その日の夜にミツは剣を振っていた。

 結局早引けはしたがどうにも剣を振るう気分でもなくなり、それから皆が寝静まる頃になっても眠気がないからと、苛立ちを払拭ふっしょくするように振るい続けている。


 場所は中庭の奥まった場所にある、凡そ人目のつかない位置で、ここをミツは秘密の修練場のようにしていた。


 死角にあたる位置で警邏けいらの人物であっても余程の警戒心でもなければ近寄ることはないと彼女は思っていた。


 静かな夜に空を切る刃は微かに鳴る。

 太刀筋は中々どうして様になっていて、一尺七寸八分ばかりの刃長はちょうと、特徴的な平造ひらづくりに二本が如実な軽量化を物語る。


 如何に平均より背が高い佳人かじんであっても身体のつくりは女性だし歳も未だ若い。

 本来ならば真剣を手にするような年頃でもなく、また様になるとはいえ成熟した腕前とは程遠い。


 それでも彼女の矜持を語るように、或いは家格を誇るように彼女の剣は見事な逸品で、こしらえ青貝微塵塗あおがいみじんぬり豪奢ごうしゃに尽きる。


 宛らに富豪の道楽とも呼べるが佳人は紛うことなき竜胆りんどう家の生まれで、そうであるならば当然ながらに得物も最上級の業物が相応しいとも呼べる。


 未だ途上であることはミツ本人が誰よりも自覚している。

 故に剣に向かう姿勢は真剣だったし、張りつめた表情に滴る汗が佳人の本気の心を物語る。


「はぁっ……」


 短く息を吐いて佳人は素振りを止めると天を仰いだ。

 星の転がる空に雲はなくて、月明りが真っ直ぐに落ちてきて、月光を受ける刃が淡く輝く。


 刀身を見つめ、佳人は一寸すこしばかり目を閉じる。

 胸中に何があるのか、そして何を思うのかは不明だが、それは祈る姿にも見えて、まるで絵画のようにも映る。


「お見事……というのかな、こういう時って?」

「え……?」


 そんな静謐せいひつに満ちた秘密の場所に他者の声が生まれて、ミツは驚きのままに振り返った。


 闇夜の奥からした声に佳人は聞き覚えがあった。

 それは馴染みとも呼べた。


 よもやこの時刻に、しかもいつかの夜と同じく偶然に鉢合わせるとは、これはやはり因縁や呪いのようだと佳人の脳裏に様々な感想が過る。


 それでも不思議とうとましさや不快の感情はなくて、静かな足取りで迫ってくる声の主の姿がはっきりと輪郭をもって現れると、先の間の抜けた感想も含め、この人物は普通とは一線を画す感性を持つのだろうと思った。


「何故に当然のように姿を見せるのよ、あなたという人は。ここは私の外に知る人がいない秘密のような場所なのよ……雲居くもい

「何故と問うならば同じように返そうかしら。何故に私が夜の散歩を楽しんでいると毎度のように出くわすのかしらね、竜胆さん」

「さてね……それこそいつぞやの時の返事のままに、因縁や呪いなのでしょうよ」


 姿を見せたのは怨敵おんてきにも等しい人物の瑠璃だった。


 静かな足取りでやってきた瑠璃は小さく笑うが、お決まりのような文句にミツはいきどおるでもなく、黙して刃を鞘へと仕舞う。


 静かな鍔鳴つばなりに咽喉のどを鳴らすのは瑠璃だった。

 乙女は、やはりあの夜に見た剣は実在していて、それを振るうミツというのも、間違いなく剣を得意とするのだと今更ながらに理解する。


 瑠璃は初めて日本刀を間近で見たが、そこに恐怖はなかった。

 それはミツのような佳人が振るっていたことも理由に含まれるかもしれないが、乙女には剣の恐ろしさが霞む程に美しさが勝るように映った。


「……綺麗な御刀ね」

「あら、価値が分かるのかしら」

いやいや。全く私には価値は分からないけれども、単なる刃物には見えなかったの」

「へぇ……」


 刃とは即ち他者の命を奪う凶器と成り得る。

 だがそれ以前として心身を育み、己を護る為の武器になるという捉え方が健全であり当然だ。


 廃刀令が敷かれて人々が日本刀を目にする機会というのは減ったが、明治の時代であっても庶民の間で日本刀を大切に保管したり所持していることも珍しくはなかった。


 それ程までに日本刀と日本人との関係というのは根深く、後の世界大戦でも軍刀は正式装備だったし、玉鋼が枯渇しようとも板バネでそれを模して支給される程に日本刀は重要な存在だった。


「価値なんてものはね、めいがどうであれ何であれ、当人がよいと判断すればそれでよいのだわ。所謂は大名道具だいみょうどうぐというように、持ち主にこそ格が依存するといえるのだからね」

「持ち主の格か。あなたらしい言葉ね、竜胆さん。ではその御刀の価値というのは?」

「さてね、もしかしたら大した程度ではないかもしれないし、いっても分からないわよ。けれども私にとっては私を律し、強くしてくれる大切な剣なのだわ」

「強くしてくれる……?」

「そうよ。私が私としてあるべくね。これは私の半身とも呼べる、私の宝物なのよ」


 ミツは鞘に納めた剣を手に持つと、傍に立つ瑠璃へと視線を送る。

 言葉の意味を理解しかねる瑠璃だったが、兎角としてミツは服装を適当にただすと再度疑問を口にした。


「それで……何故にここにいるのよ。散歩ならば適当に歩き回ればよいでしょうに」

「やはり辛辣しんらつな物言いね。変な音がしたから近寄ってみたらあなただったという、それだけの状況ではないの」

「……あなたね、異常があると分かって、何故に不用心に近寄るのかしら。先日の夜もそうだわ。表の方から愚直のままに出てきたといっていたわよね。よもや今回もそうだとでも?」

「さ、流石に一度、コケにされているからね。そりゃ学習しますとも。当然に裏の方から出てきたわよ」


 威張った風な態度だが問題はそこではないとミツはいいかけて、いやさ何をいっても理解には及ばないだろうと結論するとミツは呆れのままに嘆息たんそくする。


 そんな反応に瑠璃は文句を口にしそうになるが、しかしそれを堪えて大きく息を吸い、それを吐く。


「……不思議よね。昼間に出会えば私達って毎度のように憎まれ口を叩きあうのに。だのに夜に二人きりで会うと、それが馬鹿馬鹿しくなる気がするのよ」

「元よりあなたが素直に私のいうことに頷いていれば、面倒な問答もなくなるのよ、雲居」

「そんな人物がよいと思うの?」


 問われたミツは鋭い双眸そうぼうで瑠璃を見る。

 当人といえば澄んだような顔をしていて、そこに試すような素振りはなかった。


「さてね、あなたの人品じんぴんなんてものには興味はないけども。それでも面倒というのは言葉のままに鬱陶しいのだから、黙って従ってくれた方が楽なのだわ」

「ふふ……嘘ね。まるでらしくない台詞だわ。先の夜にあなたがいった言葉なのに、それを当人が忘れたとでもいうのかしら、竜胆さん」

「あん? 何よ、私が何をいったって?」


 笑った瑠璃は適当な場所に腰を落ち着かせ、大海を思わせる深い碧の眼で瑠璃を見た。

 対するミツは嘲りにも思える言葉に眉根まゆねを寄せるが、瑠璃は構わずに言葉を続けた。


「〈生きる上で重要なことは己の意思とそれを貫き通す信念〉……そうでしょう?」

「あら……馬鹿だ阿呆だと思っていたけれど、覚えは悪くないようねぇ、雲居」

「そしてその憎まれ口。やはりはらの黒さばかりは誤魔化しが効かないわね、竜胆さん」

「口が過ぎるわね、何をそうも得意気に笑って。憎らしいにも程があるわよ」

「だって毎度のようにあなたは勝った気取りじゃない? こういった明確な勝ちというのは気持ちのよいものよねぇ」

「はん、いってなさいな……」


 言い合う二人に昼時のような剣呑とした空気はない。

 言葉はどれをとっても辛辣だが、それでも二人の顔には笑みがあった。


 それは互いの性格をよく知るが為に浮かぶもので、つまり、この言葉の応酬は喧嘩ではないし、それは二人における挨拶の程度のやり取りだった。


 これを平和な意思疎通と解釈する二人の性格は難儀にも程があるが、それでも二人には、不思議とこの感覚が心地のよい風に思えた。


「あ、そうだったわ。ねえ竜胆さん。あなた、運動会には出場するの?」

「運動会? 何故に?」


 唐突な質問だったが意図を理解しかねて問い返すミツ。

 少しばかり思案する素振りを見せた瑠璃は内容を整理しつつ言葉を紡いだ。


「ええと、じきに前期の運動会があるでしょう? 運動が得意なあなただから出るとは思っていたんだけども、けれど幾らかの生徒は御家の意向もあって欠場すると聞いたのよ。私としては、あなたの性格上、如何に御家から云々と命令されても頷かないように思っていたから、どうなのかなって」

