う?」


「僕はなんとなく、友達って言うのは家へ遊びに行ったり、いつも何も言わないのに特定の場所に集合するのが決まりごとになっているみたいなものだと思ってた」


 それはひどく暴力的な定義だったけれども、そのころの僕は幼かったという言い訳しかできない。人のものさしなんて、それぞれの尺度があるはずなのに。


「そっか」


 なんだか、弥生はひどく落ち込んでいるように見えた。それは初めて見る感情の顔で、そのどれよりも弥生が人間らしく見えた。


 そのころの僕は、女の子の気持ちを何もまったく理解できていなかった。ただ、その顔をさせたくない一心だった。だけど、謝罪以外の方法は知らない。


「別に、責めるつもりはなかったんだ。ごめん、適当なことを言った」


「ううん、別に若山君は悪くないよ」


 そういったあと、弥生は少しだけ考えてからこういった。


「じゃあ、放課後に私の家まで遊びに来ない?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る