八
開け放たれた玄関から湿り気を帯びた風が入ってくる。
時期は梅雨に入るだろう。
換気の為と思って部屋の窓を全開にしていたが湿度が煩わしかった。
「ふぅー……」
蝶が飛び立ってから一年だか二年だかの月日が流れていたと思う。
思う、というくらいに私にとってその期間というのは空白のような虚無で、ただ大学に通って家に帰るだけの日々を過ごしていた。
彼女を見かけたりすることはあった。目が合ったこともあった。
だが互いが歩み寄ることはないし、そうなれば会話も必然として生まれない。
「さて、ご飯でも買いにいこうかしらね」
結局、彼女のその後を私は知らない。
例の男を選んだのか、或いは他の恋人達とも関係を続けているのかも分からない。
ただ、彼女は蝶になった。その事実だけが私の知るところであり、その事実だけ分かっているなら他のことはどうでもいいと完結した。
彼女の求める哲学や理想をあの男や、或いは他の恋人共に与えることが出来るかどうかも分からない。そもそも彼女の心の裡だって誰にも分かることではない。
私は咥えていた煙草をもみ消すと立ち上がり、適当なパーカーを着込んで扉へと手をかける。
過去の整理と同時に失せていた空腹感が飯を寄越せと訴えかけてくる。
その本能に従い、私は外の世界へと踏み出す。
扉に手をかけ、鍵を開ける動作をして気が付く。
「……ああ、そうか、換気してたから」
鍵は掛かっていなかった。
先まで換気の為にと扉を開いていたから、うっかりと施錠を忘れていたようだ。
では最後に鍵をかけたのはいつだったのか、と記憶を漁る。
漁る最中に私はかぶりを振り、そんな記憶はこの虚無の期間に一度もなかっただろうと自嘲気味に笑った。
「雨、うざいなぁ……」
つまり、そんなものだった。
私はずっと、あの日から今に至るまで、鍵なんてかけていなかった。
手前から別れを切り出し、胸中では世界との繋がりを拒絶していた癖に、そこには微かな期待があった。
無様だと思う。間抜けの道化にも思う。
だがその事実に向き合うだけの勇気はなかったし、一つの決断として互いは道を別った。それが結末だった。
別に言い訳を重ねてもいい。
一々鍵をかけたりチェーンをするのが面倒だった、どうせ私を訪ねる誰彼は存在しない、そもそもとして関わりのある人物はいない、等々。
それらを並べて、では一体誰を納得させる為の言い訳作りなんだと思うと尚更に滑稽で、私は傘を忘れたままに雨垂れの景色を歩き、やっぱり笑いが零れた。
「はぁー……」
煙草を咥え火を灯す。
紫煙が天へと向かい、落ちてくる雨粒のそれらを包み、或いは穿たれたりしても、香りと共に昇っていく。
時刻は不明だった。
時計もなく携帯端末もない。適当に財布をポケットに突っ込んできた。
目深にフードを被っていて、狭まった視界から見える景色は薄暗いような、仄暗いような、何だかブルースな印象を受けた。
では心境を映す世界は正しくブルースのままで、私は青ぐらい景色の中、雨に打たれてヒロインの如くに道を歩いている。
「……こんなもんなのよね、どうせ」
呟きは雨に紛れる。その言葉の意味を深く掘り下げたりするつもりはない。
ただ、これが真なる諦観だろうということだ。
今更だと呆れる。
本心を口にすることもせず、曖昧なままにしてきて、自分自身が面倒を嫌ったり煩わしい思いをしたくないからと拒絶を選んだ。
その先にあったのは何だ。
虚無だ。
空白で、日々は紫煙に蒸れる部屋で食って寝てを繰り返すだけの無駄そのものだ。
別に生産性のあるようなことは子供の時分からした覚えはない。
だが彼女と過ごした日々というのはきっと、生産性はなくても温もりと呼べるものがあった。
「……あとはこのまま、流れのまま。適当に生きて死ぬ、かぁ……」
幼い頃からぼんやりとそんなことを考えていた。
所詮社会不適合者の私に選ぶ道なんぞはないだろうし、前提として望んだ道なんかもない。
適当な会社にでも入って適当に生きて年老いて死ぬ。
それが漠然としつつも抗えぬ運命なんだろうと結論していた。
(運命ね、阿呆らしい……)
なんともまた幼稚というか可愛らしい単語だと思った。
夢見がちな思春期の子供が口にするようなものだ。
そんな風に思うと、自分の中身というのはその頃から何一つ成長していないのだと悟る。
愚かしく、やはり無様だと自身を卑下しつつ、次第にフードで狭まった視界に明るみがさしてきた。
近場のコンビニだった。目的の場所についた私は煙草を吐き捨て、濡れネズミのままに店内へと入ろうとする。
(ん……?)
