三
境界線を持つのは誰しもがそうだろう。
現代的にいえばパーソナルスペースであって、人と人の距離感というのは踏み込み過ぎないぐらいが丁度いい。
だが距離が近づけばその境界線は曖昧になる。
恋愛事情は最たるものだろう。
例えば根底にあるものとして人は皆、相対的な存在であるということだ。
極論をいえば私とあなたが違うのは当然だ。
互いの産みの親は違うし、今に至るまで生きてきた経験から得た様々なものも含め、全てが一致する他人などいやしない。
そんなことはきっと誰にだって分かることだし、呆れられたりもするだろう。
では痴情の縺れとかいう言葉だ。
長く付き合いのある人間を他人と分かっていても許容出来なくなったり、含めてそういったシーンと直面する瞬間がある。
根底にある相対性に対する意識が希薄な証拠だ。
価値観の差異すらも曖昧になって“互いはとても近い距離にあり、きっと互いは理解しあっている”と根拠のないものを抱く。
そんなものある筈がない。
突き詰めれば他者との争いの原因は相違や差異であり、何故に分かってくれないのかと問う以前に、何故己は理解が出来ないのかと自問出来る人は少ない。
人は皆、違う生き物だ。
ただ同じ人間という種類なだけでしかない。
好きな色が違うように、見える景色が違うように、どれだけ親睦を深め愛を育み、長い道のりを共に歩もうとも自分と誰かは異なる存在だ。
その大前提を失うことさえなければ争わない。
納得は出来なくても理解を寄せることは出来る。
それがその人だからと答えに辿り着く。
だが腑に落ちないとも思う。
心のどこかで苛立ち、何故に互いは別の考えを抱くのだと思う。
攻撃的にもなる。
あなたが悪いのだと思う。
私をもっと理解してくれてもいいのに、受け入れてくれてもいいのにとすら思う。
そうなった時、果たしてどれだけの人が己を顧みることが出来るのかと思う。
あなたとその誰かは自分とは違う生き物だと思い出すことが出来るだろうか。
あなたのその考えを傲慢だと思わないのだろうか。
別に傷つくことを恐れるだとか傷つけることを恐れているとか、そういうことではない。
無駄だ、という話しだ。
その争いも諍いも、辿ればシンプルな答えに行き着くだろうに、何故に面倒な言い争いをして互いの理解を遠ざけてしまうのだろうと思う。
「はぁー……」
梅雨の空に煙が溶けていく。
窓辺に寄りかかり、煙草を喫む私は曇る空を見上げていた。
白けた室内に物は少ない。
小さなテーブルにベッドくらいで、適当に放り出されてあるドライヤーが床に落ちている。
脳内に溢れる感情論に対する糾弾はきっと、私自身が面倒な状況にあるからこそ生まれてくるものだった。
頭を掻き、幾度と煙を吸う。
曇った空を見上げ、微かに香る雨のニオイに大学をサボることを決めた。
「いつまでそうしてるつもり?」
背後から声がする。
振り向きもせず、そもそも反応もせず私は煙草を吸う。
そんな私の態度に据えかねる思いなのか、いやそもそもちょっかいをかけたい気分なのか、声の主は背後から身を寄せてきて私の顔を覗き込んでくる。
「……暑苦しいんだけど」
「そう? 気持ちがいいじゃない、肌の触れ合いって」
薄着姿の美女は遠慮もなく絡みついてくる。
柔い肢体が私の肌に密着し背に豊満なバストの圧力を感じた。
この美女といえば面もさることながら身体も絶品だった。
世の男共からすれば垂涎する程の魅力があるだろう。
背後から抱き付かれる形の私は振り払おうとするが、それを手慣れたようにいなす美女といえば私の口先にある煙草へと指を伸ばした。
「本当、気安く触れて当然のようにいるけどね、あんた普通に考えて異常者の行動だわよ」
その指をはたき落とし、私は寄せられる顔面を押しのけると、お返しにと煙を近距離から顔へ吹きかける。
「うわくっさ! もうさぁ、やめてよね、髮にまでニオイつくんだから!」
「なら近寄んじゃないわよ。つーか出ていきなさいよ。ここは私の部屋であって、あんたの部屋じゃないのよ」
