心を交わすことはその実、簡単なことだ。

 頷き続ければいい。

 否定にも肯定にも首を縦に振り、話を聞く素振りを見せていれば全ては片がつく。


 適当な風ではダメだ。

 だが真面目に意見をしてもダメだ。

 心を汲むという、その姿勢が何よりも大切で、心を交わす相手が最も求めているものは不純物のないシンプルな同意だ。


「ねえ、少しは量を減らしてみたら?」


 梅雨も終わるだろう季節に彼女はいう。

 私は一糸まとわぬ姿のまま、彼女も同じ姿でベッドに仰向けになっていた。


 初めて肌を重ねた夜から私と彼女はひたすらに互いを貪りあっていたと思う。

 時にご飯を食べて、時にシャワーに打たれ、互いの目が合えばそれが全ての合図になる。

 流石に大便をひり出す時くらいは配慮してほしいところだが、この気狂い女の恐ろしさは“排便見せて”の一言で誰しもに伝わるだろう。

 無論見せやしなかったし相手の公開排泄とやらも遠慮した。人としての在り方の問題だ。私は別に全てを共有するだとか同一の存在になりたい訳じゃない。


 兎角、幾夜を越えた現在、気がつけば夏に差し掛かる季節の、これまた平日の真昼間に彼女が私のアイデンティティを否定する一言を放つ。

 寝煙草でも注意されるかと思えば吸う本数を減らせ、というところがまた彼女らしい意見かもしれないが、私は彼女の顔面に肘鉄を落として起き上がる。


「いっだぁ!」

「愚かしい台詞もあったもんじゃないわね。あんたは酸素を失って生きていけといわれたらどうする? 無理でしょう?」

「椿ちゃんいるし」

「私は大気でもないし生きる為に欠かせない要素でもないのよ。つまり呼吸せずして人は生きられないでしょうが」

「えー? でも椿ちゃんいれば多分空気なくても生きていけるよ私」

「マジで狂気かよ……もういいわよ、阿呆くさい」


 呆れつつ、こうも人は一人の人物に対して執着出来るものなのかと思いもする。


 彼女は夜の外に出かけなくなった。

 それこそ四六時中私と共にいて、大学でも供回りの如くに侍り、某かの誘いに一切乗らなくなった。

 宛らに傅く様だが、他者から見れば逆ではないかと思うだろう。彼女は姫の立場であり侍女こそは私だと思うだろう。


 実際、私たちの関係に立場の上下だのはない。

 ただ互いがありたいがままに行動をし、時を気にもせず色に狂い、嬌声に意識を飛ばし嬌声に覚醒を促される日々だ。


 だが私たちはやはり、恋人のような関係ではないと思う。

 愛を交わしている訳ではない。

 互いの欲しい物を互いに強請るような児戯に等しい。


「しかしニオイが強すぎる……淫蕩に耽るってのは正しくね。換気せにゃだわ」

「えー、やめようよ外の空気暑いってば」

「ほぼあんたの所為でしょうが、鯨も真っ青な潮吹き娘めが……」

「いやぁ、椿ちゃん要領いいよねえ、凄まじい成長っぷりに私もビックリ。世の男達ももっと努力してほしいなと思う所存ですぞ」


 こうも見目麗しい美女が性欲の権化だというから世の中は分からないものだ。

 ぐずぐずになったベッドから同時に立ち上がると軽く腰を捻り、私は換気と新しいシーツの回収を、彼女は台所に向かって作り起きのご飯を冷蔵庫から引っ張り出してくる。


「ねえ椿ちゃん。もう床でいいんじゃない?」

「無理、私ベッドじゃないと眠れないから」

「いやいや敷布団でしかエッチしないようにするとか」

「あんたそれ守れるわけ?」

「んー……無理!」

「二度と無駄な提案しないで」


 開け放たれた窓から温い風が入ってくる。

 湿り気を帯びたそれを受けながら私と彼女は向かい合ってご飯を食べている。

 会話の内容は下世話だが、こうして誰かと意思の疎通を、それも自然な風にする自分が信じられないでいた。


(何をしているのやら)


