六
初夏、強い日差しを遮るように頭上へと手を翳した。
雑踏に紛れるのは蝉の鳴き声だった。
煩わしい大合唱に人通りの多い街並みは居心地が悪かった。
立ち寄った喫煙所で一本を吸い切ると人込みの中へと踏み出す。
「あっちぃー……」
夏は嫌いだった。
単純に気温の問題もあるが、この纏わりつくような湿度や浮かれた人々の熱気に眩暈すらする。
おまけに蝉等の虫の存在だ。待ってましたと言わんばかりにあれらが空を飛んだり地を這っていたりする。
頭上には憎たらしいまでに強い輝きを放つ太陽が居座り、夜になれどもアスファルトは熱を孕み、昼時なんぞは一歩を踏み出すことすら億劫だ。
つまり、統合して最低な季節だと私は思っている。こういう時期こそ家に籠りっぱなしになって静かにのんびりと過ごしたいものだった。
「えーと、なんだ、こっちだったかしらね……」
そんな夏嫌いな私だが、この日、珍しいことに日中の外へと出かけていた。
ことのついでだった。
本日は必要な単位の為に午前の講義へと顔をだし、目的を果たすと足早に退散する。そのままの足で帰宅し、冷え込んだ我が部屋で怠惰を貪ろうと思っていた。
ところがそうはならなかった。予定が生まれてしまった。
私は若者の行き交う景色にいた。
今風の男女が流行りの飲み物やらを手に、青春を謳歌せんと誰もが大声で話していたりする。
それらに全身を殴られているような感覚だったが、兎角として目的の喫茶店を見つけると私は扉を押し開いた。
「いらっしゃいませ。おひとり様でしょうか?」
「ああ、いえ、待たせている人がいるんで……」
駆け寄ってきた歳若い店員に適当な返事をしつつ、広くはない店内を見渡す。
洒落た風の曲が流れる店内は樫木張りの床で、私は履き潰したスニーカーでそろそろと歩いていく。
やがて見えてきた人物と目が合うと、相手は軽く頭を下げ、私もつられるようにして頭を下げた。
「どうも、津出さん」
「ええ、どうも」
利発そうな、感じのよい印象を持つ男性だった。
歳は私と同じくらいだろう、まともな情報を持ちはしないがそんなものだろうと結論する。
促される形で向かいの席へと腰かける。
店内全域が禁煙なのは今時では当たり前で、私は懐にある煙草を取り出すこともせず相手の顔へと視線を向ける。
「なんだかすみませんね、突然にお呼びしてしまって。喋ったのもつい先のことが初めてなのに」
「はぁ……」
そういう男性は私にメニューを寄越す。
特に腹の減りはない。適当に目についたアイスコーヒーをウェイターに注文し、改めて私は男性と向き合った。
この男との接点はなかった。今し方、男がいった通りの関係だった。
「改めまして……僕の名前は鈴木といいます」
名乗った男性に対し私は特に反応を示さない。
彼は私の大学に通う生徒の一人で同期のようだ。
ようだ、というのも覚えにない人物だったし、そもそも私は誰とも接点がないが故に認識したのも今日が初だった。
本日、私は彼に声を掛けられた。
大学から出てすぐのことで、彼は私に寄ってくると、後で指定する喫茶店にきてほしいと請われた。
初の対面で、かつ、初の会話だった。
一体全体こいつは何だと訝しんだ目だった私だが、その目的を聞かされると仕方なしに足を運ぶ形となる。
「まあ、要件は先にもいったんですが……零さんとのことでお話があるんです」
私の性格からして、例えばナンパだとかには頷かないし、それ以外で、単純に親睦を深めようだとかという理由での誘いであれ真正面から断る。
最大の理由はやはり無関心だからだ。
面のいい男だろうが金を持つ富豪だろうがそこに差異はない。
他人は所詮他人であり、恋だの愛だのを寄せられても興味がわかない。
だからこの場にいることが凄まじく違和感だったりもする。
どういった理由があれ、私は他人に付き合ったりすることはないのに、彼女の名前を出されると不思議と足は向かった。
「ここ数か月、あなたは彼女ととても親密な関係にありますよね。真実は知りもしませんが、傍から見ていても分かることです」
「はあ、そうなんでしょうかね」
「ええ、そうですよ。何せ今まで仲良くしてきた友人達よりもあなたを優先していますから」
話の途中にアイスコーヒーが手元へと届く。