「……何故に私が出場するか否かをあなたが気にするというのよ?」

「え? ダメかしら?」

「ダメとかじゃなくて、意外なのよ。だって普段から私達は怨敵のように対峙するのだから、普通、そういった競争や競技では邪魔だとか疎ましいと思うでしょうに」


 ミツは特に感慨もなくそういう。

 それは卑下ひげした台詞にも受け取れるが、ミツの胸中にそういった思いはない。


 この言葉の中にはミツの生まれ育った環境の全てが内包されていた。

 障害となるような敵は排除して然るべきというような、徹底した合理主義だった。


 竜胆家の末女が何故にマグノリア女学校にやってきたのか――真相は誰にも知る由はない。

 だが名の知れる家格であるのは事実。


 多くの問題や理由があるのだろうというのは瑠璃も何となくのところで察していたが、実際にそれをミツ本人が語ることはない。

 ただ、先の台詞というのはミツにとっては自然と生まれるような感想であり、それを疑問に思うことこそが異常のようだとすらミツは思う。


「意外かぁ。そうだなぁ、まあそう思うのも当然かもしれないし、実際、私達の関係性というのは、友情のそれとは違うでしょうけども……」


 ところがその台詞を聞いた瑠璃は、特におののくだとか呆れるだとか、ましておぞましい感想もなく、言葉を言葉のままに受け取り、しばし悩む素振りをする。

 そうして少々唸ると、乙女は瑠璃を真っ直ぐに見つめたままに口を開いた。


「だってあなたがいないと詰まらないじゃないの。普段から言い合うだとか、対立する間柄だけど、それというのは怨敵でもあるけど……好敵手でもあるということじゃない?」

「好敵手……?」


 最初、ミツは何をいっているのだろうと不思議そうな顔で、その顔を見ても瑠璃は笑いもせず、当たり前のように言葉を続ける。


「そう、好敵手。別に圧勝するというのも悪くはないと思うけど、折角の競争であるのだから、そうであれば己と同じくらいの力量を持つ人物と競い合ってみたくはならない?」

「……何故? 勝つことにこだわりがないとか、敗北主義的な思想ではないのでしょう?」

「それとは違うよ。結果的に負けたとなれば、それは当然に悔しいけどさ。それでも全力を出す時というのはいつだって脅威となる存在がある時でしょう?」

「ますます分からないわね……あなたは何をいっているのよ」

「ええと、うーん、だから……そうだ、つまりね竜胆さん。それっぽい言葉や理屈やら、色んなものを全部吹っ飛ばしていうとさ」


 一度言葉を切り、瑠璃は真っ直ぐにミツを見たままにいった。


「あなたと戦いたいという、ただそれだけのことなのよ」


 その言葉にミツは言葉を失くし、あまりにも理解し難い目的に呆けた顔になった。


 瑠璃は勝ちたいといった。

 全身全霊を賭す程の争いがよいともいった。

 だのにその本質というのは勝利への執着ではなく、己と同格の能力を持つ人物と真正面から戦いたいという、勝利を度外視した目的だった。


 上流階級に生まれた人間の多くは絶対勝利を徹底的に教育されるのが当然だった。


 如何なる手段を用いても負けることだけはあってはならず、仮に人道にもとる程の悪辣あくらつな所業だろうとも勝てねば何の意味もないと見做みなされた。


 だのに、瑠璃はそこに執着はないし、勝った負けたは結果でしかなくて、当然勝てるならば勝てた方が嬉しいが、何よりとして勝負の場に立って正々堂々と向かい合うことこそが最重要だといった。


