夜が明けないことはない。

 いつか必ず朝はくる。

 それは誰しもにとって等しく、もしかしたら世に存在する唯一の平等というやつなのかもしれない。


 私は暗がりの中、微かな月明かりのさすベッドで眠る彼女の顔を見ていた。

 一糸纏わぬ姿のまま、自然のままに彼女は寝ていた。

 頬にかかる髪に手を伸ばしそれを退けてやる。

 そうすると彼女は擽ったそうにしたが寝息は続いたままだった。


 じきに夜は明けるだろう。

 四時の頃合いには空の彼方も白けてきて、いつのまにか月明かりが薄れ、夜と朝の狭間に私たちはいた。


 私は彼女を見つめている。

 裸のままに見つめて、その呼吸の音を聞いて、肌から伝う心臓の音を聞いていた。


 このまま目覚めなかったらいいのにと思っていた。

 このまま死んでいたら楽だったのに。


 そうすれば彼女は物言わぬ物体になる訳で、それは人の扱いではなくなるから、このベッドで静かに横たわっていても不自然じゃなくなる。この部屋にあっても自然なものになる。


 でも夜は明ける。朝はくる。

 翅を休めていた蝶は朝露を受け、身を震わせ、空へと飛んでいく。


 きっとそれが自然なことだ。

 夜だからこそに炎の煌めきは目に眩く、その温かさに身を絆されるのだろう。


 だが陽が昇れば、そこにこそ真実の居場所があるのだと分かるはずだ。

 夜の帳とは暗がりで先が見えないからこそだろう。

 その境界を越えた先に、実は世界が広がっていたら背の翅を広げ宙へと舞い上がるだろう。


(目覚めた時に……)


 何をいうのだろう。

 何といえばいいのだろう。

 彼女は何というだろう。

 何をいわれたいだろう。


 おはようといって、おはようと返すだろうか。

 もう朝だといえば、もう朝かというだろうか。


 身体を伸ばし、当たり前のように彼女は私の頬に触れるだろうか。

 口付けをして笑みを浮かべるだろうか。

 私はどう返すのだろうか。

 眉根を寄せて不機嫌に、いつものように軽く小突いて溜息でも吐くのだろうか。


「……朝だ」


 もう、朝だった。


 月明かりのさす部屋が明るくなって、私は彼女の顔から視線を窓辺へと向ける。

 テーブルにある灰皿を見る。

 煙草がある。ライターが無造作に転がっている。


 私は静かに身を起こし、裸のままに歩いて、煙草を手に取り火を灯す。

 紫煙が浮かび、それを割くように歩いて窓辺へと向かい、外の景色を眺めた。


 普通と呼ばれる景色が外にはある。

 次第に人の数は増えて、学校や職場に向かう人々が溢れるだろう。


 私は扉を見る。

 鍵のかかっていない、世界へと繋がる扉を見て、再度窓辺へと視線を向かわせた。

 窓から見える景色も、扉から出た先に広がる景色も、きっと同じだろう。


 だけど、どうしても私には同じには思えない。


 彼女はいった。鍵というのは世界と己とを別つ唯一の手段だと。

 では私は何故鍵をかけないのだろう。

 何故に彼女がこの部屋にあることを受け入れたのだろう。


 諦念だったかもしれない。

 それこそ無理矢理に、いっそ命を奪う手段すらも辞さず、どうにかして私は私だけの世界を保てたはずなのに。


 けれども今も私の扉に鍵はかかっていない。

 窓辺から見える景色に入り口はない。

 そこは傍観の席だから、実質、繋がりは生まれない。


「……朝、だ……」


 私は私だけでよかったはずだ。

 この部屋は煩わしい湿度と煙草の香りだけでよかったはずだ。

 まるで梅雨の外のように、いつだって陰鬱に満たされた部屋の中、雨垂れに紫煙を浮かべて、窓辺に寄りかかっているだけでよかった。


 だのに、私は鍵をかけなかった。

 かけ忘れたんじゃない。かけなかったんだ。


 火炎の心地が気持ちよくて、翅を燃やされても、それでも身を寄せてもいいくらいに、私はきっと、惹かれてしまったんだ。


 でも、もう、そうじゃない。


 火炎に惹かれる羽虫は多くある。

 そのうちの一つが私だとすれば、きっと誰よりも近い位置にまできただろう。

 だが火炎に照らされると苦しみは当然生まれる。

 他の羽虫の羽ばたきが傍にあるのが分かる。

 その羽音の中に私は紛れたりしない。

 だけれどもその羽音が煩わしく、いっそ憎くもあり、心底に嫌だという気持ちも生まれた。


 ならば身を離せばいい。

 だって夜の中でこそ火炎は煌めくが、朝がくれば陽が我が身を照らす。

 それで済むはずだ。それで全てが終わるはずだ。


 私は煙草を吸う。

 吸って、煙を吐いて、視線をベッドへと移して、そこに眠る彼女を見る。


 翅を畳み、静かに寝息をたてる蝶の彼女を見て、歩み寄って、その頬に触れる。


「……おはよう、椿ちゃん」

「……おはよう」


 彼女がその瞳で私を射抜く。

 いつから起きていたのかは分からない。

 彼女は私の手に己の手を添えると、優しく握りしめた。


「いつか……朝はくるのよ。明けない夜なんてありはしないの」

「……うん」


 彼女は優しく微笑んで、私の言葉に頷く。


 彼女は分かっているのだろう。

 私の表情を見て、私の心の裡を理解したのだろう。


 何せ彼女は私の鉄面皮とまで評された顔から感情を読み取ることが出来るのだから、彼女には全てが分かっているのだろう。


「前にあんた、いったわよね。私は蝶であんたは蛾だって」

「……うん」

「……蝶になんてね、なろうと思えば誰でもなれるのよ」

「……うん」

「例え汚い翅だろうが見栄えのしない色をしていようが、己が蝶だといえば蝶になれるの」

「……うん」


 彼女の手を握り締める。

 それを彼女も握り返す。


「私はきっと、蝶なんでしょう。でもね、蛾にだってなっていいと思っているのよ」

「……うん」

「だってその方がいいのだわ。誰にも求められず好きに飛び回れるじゃない」

「……うん」

「火を求めなくてもいいじゃない。群れる羽虫の中から抜け出して、朝がくるまで待てばいい。だっていつかは必ず……陽が昇るでしょう」

「う、ん……っ……」


 鍵を閉めよう。


 もう、火炎に身を焦がすことに私は堪えられない。


 他の蝶や蛾の煩わしさを思うと、翅を失ってしまいたい。


 それが続くことになるのは明白だ。


 先の話しが一度で、そして一人だけで済むのなら世界は単純だ。


 私は孤独でいい。孤独がいい。


 そうある為にこれまでを過ごし、生きてきた。


 ただ、ふいに戯れのように開け放たれた窓から蝶が入ってきたから、仕方なしにそれを愛でていた。


 それだけのことだ。


 それでいい。


「……終わりにしましょう」

「……うん」


 朝日の中で、私は涙を流す彼女を抱きしめて、その震える身体を包む。


 きっと飛べる。きっと蝶になれる。


 世界は不自由だけど、それでも、翅を広げて飛べるほどの広さはある。


 だから、だから――


「あなたは蝶よ……零」

「椿ちゃん……ありがとう、今まで。ありがとうねっ……」


 さようなら。

 私の炎、私の蝶。

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