内容に口をつけつつ、男の言葉を聞いて、やはりというべきか、これは面倒な内容になると確信した。
見え透いていたことだった。
何故に彼女のことで本人を他所に話すことがあるのか、なんてことは実に単純なことだ。
「僕、彼女と付き合っていまして。僕のことは彼女から聞いていますか?」
「いや、まったく」
「……そうですか」
つまりは色恋の話しだ。
男女間の云々なんぞ当人たちの問題だろうに、私に直接くるところが修羅場のそれを思わせる。
とはいえ私の台詞に男は少し口をまごつかせ、頷きを見せると手元の飲み物を啜った。
「まあ、なんというか、彼女とは良好な関係を築けていたと思います。実際、知り合ったのも付き合ったのも春先のことですが、それでも僕と彼女はちゃんと縁を持つ間柄なのです」
そういう男は私を見つめる。
結構、整った顔立ちだ。服装も清潔感がある。
なんとなし男の隣に彼女がいる姿を想像してみるが、存外、画になるんじゃないかと思った。
「そんな僕達だったんですが、段々と彼女からの連絡が減りました。聞けばあなたと過ごす日々が楽しくて仕方がない、居心地のよさに大層感激している、だとかで」
「はぁ、そうですか」
「……単刀直入にいいますが、彼女とそういった関係を続けるのをやめてほしいのです」
面倒な手合いだと思う。
だが男として、そして恋人として彼は立派だとも思った。
普通、そういった目に見える、或いは感じ取れる異常やら状況に尻込みする人達が多数だろう。それも問題の人物を直接に呼び出せる胆力は中々ともいえる。
私は寄越された台詞に特に返事もせず、さて、では何をどう話そうかと考えた。
私は彼女と恋人の関係にあるとは思っていない。
彼女は私に愛を囁くが私がそれに応えた覚えはない。
ただひたすらに情欲を貪りあう、そんな子供のような関係性だと思っている。
大多数の人間から見れば、それはとても不純だろうし、まして恋人の間柄である人物からすれば恋敵だとか、或いは憎き怨敵にすらなり得るだろう。
ところが蓋を開けてみた時、そもそも彼女の恋人というのは複数存在しているし、それが肉体関係のみのセックスフレンドだったりするし、彼女自身も乱れているのは事実だった。
その事実を知るか否かは不明にせよ、この男の立場からすればどうあっても私は間男、ではなく間女のそのものだろう。
「まあ、続けるも何も、私は端から彼女との関係なんぞには興味がないのだわ」
「そうはいっても、事実、あなたは彼女とそういった関係を続けている」
「結果はそうでしょう。でも続けようともいっていないし、彼女がそうするのは彼女の意思なのよ。私にどうこういっても仕方がないわよ」
「いいえ。彼女ではなく、あなたこそが根本の問題でしょう」
その言葉に何故に私なのだと疑問に首を傾げる。
「その曖昧にも思える態度が彼女にとっては都合のよい風に受け取れる。含めて、あなた自身も負い目に背を向けることが出来る。両者にとってそれはとても都合のよい免罪符ではないでしょうか」
「はぁ……」
「いいや、或いは負い目がないのかもしれませんが、本当にどうでもよいのならば突き放せばよい話しでしょう。ですがあなたはそうしていない。今し方の台詞は、言葉のままに受け取れば、まるで彼女が一方的にあなたに迫っているようですが、その実はあなたが彼女を誘い受けている風にしか見えません」
それはまたなんともといいたくなる。
普通に考えて恋人の肩を持ちたくもなるだろう。
肉体関係に発展した相手を前に怒りに狂って殴る蹴るをしないところが紳士的ともいえる。
だが私の言葉を彼なりの解釈と都合で理解した風な物言いに少しばかりの憤りを抱いた。
「あなたは仰いましたね。彼女との関係には興味がない、続けるつもりもなく、全ては彼女の意思が前提にあると。でもあなたは知っていますよね、彼女があなたから離れるつもりがないことを確信しているのでしょう。だからそういった言葉を口に出来る」
「それは分かりゃしませんが、私に飽いて離れる可能性は幾分にもあるでしょう。それに私は最初から拒絶していたつもりなのですわ。散々に殴る蹴るをして我が家にまで押しかけた彼女を追っ払おうともしたのよ。ところがあれの性格はまるで堪えやしないのだわ」
事実、私は散々に抵抗をしていたつもりだ。