そんな時、入り口から踏み入ろうとすると傍にあった傘立てに傘が突っ込まれた。
同じタイミングで到着した他人だろう。こうなると先を譲るかどうかの葛藤が生まれるが、競争心の欠けた現代人らしく、私はその場に留まり、促すようにその人物へと視線を送った。
「……なんでそんなずぶ濡れなの?」
「――……」
その聞きなれた声と視線が交差した瞬間、私の胸は高鳴った。
同時に締め付けられるくらいの苦しさが生まれ、目を見開いて彼女を見つめる。
彼女がそこにはいた。
何故か自然なことのように、彼女は私と見つめあっていた。
一年か二年ぶりに聞く彼女の言葉に私は返事もせず、ただ阿呆のように口を開いて、その程度のアクションしか出来なかった。
「……入んないの?」
「……入るわよ」
入店の音と同時に私たちは同じ歩幅で、同じタイミングで足を踏み出した。
片やずぶ濡れの私と、煌めく程の鮮やかさを醸す美女が隣り合う姿というのは歪かもしれないが、それでも私と彼女が隣り合う景色は過去に確かに存在していた。
まるで去来する思い出が形でももって現れたかのような、そんな心地だった。
胸の中では心臓が不規則に脈を打ち、それは緊張から生まれるものだと理解した。
「どうせご飯でも買いにきたんでしょ?」
「……まあね」
「やっぱりね。未だに料理出来ないんだ?」
「別に困ったりしないから覚える必要もないでしょ。お金で解決出来る問題だもの」
「ふふっ、バイトもしてないくせに」
「両親が勝手に寄越すお金だもの。使わなきゃ持ち腐れだわよ、在り難く浪費させて頂くわ」
年単位越しの会話はあまりにも自然で、まるで常日頃言葉を重ねている同士のような錯覚すら感じる。
彼女は私の後をついてくる。いつものままの抑揚で語りかけてきて、私の言葉にいつものように笑って、それでも呆れもせずついてくる。
私はそれを面倒臭がるように相手取る。いつものように厭味を通り越した心底からの本音を吐露しつつ、私の好きな弁当を手に取る。
複数の“いつものように”が行き交う。
この場の時空は入り乱れている。
彼女との“いつも通り”は既に過去のことなのに、だのに、私の中の“いつも通り”に自然とおさまるくらいに、それは当たり前のようだった。
彼女から心配を寄せる言葉を受けても煩わしさはない。
それをも掻き消すくらいの多幸感があった。
「あ、待って。ついでにこれも買ってよ」
「飲み物くらい自分で買いなさいよ」
「ケチ臭いこといわないでよ、お金はあるんでしょ?」
「親の、ね」
会計の折、彼女が弁当の隣に飲み物を置く。
文句をいいつつもそれを買ってやり、会計が済むとそれを彼女に手渡した。
これもまた“いつものように”だった。
彼女はなんだかんだで甘え上手なのは確かで、私はそれを許していた気もする。
そうして互いに目的の買い物を果たすと、私たちは外へと出る。
雨の降る景色は薄暗く、私たちはコンビニの光に照らされてそのままに立ち竦んでいた。
その時間は秒単位だったかもしれないし、もしかしたら時間の単位だったかもしれない。互いは何もいわず、雨の景色を眺めて、客足の少ない店先に無言で突っ立っている。
懐かしい香りがしてくる。彼女のものだった。
嘗ての香水を今も好んで使っている様子で、その香りの中に不純物はない。
純粋なままの姿に安堵を覚えた。だのに私は雨の景色に踏み出せないでいた。
ここから先にはもう“いつものように”はない。
私は自分の家に向かう。
だが彼女はもう、そうじゃない。
嘗てのように同じタイミングで踏み出して、雨の中、適当な話しでもしながら彼女と我が家に帰宅することはない。
何故ならば私たちは関係を別った。
全ては私から終わらせたことであって、どれだけ己の愚行を嘆こうが呆れようが済ませた事実を変えることは出来ない。
「……そんじゃ」
私は煙草を咥え、火を灯し、フードを被ると一歩を踏み出す。
悔恨の念を抱こうがケリはケリだ。
それも終止符を打った張本人が何を都合のよい状況に甘えることが出来るだろう。
それこそは無様の極みだし、何よりとして期待を抱く自分自身があまりにもみじめで受け入れることが出来ない。
だからあの朝のように、私から一歩を踏み出す。
雨の雫を受け、煙草の火種が弱まろうとも、それでも“いつものように”私は独りで歩き出す。
(相変わらず耳に心地のよい声だこと)
それでも、せめてもの慈しみの手段として、自身の甘えとして、彼女の可愛らしい声ばかりは記憶に強く焼きつけようと思った。
偶々の状況での邂逅は、まるで初めて彼女と出会った時のことを想起させる。
そうすると途端に数々の思い出が蘇ってきて、それらが私の心に染みだし、脳内を掻き乱していく。
(ああ、再会なんてするんじゃなかったわね)
どうせ悲観に暮れるなら思い出のみで済ませるのが最善だ。