勘弁してくれと彼女は顔を顰めて文句をいう。
それに対して私は呆れながらにいう。
先の殴打事件から一週間が経過していた。
普通に考えて関係は悪化するどころか絶縁にも等しい所業だったろうに、彼女は私の暴力を喜び、どころか愛の告白めいたものまで寄越される。
当然に返事はノーだ。
そもそも同性での付き合いなど想像すらしたことがないし、恋愛なんぞまったくもって興味がない。
ましてや相手は重度にイかれた人間だ。持ち前の美貌やらは私には通用しないし許容出来る程の関係性だってない。
だのに、この女は私の部屋に普通のように入ってくる。
それは既に習慣化していることだった。
彼女の態度といえば当然のような風で、これの異常の程というのは実に横暴かつ身勝手であり、私の拒絶の意思など歯牙にもかけない。
最初のうちは何度か殴ったり蹴ったりしてみたけれども、この女にとって暴力は然程の問題もないようで、幾度の拒絶を受けても彼女は部屋にやってくる。
ここまでくると死神とか、そういった現象にも等しい。
怪異と呼んでもいいだろう。
結局、諦念に至った私は彼女を放置することにした。
そんな私の態度を了承と受け取ったかは不明だが、彼女は足しげく我が家に通いだし飯まで作るようになってしまった。
仮に事情や経緯だとか背景を知らない人物からすれば、絶世の美女が甲斐甲斐しくも従事し愛の言葉を囁きその日の飯を作る環境だと聞けば天国と勘違いするだろう。
しかし実態は大きく違う。
この超絶の美女の正体とは重度の異常者のそれだ。
そもそもストーカー行為を繰り返し、私の行動パターンすらも掌握し、行く先々では当たり前のようにそこに立っていて、この只今に至っては終ぞ部屋の中まで侵略を開始した。
果たしてこの事実を語ったところで信じる人物が如何程にあるかは不明だが、きっと大多数の人々は「何を馬鹿なことを」とまともに取り合ってはくれないだろう。
何せ彼女の美貌ばかりは否定が出来ない。
絶世だとか超絶だとか傾国だとか、そんな大仰な言葉が当然のように似合うくらいの美しさなのは否定のしようがない。
そんな美女がだ、どこの馬の骨とも知れぬ、それも暗い性格の厭世家の如く振る舞う社会不適合者に夢中だとか、更には情熱が行き過ぎた余りにいよいよ人様の家に勝手に入ってきて共同生活の真似事をして満足気にしているだなんていっても信じやしないだろう。
何故にこうも呆れるような状況になってしまったのかと後悔をすれども時は遅く、私はやはり参った表情のままに窓辺で煙草を燻らせて視線だけで彼女を見る。
(これ以上の何を求めるのやら)
私が彼女の愛に頷くことはないと分かっている筈だし、結果的に私の完全否定は叶わなかったとしても彼女には全てが揃っているだろうにと思う。
それこそ愛だの恋だのなんてものはこの美女にとっては掃いて捨てる程もあった。
「あ、ちょっと待って、メッセージきたみたい」
彼女は我が家に住み着いている訳ではない。通っているだけだ。
あれだけ思い切りのいい告白をしてきた訳だが、彼女の異常性、というか理解の及ばない人間性は同じ環境で生活するようになると染みだすように露わになってきた。
「ねえ椿ちゃん、明日くるの遅くなるかも」
「こなくていいわよ、二度と」
「そういわないでよ。あ、ご飯、冷蔵庫の中にあるから。それじゃいってきまーす」
彼女には恋人がいる。それも複数いる。
或いは恋人ではなく肉体関係のみもあるだろう。
彼女の携帯端末が鳴らない日はないし、文字のやりとりにせよ電話のやりとりにせよ多くの人々との関わりがある。
明日は遅くなるといっていたから今夜は泊まりだろう。
第何号の恋人だかセックスフレンドだか分からない誰彼とホテルだか誰ぞかの部屋で一夜を過ごすのだろう。
今時ならそれも普通なのかもしれないが私には理解が出来ないことだった。
忙しそうに支度をし、玄関を飛び出していった彼女の背を見送るでもなく、私は煙草をもみ消して台所へと向かう。