彼女の顔面を殴った日から身体を重ねるまで、無視等の対応も含めれば出来る限りのことをしたと思う。
何せ私は孤独主義者だから、私にとって他人とあることは苦痛だし、我が城とも呼べる絶対の領域に土足で踏み入られる苦しみなんぞは誰にも理解出来まい。
「では何故、今、あなたは彼女と共にあるのですか」
その台詞に私の言葉が止まる。
「散々に殴るだの蹴るだの無視をしていたのに、身体の関係を持つに至った。それを諦めと呼ぶかは知りませんし、あなたの心の裡を知る術もない。けれども現状、あなたは彼女と共に過ごすことを受け入れているし、最早追い出そうという風でもない。誘い受けていると呼ばず何と呼ぶのです」
「だったらどうするべきだったかしら。殺した方がいい?」
「それこそは最大の過ちだ。兎角、例えば警察に通報するなり手段は多くあった筈でしょう。そもそもの暴力を振るう以前にそういった対処が出来たでしょうに。つまり、あなたは最初から彼女を本当に拒絶していた訳ではないのではないですか」
明け透けにいうが、まるで私の心の内を知った風にいうのは癪だ。
私は眉根を寄せて男を睨む。
全ては私が悪だといいたげだったが――悪であるのは間違いないにせよ――さも己は正しいという男の姿勢には納得し難い。
「一人の人間相手にそこまでの対応をする阿呆がどこにいるのかしら」
「今時のストーカー規制法が何故に生まれたか御存じないようで」
「それを押しとどめることが出来る人間が周りにいなかったのも一つの問題ではなくて、彼氏さん」
「……では僕も悪だと?」
「……何故にあなたたちは皆、善悪や正否を定めたがるのかしらね」
胸中にある私個人の哲学は単なる呟きだ。
男はそれに反論をしようとするが、私は構わずに言葉を続ける。
「兎角、私に要求するのはそういった理由だというのは理解したけれども。本人には当然に伝えているのでしょうね」
「……ええ」
「ならそれが彼女の答えでしょう。どうにもならないのであればあなたが縄で縛るなり、自分の部屋に繋ぎとめるなりすればいいでしょう」
「それこそ犯罪ではないですか」
「だってそれがあなたのいうところの答えでしょう。他人の意思を受け入れられないのならば己の意思で屈服させるのが世の常ではないのかしら」
彼はいった。己と彼女は恋人の関係だと。
ではそれは今もか、という問いをしなかった。
恐らく彼女の性格からして未だに恋人の間柄だと思う。
互いの了承があって初めて交際の関係にあるといえるだろう。一方がどれだけ愛を寄せていようが、一方がそんなことはないといえば片思いだろう。
愛想が尽きるのではないか、と思う。
自分という恋人がありながらも他の人物に夢中で、どころか部屋に入り浸って日夜抱き合っている。
字面で見れば最悪だ。だが事実だった。
そんな事実を男は理解していて、尚も彼女とは恋人関係にあると断言した。
(愛、ね)
その言葉がぴったりだと思うくらい、男は彼女に心底惚れているのだろう。
例え彼女が他の人物に想いを寄せていようが、形として恋人の関係にあり、また、それをお互いが了承していて、更に今もそれは続いたものだとしているならば彼はその手綱を離すつもりはないのだろう。
あんなイかれ女の何がいいんだと思う。
容姿やらは、そりゃ誰もが認める程のそれだ。身体も含め佳人のままだ。
だが他にもいるだろうにとも思う。
この世には八十億もの人間がいて、その約半分くらいは異性なのだから、だったら一人の人間に固執せず、世界に目を配ればいいのにと思った。
「別れろ、と暗に仰っていますか」
「曲解だわね。好きにしろ、というのが私の提示する意見よ」
「……それはまた無責任に思えますね」
「そうかしら?」
「ええ。あまりにも他人事のような意見だ。まるで関心など寄せる必要もないというような、拒絶に等しいのではないですか」
それで正しい。
結局、私の芯が折れることはないし、根底にある考えが変わることだってない。
どうでもいい、面倒臭い――それが全ての答えになるくらい私は関心を抱けないでいる。
今現在、私を含んでいるらしいこの問題にすら“好きにすればいいだろう”といった感想しか抱けない。
