二
結果的にいえば私の危機感や意識というものは足りていなかったのかもしれない。
「やっほ、津出ちゃん」
「はー……またかよ……」
例えば場所が大学構内であれ、どこぞの喫煙室であれ、或いは街中をブラブラと歩いている時であれ、彼女と遭遇する機会が増えた。それも週、どころか日に幾度ものことだ。
流石にこれは気味が悪いのを通り越して気持ちが悪い。
毎度会う度に彼女は悪戯っ子のように笑うが私の胸中には悍ましい感想しかない。
つまりだ、彼女は私をつけまわしている訳だった。
行動のパターンすらも把握しているのか、予想だにしない場所で彼女と会敵――敵だ、敵で間違いない――した際は素直に面を顰めてしまった。
この日なんぞは人通りの少ない夜道を歩いている最中に出現し、いよいよ犯罪者という単語が脳裏に過る。
「うっわ、凄い顔。今の心境当ててあげようか? “出やがったこのクソアマ”でしょ」
「……足すことの“死んでくれストーカー女”だわよ」
「わお、辛辣! ふふっ、折角の美人が台無しなくらい鋭い表情してるよ、津出ちゃん」
「はぁー……」
どういった趣味の持ち主なのかも不明だが、彼女のそんな行動は最早一月弱にも及んでいた。
こうなってくるとあからさまな無視は無意味だったし、かといってまともに相手をすると下手に調子に乗らせてしまう。
だから一言の感想を零すくらいで丁度いい塩梅といえた。彼女も私から寄越される罵詈雑言を毎度のやり取りとして気に入っている。
口から出た「死んでくれ」というのは本心だった。
これまで私の生活を脅かすだとか邪魔をしてきた人間の中で極北と呼ぶに相応しいのが彼女だった。
無理矢理のように絡んでくる鬱陶しさを自覚しつつも持ち前の美貌で可愛らしく微笑んで、上目遣いで謝辞を述べれば許されるとでも思っているらしい。
「今日はこの後どうするの? いつも通りに適当にプラプラ歩いたら帰宅?」
「…………」
「……ああ、煙草を買いに行くのかな。ご飯は? 何食べるの?」
この女の恐ろしさはここにある。
ここ、というのは率直にいうならば罪の意識を一切抱いていないというところだ。
自身の異常行動も、こうして他者のパーソナルスペースやらを浸食しようが、どころか相手の反応もお構いなしに寄ってくる様は普通に考えれば狂気だ。
だがその狂気は彼女の無邪気な笑みやら醸す空気感やらにより薄れ、寧ろそういったものすら受け入れて許してしまいそうになる。
勝者の立場であり、彼女は絶対的な強者だといえた。全ての都合は己こそが決めるものだとでも思っていそうで腹が立つ。
「なら殴るなりすればいいのにね」
その言葉に私は立ち止まり、殺意を抱いたままに彼女へと振り返る。
出来やしないと分かっている口ぶりだ。
その面構えは自然だが、全身から沸き立つ程に溢れて見えるのはこれまでの人生経験から得た自信だろう。
きっと誰もが彼女を御姫様のように扱ったに違いない。
この一カ月弱で私もある程度彼女という人間を知った。
彼女は人気者だった。
いつだって周りに人がいたし、それが同性であれ異性であれ皆が彼女を中心としていた。
惹きつける何かがあるのは私にだって分かっていた。
それは初っ端の邂逅からだ。ある種は魔性のようなものにすら思える。
彼女はいくつもの笑みを浮かべる。
無邪気なものも、歳不相応なくらい大人びたものも、かと思えば風が凪いだように涼しいものも浮かべる。
それは誰もが憧れるものだ。
多面性を持つのは人として当然だが、それの全てが通用し、しかも許される程の人間など数少ない。
幼気であれ妖艶であれ、対極にも等しい二面性を惜しげもなく披露する絶世の美女。その純白さに、或いはか黒さに誰もが羨望し、彼女の虜となっていく。
「……違うわね、言葉が」
「ん? 何が――」
そんな中心にいる人物がここ最近は私にばかり御執心だった。
取り巻きもいい気はしないだろう。
本当ならばこういった時間すらも彼女と共有し、酒でも飲みに行くだのと青春に明け暮れるのだろう。
その中に彼女も加わればいいのに、何故に私にばかり気が向かうのか、どうしてストーカーのような真似をするのか――なんてことは実際のところ、私には何となくのところで感じ取ることが出来ていた。
「殴ってほしい、じゃないの?」
「――……え?」
私の言葉に彼女は目を大きく開いた。それは驚愕のありのままに思えた。
何故に私に彼女の魅力が通じないのか、という問いの答えはとてもシンプルだ。
私は彼女の取り巻き共のように“彼女の下僕になるつもりはない”からだ。
「そんなに嫌? 孤独でいられないことが、他者と共にあることが」
彼女の心の奥に何があるかは分からない。
だが彼女の異常行動には必ず理由があり、彼女なりの答えがあり、それの明確な形は知れずとも感じられることはある。
ただ、そう、ただ、見える景色が違うだけだ。
私の目に映る彼女の姿や、挙動や、仕草だとかの映りが彼女の下僕共と違うだけ。
異常にも思える執着も含め彼女において私という存在は、或いは彼女自身の中にある哲学や信念、または信条と呼べるものに直結する異例であり異常にも等しいのかもしれない。
これまで彼女が出会ってきた人種というのは皆等しく彼女の下僕に成り下がり、その立場を当然のように受け入れてきたのだと察する。
大学の中でも、外で見かける時でも、彼女の周囲に群れるのは姫君に隷属するように媚び諂う人間ばかりに見えた。