 食べ終わり、食器を洗う彼女を眺めながら紫煙を燻らせる。

 今の今までずっと互いは全裸のままで、その珍妙な光景も含めて状況に疑問を抱いた。しかし抱けども、私は問いの先を探せないでいた。


 答えのない状況ではない。

 それを探り当て言語化し、納得することだって可能だった。けれどもそうする気が起きない。状況の説明も、動機というか経緯すらも、全てを曖昧なままにしていて、それが存外、心地のよいものだとすら思う。


 らしくないことだった。

 私を知る人間がどれだけいるかは不明だが、現状の私を見た場合、どういった感想が出てくるだろう。

 奇妙だろうか、ないしは不気味だろうか。

 他者に対して関心を寄せず、常に孤独を選び、一人で完結していた人間だとは思えまい。


 とはいえ私にとって現状の行き着く先には関心がなかった。

 例えば彼女が夜の外に出かけなくなった事実だが、別に強要するだとか、ましてお願いのような真似をしたこともない。

 別に出ていくならそれでいいし、そもそも引き留めるつもりもない。何故ならどれだけ肌を重ねようが他人は他人だからだ。


 彼女が、または往々がいうところの恋人の関係であったとしても、私は個人が決定した物事を否定するつもりがないし介在するつもりもない。


 すべては流れのままだ。

 揺れる紫煙が天に向かうのと同じことで、そうなってしまったのならそれは自然なことに違いない。


 今し方、食器を洗い終わった彼女が手を拭っている。

 その様子を見て、そういえば最後の入浴はいつだったかと思った。


(……いよいよ女を捨てたかね、私も。臭いのは自分自身もだわね)