「目移りされるような、そんな程度だったのが結論なんじゃないのかしら。あなたからすればふざけるな、という感想でしょうがね、私からすれば何故に繋ぎとめることが出来なかったのだというのが感想ですわ。別に完璧超人になれといっている訳ではないのよ。あなたが彼女にとっての特別でいて、唯一無二の存在であれば、彼女はあなたしか見えなかったのではないかしら」
私の立場とやらがどういったものかは知らない。
例えば悪の側であり、それこそ浮気相手のようなもので、開き直った風に見えているのかもしれない。
だが主観は正しく主観だ。立場はそれぞれにある。
確かに事実上、男と彼女は恋人関係だろう。
だがそれだけだ。恋人という関係性を持つだけでしかない。
(仮にこの場に彼女がいたら何というだろう)
歪な感性を持つ彼女はきっとこういうだろう――“何で言い争っているの”と。
問題を理解する訳がない。
理解できる人間ならばそもそもこういった真似をしないし、元より性に奔放だし責任感なんぞがあるならば複数の人物と恋仲になる訳もない。
つまり、その程度の人間だし、この男がここまで必死になる程の価値はないのではないか、とすら思う。
だがそれこそ十人十色だが、人にはそれぞれに価値観がある。
例え不純な真似を仕出かそうが、そういったことすらも許し、受け止め、更には前進したいが為に必死になる人間もいる。
「……唯一無二、ですか」
「ええ」
「そう簡単になれないから僕は……いいや、彼女の傍にいる男達は必死なのですよ」
成程と思う。
この男はその事実すらも理解しているようで、それはきっと、この男のみならず、彼女と関係を持つ全ての恋人達がそうなのだろうと分かった。
「……知っていて尚、彼女を我が手にしたいと」
「ええ」
「まるで病的だわね。あなた達全員、いってしまえば同じ穴の狢ではないのかしら」
「愛に正常なものがあるでしょうか?」
「さあ、それこそは哲学の域だわよ」
適当に返事をしてコーヒーを飲み干す。
からりと鳴った氷の音が不思議と響いた。
「きっと僕も含め、彼女と関わりを持つ人物は全員異常の部類で違いはないでしょう」
「その中に私も含まれている、と」
「ええ、当然です。何せ普通ではないじゃないですか、我々の関係性というものは」
手元を見つめる男の言葉に私は首を傾げた。
「はぁ……」
「先程、あなたはいいましたね。全てを知っている癖に彼女を独占したいのか、と」
言葉は違うにせよ意味合いは概ね合っている。私は頷きを返した。
「もう、そういう歳の頃ではないでしょう、我々は。恋だの愛だので浮かれたり、魅力的な誰かを抱きたいだの抱かれたいだの。そんなものは理性のない獣や子供と同じではないですか。僕もね、否定は出来ないのですよ。淫奔だのと語るつもりはないですがね、そりゃまあ、幾らかの女性との付き合いはあった。普通に生きていれば恋人が出来るなんてことは当然ですからね。だから現状、彼女の自由の様に何をいう権利だってありはしないと思っているのですよ。それは過去の己を否定することになるじゃあないですか」
そこで言葉を切った男は私を真っ直ぐに見つめたままに続けた。
「でもそういった青春はもう、終わりにするべきなのです。普通はそうして大人になっていく。世間体という言葉は自由に対する責任をも意味する。だからもう、子供のような遊びは終わりにして、彼女には僕一人を選んでもらいたい。その為に彼女の目を覚まさせてほしいのです、他ならぬあなたに」
彼の言葉の量に対して私は頷きを同じ程度に返すことはなかった。
いっている意味は理解出来る。
突き詰めれば大学を卒業し、その先の社会に出た時をも見据え、共に愛を育む夫婦のような関係にまで発展を望むとするならば、このぐらいの時期に全ての清算をつけて、青い時代だったよなと思い出を振り返るくらいの、そういう風に落ち着けたいのだろう。
どうやら彼にとって彼女は生涯を共にする伴侶に相応しい、或いはそれ程までの情熱を抱くに足る存在らしい。
その熱意を前に賞賛でも贈りたくなる。
別に馬鹿にしている訳ではなく、私からすれば、何故にそうまで他人に執着出来るのだという疑問すら芽生える程に、それは透き通った感情に思えた。
だが羨望はなく、憧憬もない。
ある種の理想像を語られ、意味を理解出来ても、私の頷きが少なかった理由は心底に簡単なものだった。