そんな当たり前の日常の中で偶然のように出会った私という存在は、きっと彼女にとっては青天の霹靂だとか、今までに出会ったことのない特異な生命体にすら思えただろう。
得意の笑みも、柔らかく耳に心地のよい声も、甘く包み込むような薫香も、深く見通すような瞳も、その全てが私には通用しない。
だがそれは当然のことだった。
何せ私は孤独主義者であり、どんな人物を相手にしても関心を抱くことが出来ない。だから必然、私が彼女の下僕に成り下がることはない。
その事実を彼女も理解しているだろうに、それでも尚と私に接近した理由こそは実にシンプルなものであり、それこそは彼女が抱くであろう理想の形態—―孤独を当然のこととして生きる、正しく私のような孤独主義者の在り様を是が非でも瓦解させ、往々のそれらと同じく従属させ、己の在り方を一つの正しさと証明したかったからだろう。
彼女はいつだって愛くるしく笑う。
だのにその瞳の中に感情の色合いというのはない。
それを取り巻きの下僕共が知るか知らぬかは定かではない。
或いはそれを当然として彼女の御機嫌取りが如くに蝶よ花よと愛でるのかもしれないが、その光景を当然のこととし、自然なこととして受け入れているのであれば、何故に今も私にばかり固執するのか。
そして何故に今、私の言葉を聞いて瞳の中に感情の色合いが生まれたのか。
「無様ね。そうありたいと願うのならそうなればいいだけなのに」
大きく見開かれた瞳には爛々と輝く色とりどりの感情が混濁として見えた。
それは喜怒哀楽の全てを含み、果たしてどれが正解なのかは本人にすら分からないのだろう、彼女は狼狽えたように私を真っ直ぐに見つめている。
それだけで十分だった。
私は冷めた目のまま、いつものように煙草を燻らせて、紫煙を撒き散らして、抑揚もなく彼女に言葉を紡いだ。
孤独でいられないことを、他者と共にあることを何よりも嫌う彼女に向けて。
「……やっぱりね。津出ちゃんは……椿ちゃんは分かるんだね、蝶と蛾の違いが」
例えば燃える火に羽虫が集まるように、それは自然なことだ。
明々と燃え盛る火炎を前に人々は息を呑み、自然の生み出す力の、その神秘にも等しい物を受けるだけで理解する。
温かく力強い炎はきっと、人類史のみならず、この世を照らし続けてきた星の命の源にも等しいのだと。
その火炎に群れ、踊る羽虫は、きっと己から燃えるべく身を投じる訳ではない。
それこそは種としての性だとか科学的な根拠はあるだろうが、きっと、炎に身を投じるのは単純に“もっと近くに寄って触れたいから”だ。
では彼女こそはその火炎だろうか。
多くの羽虫を寄せ付ける力強い温かさなのだろうか。
私は煙草を喫み、煙の先にある彼女を見つめる。
「……どっちだろうと虫は虫よ」
拳を振り上げ、勢いを保ったままに彼女の顔面に叩き込む。
鈍い音がして倒れこむ音がする。
揺れる煙の先に鼻血を垂らして這いつくばる美女の姿がある。
その様を見ても私の胸の中に感想はなかった。
殴った方の拳の痛みにこそ意識が向き眉根を寄せる。
人を殴ったのは初めてのことだったけれども、これは好きではないと結論した。
殴った方も痛いからだ。相手の受ける衝撃やらストレスやら外傷はどうでもいい。
自分にもダメージが発生すると分かって、暴力は碌なものじゃないと学習した。
「うっわぁ、いったいなぁー……殴られるってこんなにしんどいんだねぇー……」
けらけらと笑う声がする。
大きく腫れた自身の顔に手を宛がい、ギャグでも垣間見たように大きく笑う。
その様子に私は何をいうでもなく、相変わらずのように眉根を寄せたままで、煙草を燻らせながらに背を向けた。
「ほらね、私は正しかった。椿ちゃんはね、蛾じゃないの。綺麗な蝶々だもの」
背後から立ち上がる音がして、声がして、それでも私は立ち止まらない。
もう、これ以上踏み込むつもりはなかったし、彼女との奇妙な関係も終わりにしたかった。
だから彼女が望んでいたであろう自戒を意味する打擲を以って完結する筈だった。
だのに、やはり私は、まったくもって足りていなかったといえる。
果たして彼女が人々を引き寄せる火炎なのか、はたまたその火炎に群がり熱を求める羽虫なのかは知ったことではない。興味もない。
その厚かましさだとか鬱陶しさからして火炎でいいんじゃないかと思う。
蝶と蛾の違いなんぞはさっぱり不明だ。どっちも同じ種なのは事実だから差異なんてものは呼び方の違いでしかない。それで終わりでいいだろうに。
けれども彼女は見つけてしまったようだ。
己が求める火炎とやらを。
ふいに背後から質量を感じた。
それは今も無様に鼻血を垂れ流す彼女の重さだった。
後ろから彼女が抱き付いてきて、その腕を回してきて、更には強く密着してくる。
その煩わしさに私は振りほどこうと、そして再度思い知らせてやろうと振り返るが、このやり取りの結末をいってしまうならば私はこの時点で負けていた。
「ねえ椿ちゃん。私たち付き合わない?」
「はあ?」
いつかの時と同じように口先から煙草の感触が消え失せる。
だがその刹那後にやってきた軟さと甘いような、ともすれば酸味を帯びた味に私は目を見開く。
それは鉄の味で、それは血の味だった。
やはり、私は孤独こそが似合う。
こんなにも面倒極まる人間なんぞは御免だ。
それこそ人の煙草を無理矢理に取り上げ、突然に口付けを寄越し、得意気な面をするような美女など、心底に、御免だ。
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