十一
梅雨も間近な季節に
マグノリアはすっかり散ってしまって、変わりに雛達の花咲いた声援がある。
午後の運動会の一幕、選りすぐりの一年生達が
白熱する空気には見学の大人達もが目を見張り、溢れんばかりの声援を受けて代表選手も全身全霊を注いだ。
「ミツ様! 今ですわよ!」
張り上げた声と打ちあがった球を捉え、地面を蹴り抜いたのはミツだった。
強力な速度と威力を纏った球を前に為す術はなく、敵陣地へと着弾すると球は数度跳ね上がり、その光景に審判は一本を宣言する。
「流石はミツ様ですわ、実にお見事な手際!」
「ええ、この調子であれば圧勝で終いですわよ!」
甲乙どちらの組からも声が生まれ、今し方加算された点数も含めてミツが指揮する乙組が圧倒する試合展開となっていた。
あと一本も入れば勝敗が決する状況だった。
だのに先からミツは不機嫌そうで、その表情には懐疑的な色も含まれていた。
佳人の睨む先、ネットを挟んだ位置には好敵手でもある瑠璃の姿がある。
アタッカーの位置に立つ乙女だが先から目立った動きはない。
どころか地に根が張ったように動きは鈍く、よもや体調不良だろうかと観衆を含む皆が心配の表情を浮かべている。
しかしミツの見る乙女の様子というのは、それとは違う、まるで集中のない呆けた姿に映っていた。
「……何をしているのかしらね、あの阿呆は」
呟きは誰に聞かれることもなかった。
果たして何があったのかと疑問も浮かぶが、それでも勝利を得られる好機であるならば乗じぬ訳もなかった。
佳人における勝利とは絶対的な執念を思わせる程に重要なものだった。
それは佳人の生まれも由来するが、やはり元来の性格が根本の理由にあたる。
兎角として再度打ち放たれた一球が頭上で飛び交い、それが複数回繰り返されると、再度ミツへと送球され、今一度高く跳びあがる。
狙う位置は敵陣地における虚であり、それは何処かとミツは刹那の内に目線を配る。
「呆けていたんじゃ、まるでお話になりゃしないでしょう、が!」
敵方における虚は最重要の位置にあると思われた瑠璃の足元だった。
よもやの判断と迷いのない球速を見て観衆は正気を疑う。身内からも驚愕の声が上がった。
しかし、それでもミツの判断に間違いはなかった。
「あっ……」
球は至極簡単に瑠璃の足元へと着弾し、遅れて反応した瑠璃はしかし、手足も出ない状態のままに間の抜けた声を漏らすだけだった。
決着の様子だった。
審判の掛け声と同時、勝利を獲得した乙組では歓喜の声と喝采が生まれ、甲組では雛達の項垂れた様子がある。
それらを見渡しながら、ミツはネットを挟む位置で茫然としている瑠璃を見た。
やはり先の短距離走の時の比べると他人に思える程、その様子は可笑しく映った。
単純にいえば全く集中をしていない。
放心とまではいわなくとも心ここにあらずといった具合で、その無様な様子に舌を打つと、佳人はネットを回ってきて瑠璃の眼前に立った。
「ちょいと、雲居。どういうつもりなのよ」
苛立った声で名前を呼ぶと、瑠璃は一度驚いたように背を震わせたが、静かに振り返ってミツを見る。
その顔はやはりいつもの瑠璃らしくはない、締まりのない顔だった。
「いや、あはは……あーあ、負けちゃった。やっぱり竜胆さんは強いね」
「……何をヘラヘラしているわけ? あなた、あれ程に私と争うことを熱望していたじゃあないのよ」
困ったように頭をかく瑠璃の態度が癇に障ったのか、ミツの声は先よりも荒い。
だが瑠璃はそれを耳にしても、或いは睨みを寄越されても口をまごつかせ、いつものような皮肉の一つも口にはせず、ただただ寡黙だった。
「そんな調子でいいのなら、ずっとそうしているといいわ。元より私が全て勝つのは当然なのだけどね」
啖呵を切られた瑠璃は、いつもならば即座に反論するだとか、負けじと大言壮語でも吐くのに、それでも反応は薄くて、やはり困ったような表情を浮かべていた。
こうなるといよいよミツは気味が悪くなり、まるで人物を違えたか、或いは他者の魂でも乗り移ったかと勘繰る程だった。
しかし非現実的な、または非科学的な妄想は即座に払拭され、いずれにせよ瑠璃は格下に成り下がるのを受け入れたのだと結論する。
「……残るは
「あ、うん。そうだね。最後の種目だったかな」
「最終走者なのでしょう、あなたも」
「うん。竜胆さんもだよね」
「そうよ」
受け答えはできるがやはりいつもの様子とは大きく違う。
言葉を交わす内、段々とミツの胸中の呆れが怒りに近いものへと変化していった。
よもやこの調子で最後の勝負に挑むのだろうかと疑問が浮かび、そうであるならば勝利は確実だろうとも思う。
だが不思議と燻る何かがある。
ミツにとって勝負の内容も過程も全ては無意味であり、勝利という結果が全てだと先の夜にも口にしていた。
そうであるならば結果の見えた勝負は非常に楽な部類で、故に
「雲居」
「ん?」
だのに瑠璃は、とてもらしくないことだが、何一つ心に躍るものがなかった。
何だかそれは一人相撲のような味気なさで、己はどうにかしてでも瑠璃に勝つ腹積もりだが、対する瑠璃は先までとは打って変わり、一切勝負に関心がないように見えた。
その事実をミツは不快に思い、瑠璃の胸倉を掴むと引き寄せて、近い距離にある顔を睨み付けて、鋭い声でいった。
「何があったかは知らないけどもね。この勝負はあなたが望んだことであり、私はそれに頷いたのだわ。そうであるならば、しっかりしなさいよ」
周囲は二人の雰囲気から争いの空気を察知するが、しかし暴力に発展する空気はないように思えた。
それはやはり、怨敵の対峙する光景だったが、先の試合風景を思い返すと何となくミツの胸中というのが理解出来る。
故に皆は張りつめた空気に少々の戸惑いを感じたが、誰も手出しや口出しはせず、静かに見つめ合う二人を見守った。
「……うん、分かってる。分かってるよ、竜胆さん。これは勝負なのだから、しっかりやるに決まってるよ」
「だったら何を先から呆けて――」
「次は。受継競争では。圧勝の景色で終わらせてあげるわよ。無論、あなたを置き去りにする程の圧勝をね」
ミツの言葉を遮る形で瑠璃は言い返して、そこで疎通を終えた二人は、
互いは互いの陣営に帰参するが、どちらの陣営でも我等が大将の様子にどうしたものかと手を
いずれにせよ次の競技で二人の勝負は決する訳だが、その間にある上級生の各競技に再度観衆は応援の声を張り上げ、熱中する景色を他所に、相変わらず瑠璃は不思議な感覚のままにあった。
「……ダメだなぁ。何でこう、集中できないのやら……」
頭を適当に叩いて芯と呼べる物を呼び覚まそうとするも、それに意味はなくて、ただ痛みだけが残る。
自分自身の状態が普段とかけ離れていることに瑠璃は気がついていた。
先のバレーボールでもそれは顕著で、身体は思うように反応しなかったし、己の役割を満足に果たせなかった結果には後悔しかない。
だが、それでも心は浮ついて、頭の中は底の抜けた瓶のように思慮も留まらず言葉も抜け落ちていく。
まともな思考回路を失ったのかと自問する最中、
「何だか調子が悪そうだったねぇ、雲居さん」
「伊東先輩……」
先のやり取りの際、予想外の一言を口にしたフミだった。
瑠璃はその顔を見ると心臓が跳ねて、自然と紅潮した顔を隠すように伏せた。
そんな態度にフミは首を傾げると、しかし自然と合点する部分に思い当たり、静かに座る乙女の隣に腰かけた。
「他人からの親切に不慣れだといったあなただものね。そうであるならば当然、他人から好意を直接に向けられるとどうすればいいのか分からなくて混乱しちゃうのねぇ」
「まるで知った風にいいますねぇ……」