「……多分、あなたは立派な人になるんじゃないかしら。よき父となり、よき夫にもなるのでしょうね」
「そう思って頂けるのですか?」
「ええ。きっとそうなのだと思うわよ」
私は懐から煙草を取り出した。
当たり前のようにそれを咥えて火を灯す。
そんな所業を見て彼は目を大きく見開き、近くにいた店員までも困った顔をしつつ足早に駆け寄ってくる。
他にも店内にいる誰彼の視線だとか舌打ちなんかも聞こえた気がした。
それらの反応を理解しつつも私は立ち上がる。
立ち上がり、紫煙を吐き出し、未だ席に腰を落ち着かせ私を見上げる男へと言葉を紡いだ。
「なんで普通じゃないといけないの?」
「――……は?」
例えば道徳倫理という言葉があり、世の中には法律というものがあり、義務や権利、責任だとかという言葉もある。それらが機能しない社会なんぞありはしない。
そんな当たり前のことは私にだって分かるし、それはきっと彼女も分かっている。
だがそれらがどうしても関与出来ない物事というのはある。
それは魂の在り方だ。
禁煙の席で煙草を吸ってはならない。
当然だろう。何せそれが店や行政の定めたものだからだ。
だから煙草を吸いたかったら喫煙室にいくなり自宅で嗜むなりをすればいい。
わざわざ禁止された場で煙草を喫む必要性はない。
だが吸いたいと思うのなら吸えばいい。出禁を喰らおうが罰金が発生しようが、提示されたものがあれば責任を果たせばいい。
別に責任を負うから勝手を仕出かしていい訳ではないだろう。
そこから先は道徳倫理の問題であり、単純にいえば他者に不快感を与える権利は誰にだってありはしない。
――では区分と線引きはどこにある。
法律の内で義務と権利を遵守し、他者に対し中庸に接し生きることに普通だとか個人だとかと分ける起点はどこにある、身勝手と自由の明確な差はどこにある。
「普通を願い、そうあるべきと……何故に貴様等はそうも呪いの如くに何かを定めたがるのかしら。彼女は普通になるべきだとか、私から全てを終わらせるようにいえだとか……まるで利他的な目的を利己のままに願う貴様等は糞にも程がある」
私は社会不適合者だろう。その自覚は幼い頃からある。
誰も彼も善悪や正否を絶対のように崇め、それを定めるのに、では正しいことの中で悪を仕出かすだとか、悪の中で正しいことをしたらその意味合いは曖昧になる。
あまりにも不完全な社会だし、実質的にいって道徳倫理なんて言葉は微塵も機能していないのではないかといった感想しかない。
だから普通という言葉の意味を理解しかねている。
何を以てしての、何を起点としての普通なのか。
世の中とかいう実体のない大衆が決定した普通とやらに全く共感が出来ない。
「聞き入れては、貰えないという、ことですか」
「何度いえば済むのかしら。好きにしろといったのよ。道徳がどうだの、普通がどうだのじゃあない。貴様が是が非でも欲しいと思うのならどうにかしてでも手に入れればいいのに。社会が許すかどうかじゃない、正しさや善さなんぞも関係ない。貴様の魂がそうするべきというなら何故にそれに頷けない。何故に己の心に従えないのかしらね、貴様等は」
仮に世界がそうあるべきといったところで己が頷けないのならば頷かなくていい。
それが私の在り方だからだ。
別に心をすり合わせるように適応することなんて出来る。誰にだって出来る。
だがそうするまでもなく私は私で完結している。
だから私は私のままで在り続けることが出来ている。
「それではお暇させていただきますわね。ごきげんよう」
煙草を咥えたまま、戸惑っている店員をも無視して私は店を出る。
背後から男の追撃でもあるかと思えばそうでもなく、私は普通のままに店を出て、夏の太陽に身を焦がされながら人込みの中へと踏み出した。
(下らない)
煙を吹きながらに歩き出す私を人の群れが避けていく。
その流れを当然のように私は歩いていく。
赤熱する火種が顔に迫る頃、私は天を見上げ、一つの解に辿り着くと眩い太陽に手を翳し、呟いた。
「邪魔になっちゃったなぁ、火……」
火炎はもういらない。
翅を燃やされるくらいなら、私はそれを消そう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます