愛の帰り

渡橋銀杏

第1話 改稿版 再会

 前日に雨の降った坂道、ひび割れた黒いアスファルトの合間に水が溜まっているのが視界に入った。どうしても透明な水も、黒く染まれば汚く見える。汚れた鏡のようなそれに自分の顔がうつっているのを見ると、ただでさえ優れたわけではない自分の容姿がより醜いものに見えた。いや、鏡というのは自分の外見ではなく、内面を映すなんて言葉があるんだから自分の中身が悪いのだろう。


 どうしようもなく、人には抗えないものがこの世界には存在することは確かだ。わずか十六年の人生で何を語ることができるのかと思うけれども、それくらいのことはわかる。容姿に優れること、身長や体型などの動物的なハンディキャップ、両親の資産額など人を差別する要素は多数あり、それらで優劣を決めることはこれまで嫌になるほどしてきたはずなのにである。


 あの子は可愛いから好き。


 あの子は足が速いから好き。


 あの子は優しいから好き。なんて風に。


 一歩を踏み出すたびに、学校指定の運動靴、その靴底が鳴る。物を踏み潰す音と、実体のないものを踏み潰す音の中間みたいな、嫌な音がした。自分が歩いた後には、泡がぶくぶくと残っている。なんだかそれがすごく汚らしいものにしか見えないのは僕だけだろうか。他にも歩いている同級生たちはそんなことを気にせずにずんずんと進んでゆく。きっと、そんなにどうでもいいことよりも今は新しいクラスで始まる新しい学校生活が楽しみだろう。


 普段はあまり笑顔を見せない彼も、いつもにこにこしている彼女も普段より歩くスピードは速い気がする。雨によって叩き落されたわずかに残っていた桜の葉も、こうして水たまりに泥と一緒に沈んでしまえば突然に綺麗ではなくなってしまう。


 汚いものは綺麗なものを飲み込む力がある。美しい桜の木の下に埋まる美女は、もう既に綺麗と言えるようなものではない。


「おはよ!」


 そんなことを考えながら歩いていると後ろから背中をバシンと叩かれた。なぜかわからないが彼女が僕の背中を叩くと、痛みは少ないのにいい音がする。厚い冬服に吸い込まれるはずの音が、僕の背中周りから空気をはじいて、半径五メートルの内側にいる人ならこちらに視線を向けるほど大きいものだった。


 しかし、そんな人たちもいつものことかと興味を失い、僕と彼女を見てから良い意味で呆れたように視線をそらした。これに僕自身も慣れているから、その視線に対して特に何かを感じることは無い。


「はぁ、朝から元気だな。結衣」


 俺の背中を叩いたまごうことなき美少女は、そのまま隣に並んで歩き出す。だが、寝起きの俺にはそのテンションについていけない。薄い茶色に染めた髪を、通り抜けていった自転車の残した小さな風がさらい、ふわりとはためく。その光景すらも、僕にとっては結衣が隣にいることはもはや景色の一部と認識してしまえるほどに普通のことだった。誰もありふれた日常に感動することなんてない。


 小学生のころから一緒にいて、ずっと夫婦だとか茶化されるような位置にいた相手。高校に入って髪の毛の色を変えた時には驚いたけれども、今日はと言えばつい先日の誕生日に僕から送った春色のブレスレットくらいの違いしか前に会ったときとの違いがなく、既に一年もの間にすっかり覚えてしまった通学路の景色に、その形だけ空いた結衣の分のパズルピースがすっぽりとはまっただけ。


 その中で、新しい出会いなどの変化を求めているのだ。絵柄を変えるんじゃなくて、フレームごと壊して、それを広げてくれるような刺激的な出会い。そんなもの滅多にありはしないと知っているのに。


「ほらほら、もっと元気にいこうよ」


 そういいながら、結衣は僕の隣に自然とつけてくる。最初こそ、少しうるさいと感じるけれども、すぐに黙って隣を歩いてくれるのはきっと長い年数を共に過ごしているおかげだ。本当の彼女はもっと明るい性格なのだが、それでも僕と一緒にいるときは一方的に合わせてくれる。


 別に空気が読めない奴というわけではなくて、彼女にとってのコミュニケーションにおけるジャブがハイテンションだということだ。事実、合理的ではある。うまく仲良くなれる相手がいれば、そのまますぐに盛り上がることができるし、相手と合わなくてもすぐに次へといける。それを誰もができないからこそ、人間関係におけるパワーバランスにおいて高確率で優位に立つことができる。


 もちろん、彼女はそんなくだらないこと、打算的なことは考えていない。


 人間に必要なすべてを兼ね備えた結衣にとって、周りから優しくされて持ち上げられることなんて小さいころから当たり前であり、彼女のなかにある他人から受けた行為には大小の様々な感情が含まれていようと、外側だけ見ればやさしさのそれであり、当然ながら彼女も優しくすることしか知らない。


 アレルギー患者がその食べ物の味を知らないように、悪意を味わったことのない結衣はそれを知らない。真なる善人であるけれども、悪を知らない善でもある。そんなものは、歪だ。だからこそ彼女にされる優しさは、酷く暴力的である。結衣が自分に良くしてくれるのだから、外面も内面もほとんどすべての人間に勝っている結衣が良くしてくれるのだからと、無意識の内にこちらも同じ態度を強制させるほどの暴力性が。だから僕は、どうしても彼女が悪くないと知りながらも罪悪感が募るばかりだ。