「実際のところは?」
「……正しくその通りなのですよねぇ」
大きく溜息を吐いた瑠璃は顔を上げて、未だ赤い顔のまま横目でフミを見る。
「初心なのはよいと思うけど、それが過ぎると
「自分自身でも驚きですよ。何せ疎ましく思われたり
「悲しい環境よねぇ。こうも見目麗しい乙女に対する世の態度というのはまるで糞だわ」
「糞って、伊東先輩……」
「事実よ。特に幼い頃からの、それこそ人格形成の真っただ中にある時期に
そうでしょう、とフミはいう。
「けれども役得でもあるのよ。何せこうも可愛らしい意外な一面を見ることが出来るのだからね」
「ああ、然様で……」
「それに……先の誘いが決して冗談ではないのもまた、事実なのよ」
フミは瑠璃を見つめ、瑠璃はその視線から逃れるように顔を背けた。
しかしそれを逃すまいとフミが手を伸ばし、乙女の顔を捕らえ、それを優しい力で手繰り寄せると、互いは近い距離で見合う形となった。
「
「……それというのは
「まあね。恋人の関係を指す場合もあるし、それは当人達の望む形におさまるような、使い勝手のよい言葉かもね」
瑠璃は先の時にフミにいわれた言葉を思い出す。
己の稚児にならないか――そういわれて、その言葉が愛を告げる台詞に等しいことを悟ると、どうにも調子が狂ってしまった。
これまでの生涯で瑠璃は恋をしたことがない。
憧れの人物もいなかったし、それを求めたこともなかった。
だが、初めてその意思を直接に向けられ、それも超絶にも等しい美を誇るフミに告げられると不思議な感覚に陥る。
胸の高鳴りや顔の熱の理由が瑠璃は理解が出来ないでいた。
何故ならば相手は同性だし、そもそもの付き合いも短い。
それでもフミの声は耳に心地がよいし、甘い
「だからこそ、その勢いに身を委ねてもいいんじゃないかと私は思うのよ、雲居さん」
フミの台詞に瑠璃は驚いて顔を跳ね上げた。
まるで冗談のつもりのない顔をしていた。
それを真剣と受け取るかは難しいが、少なくとも彼女が口にした想いや提案というのが本心なのは間違いのない事実だろうと理解する。
では、果たしてそれに頷くべきなのかと瑠璃は思った。
乙女に恋心というものは分からない。
何せそれを抱いたことがないのだから、この胸の高鳴りや顔の熱が、往々のいうところの恋や愛の正体なのかも分からない。
ただ、フミの言葉に頷くことは、別に間違いではないのだろうと瑠璃は思う。
或いは、現状、身に起きている異常の答えを探す為であるならば、それは正しいことなのかもしれないとも思った。
「私は……」
顔の火照りを悟られまいと、フミの手の内から逃れようと瑠璃は思うのに、それを許さないのはフミの優しい力加減だった。
幾らでも振りほどこうと思えば可能なのに、それに至らないのは己の内で葛藤があるからだろうかと瑠璃は思う。
では、先々に対する免疫力がないのは重々自覚したとして、何故に己は葛藤するのかという疑問が新たに生まれる。
「今は、分かりません。ただ……お気持ちは嬉しく思います、伊東先輩」
疑問を抱いたままに頷くのはきっと、正しいことではないだろうと瑠璃は思った。
故に乙女はフミにそう告げて、言葉を寄越されたフミは少々残念な表情になると瑠璃の頬から手を退けた。
「ならば尚のこと、深く考えてみるといいわ。常に私のことを考える程に夢中になると、より理解が及ぶと思うから」
それは悪魔の囁きのように甘美な言葉で、では対峙する人物は、やはり魔性の人物かと瑠璃は思った。
更には合点する程の
成程と頷き、この人物にかかれば如何なる人間を相手にしようと簡単に手籠めにしてしまうのだろうと。
何せあまりにも魅力的で
まるで
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