十二


「おーい、雲居さーん! 次が受継競争だよー! 早く準備を、って……何をしているんですか、伊東様」

「あらまぁ……あなたってばどうにも空気の読めない子よねぇ、蘇芳すおう屋さん」

「な、何をいうかは知りませんけども、こちとらはこの試合の結果によって雌雄が決するような瀬戸際なんですから、そうとなれば必死にもなりますよ!」


 そんな折、空気の読めない人物――ユリがやってきて二人の間に割って入った。

 フミは不機嫌そうにぼやくが、対するユリは知ったことではないと反論し、駆け寄ってきて瑠璃の手を掴む。

 そのままに立ち上がらせると引き摺るようにして瑠璃を急かし、今度こそは勝つぞと張り切った様子だった。


「あ、あの、失礼します、伊東先輩」

「ええ。頑張ってね、雲居さん。応援しているからね」


 連れ攫われる形となった瑠璃は慌ててフミにいうが、美女はやはり落ち着いたような態度で、柔らかな笑みを浮かべると手を振った。


 結局、瑠璃の中には葛藤と疑問とが残る形となってしまった。

 それの明確な答えは即座に出るものではないとしても、これでは問題を先送りにしているようにも思えて、己は何をしているのだろうと呆れの気持ちまでもが顔を覗かせる。


「それで、先のバレーボールは一体全体どうしたのよ?」

「え?」

「ほら、茫然としていて、まったく集中出来ていなかったでしょう? 今度もその調子じゃあ、いよいよ見ていられないよ、雲居さん」


 先導される最中にユリにそういわれて、恐らくこれが甲組の総意というか、皆の胸中にある感想なのだろうと乙女は察する。

 そうなるといよいよ己が不甲斐ないように思えて、一度立ち止まった瑠璃は己を見上げてくるユリへと視線を向ける。


「……やっぱりダメダメだったかな?」

「ええ、全くもってね。あれ程にぎこちない雲居さん、見たことなかったもの。まるで別人のようだわ」

「そう映るかぁ……まあ、そりゃそうよね……」


 或いは、皆が瑠璃へと向ける気持ちというのは期待と呼べるものだったかもしれない。


 竜虎とたとえられる内の、虎として親しまれる瑠璃という乙女は、入学から今に至るまで羨望の的であり、多くの雛達の憧れだった。

 そんな人物が手も足も出ず完敗した事実は率直にいえば受け入れ難く、普段の雲居様であるならばと誰もが口を揃えた。

 それらを今し方に理解した乙女だが、しかし相も変わらず胸の中も頭の中も漫然まんぜんとしている。

 それでも何とか誤魔化す為に、或いは皆の期待に応える形として笑みを浮かべ、背を真っ直ぐに伸ばす。


「お、少しはマシな風になったかな?」

「どうだろうね、少なかれ土俵に立つに足るように振る舞ってるつもりだけども」

「その気持ちを保ってくれたらよいのだけどね。兎角、これが雲居さんの出る最後の競技だから、頑張ってね」

「うん、頑張るよ、ありがとう……」


 見送られる形となった瑠璃は教師に指示され定位置へと招かれる。

 グラウンドを二周する内、最終走者という大役を仰せつかった瑠璃は、普段の調子であれば負けることはない。

 だが不安定なのは変わらずで、一応は体裁を保つ程度の余裕はあっても、やはり本調子ではない。


 人という生き物は気持ちの変化や考えの変化一つでこうも激変するものなのかと、やはり普段と比べるまでもなく現状は異常の極みだと思った。


「それで? まともに勝負する気概は?」


 隣にやってきたのは好敵手でもあるミツだった。

 佳人は先程の会話を終えた時と変わらずに不機嫌な顔付きのままだったが、ミツの台詞を聞いて瑠璃は不敵に笑う。


「無論、十分にあるわよ。そっちこそ逃げてしまわぬようにね?」

「ふん……少しばかりはいつもの調子に戻った、と」

「未だ本調子ではないけどもね」

「そんなの見りゃ分かるわよ、この阿呆」


 元より乙女と佳人は勝負をする取り決めであり、先のバレーボールに至っては夜での邂逅かいこうの際、瑠璃から申し出たことだった。

 それを適当に終えた形になってしまったことは非常に残念で、今になって罪の意識が芽生えた瑠璃は、自然と謝罪を口にしそうになる。


 ところがそれを制するようにミツは睨むと、シンプルな言葉を紡いだ。


「全部が終わってからでいいのよ、そういうのはね。今はこの瞬間に集中なさいな」

「……ははは。やっぱり勇ましいよねぇ、あなたって」

「そりゃ当然。何せ私は私であるのだからね」


 やはりミツという人間は好敵手に相応しい人物だと瑠璃は思い笑みが零れた。


 そんな最中に火薬の爆ぜる音がして、いよいよ受継競争が始まった。


 第一走者から足並みは総じて揃ったままで、勢いを保ったままに第二走者へとバトンが渡る。

 その内に怒涛の勢いを見せるのは甲組の選手で、現状、総合得点で劣る自軍の不利を是が非でも覆さんと必死の形相だった。


 瑠璃とフミは眼前を通り過ぎる第二走者を見送り、次に第三走者へとバトンが渡った。


 先の甲組の勢いに負けじと、今度は乙組の選手が悍馬かんばさながらに豪快に地を蹴り抜いて驀進ばくしんする。

 その速度と勢いを見て会場は一際盛り上がり、本日の大一番に皆は声を張り上げて拳を握った。


「次よ、雲居」

「ええ、竜胆さん」


 第三走者の両名の足が並んだ。

 そのままの速度を保ったままに両者はバトンを握る腕を伸ばし、それを差し向けられた瑠璃とミツが前傾姿勢を作ると、ほぼ同じ拍子で両者は受け継いで、二人は全く同じ速度、同じ歩幅で駆け出した。