 彼女が入り浸るようになってから時間の感覚すらも曖昧で、それこそ誠に阿呆らしいことだが、生活のサイクルが崩れる程の淫蕩に狂っていた。

 お陰で昨日から入浴していない事実に気が付く。

 全身から発せられるのは様々なニオイだが、腋やらの局部から酸味の強いニオイがすると気が付き落胆する。

 美意識の云々を語れる程ではないにせよ、人として、一応は女として清潔感くらいは保っておきたいのが心情だった。

 煙草をもみ消し、兎角として身体を清めようと浴室へと向かう。


「んで、なんでこうなるわけ」

「んー? だって一緒に入るのってなかったし」


 当然のように後をついてきて私と同じくシャワーに打たれる美女。

 ほんの数時間前まで呆れるくらい肌を重ねていたのに、彼女は当然のように私を抱きしめてくる。

 それを無視しながらに私は髪を洗い、勝手に発情する彼女を無視しながら身体を洗い、洗顔等も済ませたら即座に出ようとした。


「いやちょっと、毎度烏の行水だなーとは思ってたけど、湯船に浸かりもしないの?」

「そもそもお湯張ってないし」

「だったらお湯溜まるまで、ほら、おいでよ」


 そういって彼女は空の湯船に私を手招いた。

 まさか今から溜まるまで空の湯船に一緒に入ろうということだろうか。

 まるでガキのやることじゃないかと思いもするがそれを口にはせず、どうせやることなんてセックスくらいだし、妙な遊びに付き合う感覚で私も浴槽に入る。


 互いは向かい合う形だったが、気に入らないのか、彼女は私に背を向けるとそのままにやってきて、彼女を背後から抱きしめるような形になった。


「はいお湯張りしますよー。スイッチぽちっとなー」

「ねえお尻が冷たいんだけど。あとあんた重いんだけど」

「まぁまぁ。ほらお湯が出て……こない! つめたっ! 早くお湯出てよー!」


 燥ぐ彼女。身を沈めてくる彼女。

 それを拒絶するでもなく、足先から次第に溜まっていくお湯を受け、気が絆される思いだった。

 別に風呂嫌いという訳じゃないが、湯船に浸かるのは久々だった。

 邪魔な存在はあるものの、水嵩が段々と増してきて、ついぞお腹にまで迫ると自然と息が漏れる。


「しっかし椿ちゃん、お顔はとてつもなく綺麗なのにお身体がねぇ……いやそういう控えめなところも好きなんだけどさ」

「胸も尻もデカくなくて結構。あんたのそれどんだけ大きいのよ。なんで水に浮いてんのよ」

「大きすぎても辛いんだけどね。高校生の時とかさ、体育祭あったでしょ?」

「ああ、あったわね」

「リレーあったじゃん。私走るの得意だったんだけど。あれでさ、全力で走ってたらブラが弾け飛んでさ」

「え、それ本当?」

「本当、本当。そもそもまともなスポブラって訳でもなかったからお胸が爆裂して痛いし、あれは最悪だったなぁ」

「大きいのも大変だわね……」

「まぁ下着は最近だと可愛いのいっぱい出てきてるし、ただ肩幅が自然と出たりね、あと足元見えないとかデブに見えちゃうのが嫌かな」


 ふと、彼女が自然と私の手に指を絡めてきた。

 私は抵抗するでもなくそれを受け入れる。

 彼女が私に深く凭れてくる。

 表情を見下ろせる程に沈む彼女は私を見上げ、柔らかな笑顔を浮かべた。


「……好き」

「……臆面もなく、安売りするかの如く言葉にするんじゃないわよ」

「えぇ、安く聞こえるかなぁ? 言葉にすることって凄く大切なことだよ」


 手を取り合い、彼女が強く握ると、私も呼応するように握り返す。


「でも言葉にできないからって行動で示すのも大切だよね。本当、椿ちゃんは可愛いなぁ」

「はいはい、何でもいいから……そんで、いつまでこうしてるのよ。いい加減重いわよ、姿勢も変えたい――」

「ずっとだよ」


 大きな瞳が私を射抜く。

 幾度対峙しても思い知らされる。彼女の美しさばかりは否定のしようがないと。

 瞳を縁取る長い睫毛も、白磁を思わせる肌も、高く通った鼻も、全てが世の乙女達が抱く理想のままだろう。


「ずっとこうするよ。何度も抱き合って何度もキスするの。目覚める度に好きだっていう。ずっとずっとね」


 そんな彼女に向けられる愛の告白。


 何故に私なんだ――何度も訊いた。

 その度に彼女はいう――あなただからだと。


 甘ったるい台詞を真面目な表情でいわれ、私はその美しさと言葉の強さに口を噤み、姿勢を正した彼女と真正面から向かい合う。


「私はあんたがいうところの蝶じゃないと思うけどね」

「それを決めるのは私。椿ちゃんは世界で一番綺麗な蝶々だよ」

「……下らんわね、まったくもって」


 胸の中に彼女がやってくる。

 そんな彼女に頬を撫でられ、なぞる指は唇へと向かった。

 私は抵抗の一つもせずそれを受け入れている。

 やがて互いの顔が零の距離にまで迫り、柔い感触を理解する。

 口腔を行き交うのは互いの舌だ。

 彼女の唾液と私の唾液が絡まって、互いの咽喉を通って、身体の奥底へと落ちていく。


「ほっと、ひは、はははいへほぉ」

「何いってんのか分かんないわよ」

「舌を、噛まないでっていってるの」

「はぁ、然様で……」


 彼女の舌を噛みちぎろうかと思った。

 この饒舌に気持ちのよい言葉ばかりを運ぶ柔らかく小さな舌を取り除けば、もしかしたら彼女は静かになるかもしれない。

 言葉さえなくなれば、今よりも落ち着きをもって、ある程度の距離を保ってくれるかもしれない。


(……ガキじゃあるまいし。しかし千切れないなぁ、この舌)