原因のそのものを前にしてはより一層に己の罪悪感が増してくる。
それもまた一方的なもので、独善的でもあり、自分勝手な感想だろう。
だが後悔を抱かない時はないし、結末として関係を終わらせた事実からして、最早残るのはスタッフロールくらいだろうに。
これから先に何の未来があるだろう。
先にも後にも私の未来図とやらは時の流れに身を任せる程度だと自己完結していたくらいだから、そうなると往生際の悪さと後味の悪さが込み上げてきて、やはりこの雨のスクリーンのままにブルースじゃないかと呆れる。
(せめて彼女が嫌な思いをしていないことを願うだけだわね)
湿気た空気と雨粒、そして紫煙の香りが色濃く私を包む。
果たして私は先のコンビニからどれだけ歩いてきたかも分からない。
視界は相変わらず薄暗く、視線は地を這うばかりだった。
手にあるコンビニ弁当の存在なんてすっかり忘れていたくらいで、どれだけ私は呆けているんだと視線を上げた。
「よっす」
「……あれ?」
そこには彼女がいる。
“いつものように”私を見つめている。
“いつものように”私の隣にいる。
“いつものように”微笑みかけてくる。
“いつものように”優しい香りをしている。
“いつものように”美しく。
“いつものように”可憐で。
いつものままで“いつものように”彼女はそこにいる。
「……なんでいんの?」
「ダメなの?」
「いや、つーか……あれ、未だあんまり歩いてないの?」
「うん。まだ歩き出して十秒くらいじゃない?」
「いや、えーと……」
「ていうかさ、椿ちゃん」
「え?」
「本当に可愛らしいよね」
「は?」
「久しぶりに会えばあんなに大きく目を見開いて。買い物終わったら凄い肩をしょげて歩き出してさ」
「え、いや……」
「ずっと地面見てるんだもん。ちゃんと家に帰れるか心配にもなるよ」
「……流石にそこまでガキじゃあ――」
「いやいやガキでしょ。ずっと。意固地で融通きかないの。そんで我儘で自分勝手なクソガキのままでしょうに」
「随分と辛辣だわねぇ……」
「でも事実だしさ。それに、そんな椿ちゃんだからこそ……やっぱり超絶に可愛いんだよ」
彼女が私を見つめている。
その瞳の奥には相変わらず不思議な色がある。
それは輝きなのかもしれない。
黒くて全てを飲み込むような深い色合いの中に確かな輝きがある。
(……ああ)
私はその揺らめきも、色も、温もりも知っていた。
それは火炎だ。
彼女の持つ、彼女だけが与えることの出来る火炎の揺らめきと色合いと温もりだ。
それと対峙し、真正面から見つめた時、私は氷解する程の理解を得て、合点となると彼女の頬に手を伸ばす。
「やっぱり、燃え続けているのだわね」
「ふふっ……そりゃね、燃え続けるよ。じゃなきゃ誘うものも誘えないからさ、愛しい蝶を」
「でも羽虫は多くいるでしょうに。今もそうでしょうに」
「かもね。でもそれらの翅はさ、燃え尽きちゃうんだよ」
彼女が私の頬へと手を伸ばす。
互いは互いの体温を確かめるように、“いつものように”私たちは触れ合う。
「椿ちゃんの炎でさ。皆、翅を焼き尽くされちゃうんだ」
「…………」
「ねえ、椿ちゃん。私はきっと蝶になれるかもしれないけどさ、それでも……椿ちゃんの温もりがなきゃ、やっぱり嫌だよ」
その言葉にどういった言葉を返したらいいだろう。
既に関係は終わっている。
私の意思で突き放し、彼女もそれに頷いた。
だが彼女は今、私と触れ合い、互いは感じる熱に癒しを得て幸福をも感じている。
「……なら、好きにすればいいんじゃないの」
故の私だ。
この答えが出るからこそに私は私足り得る。
好きにしたらいい――己の心に従い生きるべきと私は彼女の恋人に同じ台詞を贈った。そんな私が彼女の意思を粉砕する道理はないし、一度終えた関係が二度と修復出来ない道理もない。
ただ、私は私らしくそういうだけだ。
そして彼女はそれを理解していたように、まるで端から分かりきっていたように優しく微笑む。
「んじゃ、帰ろうか椿ちゃん。一緒に……さ」
彼女の言葉に私は頷く。
全ては自由意思であり、己の魂を確立すべきと叫ぶならば、私は私の思うがままに生き続ける。
例え彼女が身を包み全てを燃やし尽くす火炎だとしても、例え私がその炎に身を焦がされ翅を失おうとも、そこに陽の光よりも居心地のよさを覚え、夜を越える以前に夜を望むのならば、私には頷くことが全ての正解になり得る。
ただ、そう、ただ――
「……本当、悪女極まるわね、あんたは」
「ふふーん。何せ是が非でも椿ちゃんが欲しいからね、仕方ないよ」
このあまりにも都合のよすぎる邂逅に私は何もいわない。
全ては彼女の掌の上だろうとも、私は軽くボヤいて雨垂れの景色を二人で歩いていくだけだ。
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