 そんな結衣の優しさに甘えきれない自分の中に一本の楔が打ち込まれている。


 まるで薔薇の棘のように、変な方向へと刺さってしまった釘のように心から離れない、離れてくれない一人の女性が、ときおり夜中に顔をのぞかせて僕を苦しめる。ある意味で呪いの類と思えるほどにそれは辛い話であり、自分の心が眠っている僕の上にまたがって首を絞めてくるような感覚だった。それに驚いて目を覚ますと、バクンバクンと鳴る心臓はその子に会えた情動なのか、その子に対する申し訳なさからくる拍動なのか、それすらも理解することは叶わずに、それでも乾いた心に水を求めるがごとく彼女によって自分を傷つけて血を溢れさせ、その血で心を潤している。


 そして、意識がはっきりとしている間は、叶わない恋などは存在しないのと同じだ。そう思うことで、なんとか自分の心を説得して理解してきた。確率の世界において存在しえない事象はゼロとしてカウントされる。パラレルワールドとか世界線がどうとかそういった話は嫌いだが、もしもそれに当てはめるのならば僕と彼女が結ばれる世界など無い。そう断言できるほどに、僕はその恋に対して一種の諦めがあった。それはもうどうしようもなく覆せない。


 僕がそんなことを考えている間も結衣は静かに足元の泡を潰しながら歩いていた。


「おっす。今日も重役出勤か?」


「別にチャイムは鳴っていないから大丈夫だろ」


 校庭にある錆びた柱に支えられた掲示板で確認した教室へとつくと、そこには何人かの友人が既に揃っていた。まあ、クラス替えと言っても三分の一が同じメンバーなので友達作りなどに意識を張る必要はない。僕はいつも通りに静かなまま教室を横断し、黒板に示された指定の位置につく。苗字がわから始まるので、だいたいが教室の端だ。ぼんやりと外を見ながらすることもなく時間を殺す。


「は~い、席付け」


 先生も見慣れたまま。そのままだった。クラスのメンバーが少し変わっただけで、僕の生活は大きく変化しない。きっと、二週間もすれば落ち着いて変わらない日常が待っているだろう。平穏な毎日を、ぼんやりと過ごす。そのことにどこか安堵しながら、ぼんやりと外の景色を眺めていた。


 しかし、それは一瞬で崩れ去ることになる。彼女を定義づけるならマクガフィン。


「転校生を紹介するぞ」


 先生がそう言いながら、片手で乱暴に教室前方のドアをガラガラと開く。そのドアはすでに年季も入っていて、スムーズには開かない。なんどかドアの枠にぶつかって傷つきながらも、ようやく開いた。そして、一人の少女が教室へと入ってくる。


 彼女こそが僕の人生に意味を与え、そして狂わせた。


 その彼女の息遣いが、なぜか聞こえた。ぼんやりとしていた視界がパッと晴れて、窓の外から見える遠くにある山、それの輪郭すらもはっきりと映った。しかし、それを自覚したときには、僕はどうしようもなくその息遣いを求めて視線を移していた。


 そして、その姿がはっきりと心に写し出される。変わらない。


 彼女は礼儀正しく教壇の隣に立ち、お手本のようなお辞儀をした。


「初めまして、藤原弥生です。よろしくお願いします」


 彼女が頭を下げると、ふんわりと空中にその黒髪が舞った。まるでオーラを放つように、彼女の周りから陽気が広がる。クラスメイトが立てる教室の喧騒すらも飲み込んで、それらは教室に充満した。その空気が懐かしく、苦しかった。その声が、顔が、全てが僕を捕らえて離さない。


「あの子、可愛くね」


「すっごく上品」


 教室中に沸いた拍手、その隙間から聞こえてくる小さな声。そんなことよりも激しく、僕の心臓は動き出した。腕は否応なしに震えてしまって制御が効かない。こつんと爪が机にぶつかって音を立てるのがわかった。きっと、隣にいるクラスメイトがもう少しだけこちらに気を配っていれば、間違いなく心配してくれただろう。顔は青く、そして体の表面は赤く染まっていく。


「藤原さんだ。みんな、仲良くしてやってくれ」


 担任が改めて名前を紹介して、席を指定する。どんどんと彼女との距離が開いていく。こちらに気が付く様子もなく、教室に並べられた机、そのわきにかけられた学校指定のカバンの群れをするすると抜けて背中が小さくなる。


 その光景は、昔に見たその景色と全く一緒だった。彼女の背と髪が伸びたことなんて僕にとっては些細なことでしかなく、どうしようもなく理性と本能が反立して体の中で爆発しそうになる。なんとか、胸を思いきり右手で抑えてそれを鎮める。本能が、この数年で凝り固まった理性をただただ蹂躙して、彼女の名前を呼びたいという積み重ねられた願望を打ち崩そうとガンガンと心を叩く。


 藤原弥生。


 彼女は、僕の初恋の人で。


 僕の兄が過去に誘拐した相手だった。

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