 適当に弾力を確かめ、ある程度の玩味を終えると自由にしてやる。

 軽く血が滲んでいる。

 そこまで鋭く歯を立てた覚えはないが、再度やってきた舌は鉄の味を纏って私の舌をねぶる。

 蒸れる熱気としがみついてくる彼女の体温が煩わしくて、風呂もここまで堪能すれば、もう暫くはシャワーだけでいいだろうと結論した。


「あ、ちょっと、椿ちゃんってば!」


 さて、ではそろそろのぼせそうだった。

 私は彼女の花弁へと己の指を沈める。

 軽い抵抗をみせた彼女だがそれを無視して、私は慣れたように腕全体を動かす。

 甘い息が漏れてくる。それでも口付けを止めもしない彼女は、全身で私を感じようとしていた。


「はぁ、疲れる……さっさとしなさいよ、風呂の中、熱いのよ」

「そんな、風にいわなくてもいいじゃないっ……」

「結局こうなるんだから……どうせそうなろうとしてたんでしょうがよ、変態女」

「ふふっ、それはお互い様でしょ……」


 弓なりに背を反らせ、数度、彼女は震える。

 瞳が曖昧に揺れ、一寸離れた唇からは言葉にならない言葉が漏れた。

 指に身体の反応が返ってくる。

 幾度か強く締め付けられ、落ち着きを取り戻すまで私の指は体内で包まれ、揉まれを繰り返す。

 引き抜きたい思いと、指先のざらつきを散々になぞりたい思いとが駆け巡り、軽く撫でてやると気をやったばかりの彼女が強く跳ねた。


 分かりやすい身体だと思う。

 その反応のよさが、或いは彼女の身体を求めた多くの人間達を虜にしたのだろうと思う。


 押し込むように花弁を愛で、口の隙間から漏れる息が次第に嬌声に変わる頃、彼女は先よりも大きく身を反らせ全身で跳ねる。

 彼女は矢継ぎ早な息をする。

 私を潤んだ瞳で睨み付けると軽い口付けをして私の胸の中に顔を埋めてしまった。

 拗ねたのか、或いは顔を見られまいとしているのかは不明だ。

 機嫌を損ねたのは事実だろうが、それでも私を強く抱きしめる彼女は、乙女のそのものかもしれない。


(まったくもって、何やってんだか……)


 ニンフォマニアを相手取ることの苦痛はその性欲の強さを知る人物にしか分からないのかもしれない。

 ただ、では私はそれを苦痛に思うかといえばそうでもない。

 単純に気持ちのよいことは好きだし、美女が快楽に狂う顔が嫌いじゃない。


 未だ息の整わない彼女を押しのけ、いい加減に湯船から退却すべく私は立ち上がろうとする。流石にこれ以上は体力的にも厳しい。

 兎角として一旦の満足とし、彼女の様子を窺いもせず肩に手をかけるが――


「あ、ちょっと、こらっ、やめなさいってっ」


 下腹部に異物感があり、ついで体内へと侵入した感覚に背が震える。

 焦燥のままに彼女を見やれば、そこにはしてやったりと口角をあげる美女の表情があった。


「私ばっかり必死でずるいでしょう? たまには許してよ、椿ちゃん」

「いやダメだって、のぼせるから、普通にあぶな、いっ……」


 ああ、まったくもってこの美女はお困りだ。


 別に、私は嫌いじゃない。気持ちがよいことは好きだ。

 頭中の芯と呼ぶべき部分に電気がはしるような感覚と、この、ある意味は支配されているような感覚が、快楽の正体かもしれない。


 彼女が覆い被さってくる。

 私の乳房に顔を埋め、腕を深く動かして、私の全てを貪りつくそうとしている。


(あー……きもちぃー……)


 心を交わすことはその実、簡単なことだ。

 頷き続ければいい。

 否定にも肯定にも首を縦に振り、話を聞く素振りを見せていれば全ては片がつく。


 適当な風ではダメだ。

 だが真面目に意見をしてもダメだ。

 心を汲むという、その姿が何よりも大切で、心を交わす相手が最も求めているものは不純物のないシンプルな同意だけだ。


 果たして彼女と私は心を交わしているのか否か、というのは定かではない。

 私は彼女の言葉に頷いたことはなく、彼女は私の言葉の意味を理解していない。

 彼女のいう蝶と蛾の差異も分からないし私の煙草の香りを彼女は好んではいない。


 それでも、きっと、私と彼女には繋がっている部分がある。


 別に恋仲にもないし、ただ快楽を求め貪りあうだけの間柄だと私は思っている。

 所詮は女と女。本当の意味で一つになることは出来やしない。

 先のない関係性だし、やはり愛を持ち寄ることは無意味だとすら思う。


 ただ、私を強く抱きしめる彼女も、彼女を強く抱きしめる私も、最早鍵の意味を失った私の部屋で過ごし、外に出ようともしない。

 それが一つの、言葉にすらしたくないが、形として提示できる答えなのかもしれない。

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