四
ふと、私は眠りから覚めた。
外は暗がりで夜だと理解する。
気だるげに起き上がり、傍にあった時計を見て日を跨いだ時刻に欠伸を一つ。
「あれ? 起きたんだ、おはよう」
暗闇に声が生まれた。
少々の驚きを抱きつつ私は自分のベッドへと視線をやる。
そこには出ていった筈の美女が横になっていて、まるで家主のように当然の様だった。
若干の苛立ちを抱きつつ、私は立ち上がると暗がりの中を歩き、冷蔵庫からアイスコーヒーの入ったボトルを取り出す。
「あ、ねえねえ、私にもちょうだい」
同じく起き上がった彼女もやってくる。
纏わりつくように背後に立ち、私の腰に手をまわしたところでその腕を止める。
彼女を無視し、ボトルをそのままに、私はコーヒーを注いだカップを傾けた。
内容を啜る。静かに咽喉が上下する。
その様子を彼女は見つめ、私の咽喉に指を這わせた。
「本当に無関心だよねぇ、椿ちゃん。何も訊かないの?」
「取りあえず指が邪魔。折るわよ」
「ふーぅ、恐ろしい美女だこと」
何も訊かないのか――逆に何を訊けというのだろう。
何故に帰ってきたのかだとか、今夜の予定はどうしたのかとか、そんな普通のやり取りでもすればいいのだろうか。
心底面倒臭いことだ、それらは。
オチがどうであれ、結果として彼女は今夜この部屋にいる。
それが分かっているのなら経緯はどうでもいいだろう。
「いやさ、情事に勤しんでたら相手方の彼女さんがきちゃって。あわや大戦争ってな訳で逃げてきちゃった」
「ふーん」
所謂、修羅場というやつだろう。
そういった状況は本当にあるのだなと少々の関心からの感想を抱く。
煙草に火を灯し、シンクに背を預けるようにする。
対面する位置に彼女があり、真正面から彼女が抱きしめてきた。
腰にまわされる腕と接近する彼女の顔、それから香り。その全てに違和感がある。
それも当然というか、何せ先まで情欲に浸っていて、例えば妙に火照った肌の具合や、節々から漂う唾液のニオイだとか、余計な情報が多い。
それらを観察しつつ私は煙草を燻らせる。
そんな私の反応に彼女はカップを奪うと残っていた内容を飲み干し、空いたカップを適当に置いた。
「ねえ、エッチしない?」
その言葉に私は何の反応も示さない。
別に初の誘いでもなかったし、半ば襲われるような状況になった時もある。
その度に無視をしたり適当に殴り飛ばしたりして回避してきた。
だが今夜の彼女はまるで狩人のそれで、私は腰にまわされた腕を、さてどう対処しようかと悩んだ。
「セックスったって、何で?」
「んー、消化不良っていうかさ。あのね、私って結構性欲が強いみたいで。そういうのもあって、もうすこーし気持ちよくなりたいっていうかさ」
「自慰でもすれば?」
「いやいや、恋人が目の前にいるのにソロプレイは寂しすぎるでしょ」
「いや恋人じゃないから」
私は当然のようにいう。
だが彼女は首を傾げると、再度こういった。
「んーん、恋人だよ。椿ちゃんは私の大切な彼女だよ」
ああ、お決まりの病的なやつかと紡ぎかける。
けれど、そんな私の言葉を遮るように、彼女が一つの真実を私に突き付けた。
「だっていつも鍵、あいてるもん」
「――……」
湿気た空気に煙草が馴染み、まろみを以って部屋に溶けていく。
私は香りを聞きつつ、彼女のその言葉に挙措を失う。
「それが椿ちゃんの答えでしょう。無関心で片づけてもいいと思うよ。でも鍵って外界との途絶の為にあるんだよ。他者との関わりを完全に断つものなのに」
私は煙草を吸う。
火種が赤熱し、煙が私と彼女の合間で揺れる。
「別に私のこと好きじゃなくてもいいよ。私にとって椿ちゃんは唯一無二の存在で、何よりも綺麗な蝶々だから。だから扉が開いているっていう、それだけでいいよ」
私の口元の煙草を彼女が奪う。
それを返せといわんばかりに手を伸ばすけど、彼女は私の手を空いた方の手で握りしめた。
「……返しなさいよ。煙草」
「……その煙の中が、椿ちゃんの境界なんでしょう」
「いいから、早く返しなさいよ」
境界線を持つのは誰しもがそうだろう。
現代的に言えばパーソナルスペースであって、人と人の距離感というのは踏み込み過ぎないぐらいが丁度いい。
だが距離が近づけばその境界線は曖昧になる。
私にとって紫煙こそがその範囲であり、湿気た空気と共に煙が溶けていくこの部屋こそは最後の砦だ。誰も踏み込ませないし誰も近寄らせない。
私は煙の中でしか私を確立出来ない。
そしてその火を越えて、私は私に到達することも出来ない。
この部屋しか、この煙の中にしか私の居場所がないからだ。
ここにしか作ってこなかった。
他に余計なものは全て捨てたり、関心を失くしたり、面倒臭がって見ないことにしてきた。
だからこの部屋が、この煙草と湿気た空気が私の境界で、私だけの世界だ。そんな私の境界の中へとやってきた人物を私は心底に苦手としていた。
そもそもが煩わしいし病的な性質だ、まともに相手取ることが馬鹿馬鹿しくなる程にその人物というのは私の出会ってきた人間の中でも特異な存在だった。