冷蔵庫の中にある作り起きの食事をゴミ箱へ捨て、適当なカップ麺を手に取り、お湯を注ぎ、いい具合になったらそれを啜る。啜りつつ、はてさて性の事情も含め、恋人とは如何なるやと思った。
「うんめー……カップ麺は人の産み出した発明品の中でも際立って偉業だわね」
別に彼女の口から恋人たちの存在を直接に告げられたことはない。
ただ彼女も事実を隠そうともしていない。
それが彼女なりの答えであり、彼女の示す距離感だろうと理解した。
恋人のあり方とは多くあるだろう。
別に私は彼女と恋仲にはないし、肌を重ねた夜もない。
だがそんな私に夢中の彼女は一方的にも恋人としてのアピールをしている。
歪に思われるだろうし、実際、そういった阿婆擦れのような所業を受け入れ難いと思う人もいるだろう。
しかし私は気にならない、というよりは、やはり興味が向かわないから、どういったやり取りを目の前でされようが知ったことではない。
彼女が勝手に部屋に入ってきて、どことなく漂う色香やら、事後に冷めやらぬ自然的にも振る舞われる媚態を前にしても煙草を吸うだけだ。
そんな私の反応こそが彼女が最も求めているものなのだろうと思う。
距離を掴む以前に彼女は私という人間が他者との関わりを嫌うと理解しているし、一方的に愛を囁くだけの自身が何一つ失う物がないとも理解しているだろう。
彼女はここを安全地帯のような、最も長くとどまれる止まり木だとしている。
多くの人々と関わり、それが恋だの愛だの以外も含め、疲労困憊となった際の、最後の砦のようにしている。
最早私は面倒が極まって追い払いもしなくなったが、それこそが最終局面であり、彼女はこれにて求めていた休息の宿を手に入れた訳だ。
「そういやお金どんだけあったかな……後で銀行いかんと」
そう、彼女は絶対的に有利で有効なカードを手中におさめた。
だのに彼女は寄ってくる。
この煙草と湿気た空気に満ちた部屋に毎日通って、私に身を寄せて、当たり前のように愛を囁いてくる。
そこから先に何もないと分かっているだろうに。
私が彼女を抱きしめるだとか、褥に沈めて愛を貪るだとか、そんな真似をする訳がないと理解しているだろうに。
「はぁー……やっぱりラーメンを食べた後の一服は最高だわね」
都合のいい人形を欲するならば残念ながらに私はなるつもりがない。
或いは呪いのように、彼女にとって他者の中に入り込む手段がそういったあざとさしかないのかもしれない。
それこそは恋仲という関係が彼女にとって一番手っ取り早い他者との関係性なのかもしれない。
それが故に私に急接近し、憧憬にも等しい孤独主義者の在り方を満遍なく堪能する為に彼女は私と恋人のような関係性を望んでいるのかもしれない。
それはどこまでも独りよがりのようにも思えて、或いは子供のように稚拙な風にも思えた。
そこには憐憫すらも生まれ、もしも私の考えることがそのままに当てはまるのならば、彼女というのはその実—―
「孤独な癖に孤独を恐れて、だのに孤独に焦がれて……あまりにも傲慢な奴だこと」
それは道化のようで、求める以前に何故に己を顧みないのだろうかと思った。
「……あいつ、今日にでも死なないかな」
そうなったら楽になるのにと思う。
面倒だった、心底。
殴っても無視をしても身を引いてくれない。
この部屋で翅を休めては夜の蝶になり飛んでいく美女――そんな彼女をどう相手取ればいいのか、最早私に術はなく、出来ることといえば窓辺に寄りかかって呟くくらいだった。
「……雨、ダルいなー……」
呟いて、私は項垂れて、いつの間にか降ってきた雨が口先にある煙草の火に直撃して、それが幾度も重なって火が途絶えた。
それを曖昧な瞳で観察し、満腹による眠気に抗うこともせず、私は湿気た煙草を吐き出すと床に寝転がった。
寝しなに届く雨音が次第に意識を溶かしていく。
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