「うわぁ、雲居さん! 頑張れ! 頑張れ!」

「ミツ様ぁ! 駆け抜けてくださいまし!」

「凄い凄い、拮抗してる! あの二人、やっぱり竜虎に相応しいわ!」

「どっちが勝ってもおかしくないわ! ああ、胸が苦しい、たぎる程に手に汗握るわね!」


 二人は並走するかのようだった。

 速度も歩幅も同じまま、まるで互いは示し合わせたかの如く、それは息の合った様子だった。


 意図した訳でもないのに瑠璃もミツも互いを横目で見合って、笑みを浮かべ合って、同じような言葉を零した。


「私が勝つわよ」

「いいえ、私が勝つ」


 それは囁きに等しい声量だったが、互いの言葉は確かに耳に届いていた。

 中耳ちゅうじに渦巻く風の音に紛れて応援の声や囃し立てる言葉がある。

 それらを耳にしつつ、二人の足並みは未だ揃ったままに最終コーナーへと差し掛かった。


 残るはコーナーを越えた先に伸びる直線のみだった。

 この直線を旋風つむじとなって駆け抜けた者が勝つ――二人の顔は鋭さを帯びて、歯を食いしばって、目を細めて、前傾の姿勢になる。

 そのままに二人は脚を前に出し、腕を振って、風を切って、今まさに旋風になる時だった。


「頑張って、雲居さん!」


 瑠璃はその言葉を数多の音の内から探り当てた。


 乙女の視線が揺れる。

 直線を睨んでいた顔は横へと逸れて、今し方己へと紡がれた応援の声の主を探した。

 それは先まで己と応援の主でもあるフミがいた位置だった。


 フミは今まで見せたこともないような顔で、まるで自分自身が実際に走るかのような、苦しそうな表情を浮かべていた。


 それを見た時、瑠璃の中の緊張の糸と呼ぶべきものが切れたような気がした。


 張りつめていた気持ちに僅かな隙が生じて、それは刹那の速度で乙女の全身へと広がって、末端の部分まで広がると、乙女の四肢の動きは鈍って、身体が一瞬程度硬直した。


「あっ」


 情けのない声と、足がもつれて地面へと突っ込んだのはほぼ同時のことだった。


 軽い衝撃の後に迫ってくる大地を見て、瑠璃は驚いて、その光景を見ていた観衆も、応援する雛達も、同じような声を発していた。


 一寸の後にやってきた痛みと、倒れこんだ事実とを理解すると、乙女は途端に冷静になって、己は大一番の土壇場で盛大に失敗をしたのだと悟った。


 それと同時、目の奥から自然と涙がいてくる。


 痛みは堪えられるのに、それは静かに伝って、乙女は顔を上げて立ち上がろうともがけども、混乱によるものか再度突っ伏した。


 周囲から様々な感情の波がやってくるのが分かった。

 それ等は失望だと直ぐ様に分かったし、全ては己の油断が招いた結果だと乙女は理解が出来た。


 それ等によっていよいよ惨めな気持ちと不甲斐なさに胸中が溢れると、ここで乙女の胸が張り裂けて、全てが濁流となって放出してしまいそうになった。


「どこを見てるのよ、この馬鹿!」


 だのに、そんな時に、乙女の頭上から大きな声がして、矢継ぎ早な息遣いが聞こえた。


 涙で霞む視界のままに瑠璃は顔を上げると、そこには今の今まで隣り合って全速力で走っていたミツがいた。


 ミツは肩で息をして、乱れた髪もそのままに、緩んだ鉢巻を適当に解くとそれを手に持ち、身を屈めて瑠璃の肩を引っ掴んだ。


「私と勝負をしているのなら! 私だけを見なさい、雲居!」

「っ――」


 それは怒りなのか、呆れなのか、悲しみなのかも判断のつかない表情だった。