何度も拒絶を繰り返した。
何度も彼女が作る料理をゴミ箱に捨ててきた。
彼女が料理を作り置きする理由というのは至極に単純なもので、それは痕跡を残すことにある。
まるでここにはもう一人、私以外の人物がいるかのようで、冷蔵庫を開ける度に存在を誇示するように冷めた料理がある。
それがある時は決まって彼女がいない時であり、その時こそに私は完全な孤独を取り戻せるのに、だのに冷めた料理が私の孤独を否定するように、介在するようにある。
殺意すら抱く程にそれの効果は絶大で、この煩わしい湿度と煙草のニオイで満ちた孤独の空間が侵食されていった。
だから拒むべく、誰の存在も認めないのであれば、私は施錠するべきだった。
完全に世界と己とを分かつべく、孤独を確立するべく、鍵を掛けるべきだった。
それなのにいつだって私の部屋の鍵は開いている。
他者を含めた世界を拒絶しているのに私はいつだって窓辺で煙草を吸い、雨垂れの景色に視線を送って、灰色の世界の中、私の部屋から出ていく人物を見下ろして、その行き先を見つめながらに紫煙を燻らせる。
明日にはまたご飯が作り置きされるのかもしれない。
それを毎度のように私は捨てて、背後にやってくる質量と熱とに煩わしさを覚え、窓辺に寄り掛かるのかもしれない。
「食べたくないから捨てるんじゃなくて、また作って欲しいから捨てるんでしょう」
ゴミ箱を指差して彼女は笑う。
分かりきっている癖に彼女は毎度、料理を作り置きして言外に私に伝える。
“また明日も作るね”と、私の殺意を煽るかのように存在を誇示し、私が当然のように料理を捨てると満足のような笑みを浮かべる。
“捨てなきゃ気が済まないくらい他人に意識を向かわせる”—―それが彼女の真なる目的だ。
そもそもとして捨てる必要はないし、仮に幾度も侵入する彼女に殺意を抱こうとも、興味を抱かないほどに無関心であるならば、どれだけ境界を浸食されようが冷蔵庫の中を占拠されようが気にもせず、私は次第に腐っていくだろうそれらを煩わしく思いながらも放置するだろう。
何せそれが私という人間なのだから、固執する程に何度も捨てることをする必要性などありはしない。
それでも捨てなければ気が済まないと思うのは彼女という存在を無視できないからであり、それはつまり、私の中において彼女という存在が一人の人間として確立されていることを示唆するのだろう。
目の前の美女は笑っている。
それは決して嘲りによるものではない。
それは慈しみを抱くかのような、とても柔らかくて優しいものだった。
仮に憎らしい程の笑みを、それこそ勝者のように気取ったものであったり、愉楽を思わせるような歪なものであれば私は人生で最大の力を振り絞って殴っただろう。
だがその笑みは違う。
それは安堵をも思わせるような私に向けられた感情だ。
孤独に憧憬を抱き、孤独に羨望し、孤独を堪能すべく私に迫ったはずの彼女はその実で私という孤独主義者に問いかけ続けていた。
その境界の内に己がいてもいいのかと。
あなたの傍で孤独を見守ってもいいのかと。
そこに真なる孤独なんてある筈もない。
含めて他者の存在がある時点で境界というものは機能をしなくなる。
何せそこが私の唯一の居場所であり、私の全てだからだ。
それでも彼女は問い続ける。
作り置きの料理を捨て続ける私に対して幾度と問う。
この繰り返されるやり取りを終えたいのなら、夜に飛ぶ己を繋ぎ留めればいいと。
鍵を掛けるまでもなく、それはとても簡単なことだった。
何せいつだって彼女は私にまとわりつき、その身体を押し付けて、何度も私の手の内に収まることを語っていた。
己という存在はそれ程までに身近で安易で、意思の一つで好きにできるのに、と。
彼女は幾度もそれを伝え、私は幾度もそれに気付かぬフリをしながらに、冷めた料理を捨てて夜に飛びたつ彼女を見下ろし続けてきた。
窓辺に垂れかかって、また明日もくるだろう彼女を見送るように。
「ねえ。好きだよ。椿ちゃん」
死ねばいいのに。
この女。
無理矢理に私の境界の中に入ってきて、私から孤独を奪うつもりなのか。
「大嫌いよ、あんたなんて」
「あっ――」
なら、いい。
無理矢理に入ってくるのなら、無視をしていても暴力を振っても意味がない。
だったらそうすればいい。
こいつを、この女を紫煙と同じようにすればいい。
いつものように、煙草に火を灯すのと同じだ。
邪魔な衣服を無理矢理に剥ぎ取って、組み伏せて、あとは煙を喫むことと同じだ。
「ああ、むかつく、本当に。このクソアマ」
「ふふっ……なら首でも絞めてよ、椿ちゃん」
燃える音がする気がする。
火炎を間近に見ている気がする。
ああ、と思った。
彼女が私を蝶と呼んだ理由が分かった。
羽虫が誘われるように、火炎へと身を投じるかの如く。
私は彼女へと沈み、その美しさを見て、蝶のようだと、そう、思った。
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