 それを聞いてミツは言葉を探し出せないでいた。


 例えば甘ったれの小娘だとか、現実を知らないガキだとか、幾らでも罵倒の台詞は浮かぶ。

 しかしそれらは適当ではないように思えて、更には考えの違う思想に対して、何を正義が如く悪辣な所業だとか人道に悖る真似を誇れるのだろうという気持ちすら生まれた。


 結果的に勝てるならばそれでよい――果たして本当にそうなのかとミツは思い、それが故に言葉を探せずにいたが、それでも固まっていた顔を動かして、唇を震わせた。


「……甘ちゃんにも程があるわね、あなた。お気楽だわ」

「またそうやって馬鹿にして……そうはいえどもね、どうにも歳の近い少女達というのは運動の苦手な子が多くて――」

「出るわよ、運動会」

「……え?」


 ぶっきらぼうな物言いだったが、その台詞に瑠璃は聞き返すように首をかしげた。


「出るといっているでしょう。当然に我が家の意向としては運動会なんて見世物にも等しく、淑女足らんというものだけどね。何故に私がそれに屈服せねばならんというのよ」

「ははは。凄い物言いねぇ」

「当然でしょうよ。私は私の意思を絶対とするのだから、まして競争だというのだから、それに背を向けることは即ち敗北を受け入れるのと同じではないの」

「……負けるのは嫌だ、と」

「ええ、当たり前だわ。あなたね、雲居。勝ち負けは問題ではないというけどね、勝ちに執着なさい。だから毎度私に言い負かされるのよ、この間抜け」

「間抜けとは酷いわね、別に負けたくて負けている訳じゃないし、勝利を勝手に宣言しているのはいつだってあなたじゃないの」

「それすらも許すなといっているのよ。そういった隙があるからあなたはダメなのだわ。それでよくもまぁ好敵手だといえたものね、ああ恥ずかしい」

「何もそこまでいわなくたって――」


 憤りのままに立ち上がり、詰め寄ろうとした瑠璃の唇にミツの人差し指が触れた。

 優しく宛がわれたそれに一寸すこしの沈黙を挟み、面白いような笑みを浮かべたミツは顔を寄せて、その大きな瞳で瑠璃を見つめながらにいった。


「だからこそ……油断はダメよ、雲居。私と争いたいというのであれば、それは常に全力でなければ。それがあなたのいう好敵手なのではないかしら」

「……普段から余裕綽々なあなたがそれをいうの?」

「ええそうよ。さもなければ勝負にもならないくらいに、互いの差は大きいのだからね」

「あっきれた、こうも傲岸不遜が極まると最早賞賛でも贈りたくなる程よ……」

「あら、そうであるならばそれもまた勝利なのだわ。あなたは負けてばかりねぇ」

「だからそれはあなたが勝手にいっているだけでしょうに」


 けたけたと笑うミツは、まるで昼時の面倒や苛立ちが嘘のように晴れていった。


 果たして苛立ちの原因とは何だったかと思い返せば脳裏にフミの顔が過る。

 ついで会話の内容すらも思い出されるが、今になって問題の張本人が目の前にあることに気がつくが、しかし憂いや心配のような気持ちは全くといっていい程に湧かなかった。


「まあ、あなたなら有象無象の愚鈍を相手にしてもどこ吹く風でしょうね」

「へ?」

「別に何でもないわよ。そもそも心配を寄せる必要もないわね、何せ怨敵なのだから」

「……何を勝手に自己完結しているのかは不明だけども、取りあえず失礼な物言いなのは分かるわよ」

「あら、一応は理解できる程の頭はあると」

「あのね、私の方があなたより頭がいいのよ? 聞いたけどもさ、あなた、多くの授業をサボタージュしているっていうじゃないの」

「勉学なんてものは暇な連中のやることよ。私は技能を磨きたいだけだもの」

「そんな調子じゃいつか苦労すると思うわよ、竜胆さん……」

「そうなったらそうなったで、その時になんとでもするわよ」

「……なぁんか含みのあるいい方ね。実力でなんとかするのでしょうね?」

「さてねぇ。実力の内にはきっと、御家の権威も含まれるでしょうから、何とでもなるんじゃないかしら」

「悪い考えだなぁ。とても御家の意向に反発しているようには見えないわよ……」

「利用する時は利用する。これもまた術よ。覚えておくといいわ、雲居」

然様さようで、竜胆様……」


 夜半に出会った二人は、明くる日にもなれば、また毎度のように言い争う光景があるだろう。

 互いに突っかかって、文句をいい合って、誰かの制止がなければ延々と続け、終いには教師方から説教を頂くのだろう。


 それでも夜に出会う二人は、互いに憎まれ口を叩きあうのに、そこに憎しみや怒りはなくて、互いの意識はこの夜から怨敵から好敵手という立ち位置に変化した。


 瑠璃の言葉にミツは納得した訳ではない。

 勝てぬ結果に意味はないとミツは思っているし、武士道の精神のように語られたところで負けた先に待つ未来は闇だけだろうという諦観ていかんもある。


 けれどもミツの中にあった筈の勝利への執着はこの夜に薄れたのは事実だし、敵とも呼ばず友とも呼ばない瑠璃の好敵手という言葉が、ミツは結構、気に入っていた。


「あ、ところでさ、竜胆さん。バレーボールは得意?」

「バレーボール? 別に苦手ではないけども――」


 それでも、二人は明日からも同じように喧嘩をするだろう。

 それは約束事のように、或いは因縁と呼び、呪いと呼ぶこともできる。


 ただ、二人はそれを気味の悪い関係性だと思うことがなくなった。

 何故ならば互いは互いを好敵手と認め、その言葉を思い出す度に、この夜の情景が瞼の裏に浮かぶからだ。

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