 目の前に飛び込んできたミツの顔を見た時、瑠璃は先まで浮ついていた胸の内も、頭の中も、全てが正常に戻った気がした。


 ミツは泣きそうな顔をしていた。

 瞳の内には相変わらず深淵を思わせるような黒さと星々の輝きに似た煌めきが浮いている。


 だのに歯牙しがを剥き出しにして叫び、眉根まゆねを寄せて懇願こんがんするかのような眼差しをするミツを見て、瑠璃は、ミツが勝利を得られた状況よりも、己との勝負を取った事実を理解すると、再度涙が溢れてきた。


「腕を出してっ……」

「うんっ……」


 ミツは瑠璃を立たせてやると乙女の腕を取り、己の腕と乙女の腕とを鉢巻きで結んだ。

 盛大に転んだ瑠璃の両膝からは血が滲んでいたが、それでも瑠璃は構わずに一歩を踏み出し、また一歩を踏み出す。


 それを支えるのはミツだった。

 ミツは同じように瑠璃と一歩を踏み出す。

 互いの歩幅はバトンを受け取った時と同じで速度も同じだった。

 ゆっくりの速度で着実に二人は歩みを進めた。


 その光景を見つめるのは雛達や観衆の皆だった。

 それまでは先の熱狂すらも失せ、最早勝負になり得んと冷めたようなものだったのに、ある一人が小さく「頑張れ」と呟くと、それに呼応するかのように同じ言葉を零し、それはたちまちに波及はきゅうし、皆は瑠璃とミツの二人がゆっくりと、それでもゴールを目指す姿に大きな声を上げた。


「雲居さん! あと少しだよ! 頑張って!」

「ミツ様、しっかりと支えてあげてくださいませ!」

「頑張れ、頑張れ! あとちょっとだから! もうすぐだよ!」

「二人とも、頑張れー! 負けるなぁー!」


 瑠璃とミツは険しい表情のまま必死になって歩き続ける。

 見える先にはテープを持ち、今か今かと待ち構える教師陣や上級生の姿がある。


 誰も助けには入らない。

 それが無粋であることを皆が理解しているし、それが故に二人の勝負の行く末を見守ることこそが役割であると理解しているからだった。


 皆の声に背を押される二人は、今、ようやっとのようにゴールへと辿り着く。

 二人は同時に腕を伸ばして、同時にテープを掴み、それによって最後の種目は終わりを告げた。


「同着、同着! 一位は竜胆さん、そして雲居さんの二名です! 両者共に一位です!」


 その叫びに皆は大喝采で応えた。

 湧き上がる光景と賞賛の嵐を前に未だ瑠璃は涙を流し続けていたが、それでも隣にあるミツは不動に立ち、瑠璃を支えて、その鋭い瞳で瑠璃を見つめた。


「あなたって本当に間が抜けているわよね。ここぞという時に油断をしてからに」


 それはさげすみかあざけりかも判断がつかない。

 つかないが、しかし、きっとそのどちらでもないと瑠璃は受け取った。


 何せミツの顔には屈託のない、満面の笑みが浮かんでいたからだ。


 それを見た瑠璃は己の心が高鳴るのを感じた。

 熱が浮いてくるのが分かった。


 それはフミの時と同じように思えるのに、けれども決して同じではないとも心のどこかで感じていた。


「初めて見たわ、あなたの泣く顔。存外画になる程に見ていて悪くないわよ、雲居」


 瑠璃の脳裏に過ったのは先の恋人達だった。


 成程と思った。

 

 この瞬間に乙女は理解をした。


 ミツの笑顔を誰にも見せてはいけない――この笑顔を自分だけのものにしたいという思いを抱き、これが恋であり愛なのだと、瑠璃は悟った。

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