ミツはこのままに医務室で一日を過ごそうとかと考えた。

 どうせ後の授業に出たところで先の騒ぎが続くのは明白だし、巻き込まれる形で己が比較の対象に挙げられるのは御免だった。

 そうなると実に面倒で、やはり残る授業の全てに顔を出す気力が削がれる。


 では剣でも振るかと考えると、成程妙案だと佳人は納得する顔になった。

 残る授業はまだあるし、同室の人物が帰ってくることもないと佳人は思う。

 ならばと保健婦の方には適当に腹痛だとかと理由を述べることにして、サボタージュの大義名分でも頂こうと結論する。


 やがて一階にまで降りた佳人は、少しの距離にある医務室が目に入り、迷いのない足取りでそこを目指すべく再度歩みを進めようとした。


「こら、伊東さん! お話は未だですよ!」

「いやいやもう十分です、さようならばこれまで。失礼いたしますわ」


 そんな時だった。突然に階上から大きな声が聞こえて、次いで足音が聞こえた。

 その足取りは次第に近付いてきて、やがて階段へとやってくる。

 音量は段々と大きくなり、接近する音を聞いてミツは視線を階上へと向かわせた。


「あら……あなたは噂の」

「……これは、どうも」


 駆け降りてきたのは先程連行された筈のフミだった。

 一部始終を見ていた訳ではないが、先の喧騒の内にフミがあることを知っていたミツは、よもや説教から逃げおおせるとは中々に問題のある人物だと呆れた顔になる。


 そんな表情をするミツに笑みを浮かべたフミは、先までとは打って変わり落ち着いた足取りで階段を降りてきて、ミツの眼前に立った。


「へぇ、噂に聞いていたよりも尚のこと、この美貌は凄まじいねぇ……三女様、と呼んだ方がよろしくて?」

「……天下の伊東一家が嫡女ちゃくじょに様と呼ばせるのは忍びありませんわ。どうぞお好きに」

「ありゃま、また何とも完成された淑女レディだこと。では竜胆りんどうさんと呼びましょうかね」


 受け答えつつもミツは興味が薄いのか、その態度は拒絶に等しく、あまりにも素っ気ない様子にフミは面白そうにする。


「このツンツンした風も噂の通りかぁ。あなた、とても有名なのよ。ご存じかしら?」

「いえ……全く」

「そうかぁ。でも幾らかの人物達からは熱烈に会話を望まれたでしょう? その撃沈の様も複数聞いているけどね」


 会話の内容にミツは眉間に皺を寄せ、これはやはり面倒な人物だと結論した。

 対してフミは先と変わらずに愉快そうな笑みを浮かべていて、彼女は距離を狭めるとその手を伸ばす。


「私としては断然に雲居さん派だったんだけども。しかしこの美貌を前にすると揺らいじゃうなぁ」


 フミの右手が伸びてきて、それがミツの頬に触れそうになる。

 その瞬間にミツは反射のような速度で腕をあげると、フミの手を握り締めて真っ向から睨み付けた。


「……少しばかり無礼が過ぎるのではなくて。これもやはり極道者ヤクザだからかしら」

「それは僻目ひがめが過ぎるよ、竜胆さん。美しきは愛でたくなるのが人の性じゃあないの」

「だからといって断りもなく平然と触れようとするんじゃあないわよ、この蓮葉はすっぱが……」

「あらまぁ、先までの言葉遣いは何処へいったというのよ、恐ろしい口調ねぇ。いやさ、それが本性かしら」


 深淵しんえんを思わせる程の暗黒の内には星々の煌めきがある。

 フミは初めて対面するミツの大きく鋭い双眸そうぼうを見て、成程佳人とは正しくだと納得した。

 しかし世に知られる竜胆一族の末女が口にするには中々に悪辣あくらつな台詞で、そのギャップにフミは笑うと残る手を動かす。


「ふん、生憎にも私という人間はこういう風よ。それも聞いている噂ではなくて?」

「ええ、傲岸不遜ごうがんふそんな振る舞いに言動をよく耳にね。涙する乙女等も少なくはないのよ」

「あっそう、知ったことではないわね。それで、その残る手でどうするつもりかしら。もしも私に触れてみなさい、ぶん殴るわよ」

「おお恐ろしい。いみじくも婦女子の理想と語られる竜胆の血とは縁遠く思えるわねぇ」

「そうであればよかったけどもね。何にせよ躊躇いが生まれたようで安心だわ。お陰で殴らずに済んだもの」


 実際のところ、フミは残る手でミツに触れようと考えていたが、先の言葉を聞いてそれが冗談ではないと察すると大人しく手を引いた。


 相変わらず片腕は残るフミの腕を握り締めたままだったが、憎まれ口を叩くと適当にそれを解放する。

 見かけによらずミツの握力は強くて、軽く痺れる腕をフミは振るうと、やはり淑女足らぬと呟き、けれども面白い佳人ではあると零した。


「それで、あなたは数多の声を無視しているけれども。そうも他者と仲良くなることを拒む理由というのが分からないのよねぇ」

「仲良く? はっ、阿呆らしい台詞だわ。それの実態は大きく違うじゃあないのよ」

「あら、もしや潔癖なの? それともあなたには関心が向かわない内容かしら?」

「生産性のない関係に呆れているだけよ。まして逃避の術にすら思える程に、それというのは無様なのだわ」

「いうわねぇ。その辛辣しんらつな台詞と態度で、入学からどれだけの雛達を泣かせたのやら」

「それを耳にする機会が多いといったあなたはどれだけの文句を耳に入れたのやらね」

「ふふふ。それこそは抱いた数になるのだけども」


 まるでお道化た調子や台詞にミツは更に顔をしかめて「外道である」と呟く。


「そうも否定しなくてもいいじゃないの。己の住まう環境に同性しかいないのであれば、そういうことは必然的にも有り得るものよ」

「それが逃避の様だといっているのよ。ましてや稚児ちごですって? 阿呆らしい……犬猫でも飼うような感覚で何を偉そうに」

「……ああ成程。見下げたような物言いが気に食わんという訳なのね?」


 稚児――その言葉を聞いてフミは納得し、恐らくこの佳人はその意味も内容も、求める雛達の真意というのにも気がついているのだと結論した。

 対してミツには不快を如実に語る顰めた表情しかない。


「何にせよ、あなたが上級生の内で最も影響力を持つ人物であるというのは分かったわ。ならば全ての馬鹿共に伝えておきなさい。私はそういった誘いの全てを受け入れぬし断ると。故に全てが無駄であると」

「上級生をていのよい駒のように扱わないで欲しいんだけどもねぇ……けれども、お零れに期待する私みたいなのもいるんだから、もう少し我慢して欲しく思うのだけども」

「ならば今度きた人物には大きな痛みがともなうわよ」

「それというのは?」

「ぶん殴るといっているのよ」


 握り拳を作り、それを前に押し出したミツはあまりにも野蛮で、そして勇ましかった。


 フミはそれを前にして不思議と過る顔がある。

 それは瑠璃だった。


 元よりミツと瑠璃というのは入校初日から犬猿の仲だし、騒ぎの発端も殴り合いだったし、過る顔が瑠璃だったのは自然なことかもしれない。


 だが、フミは、夢想に描かれる瑠璃と、目の前に立つミツとを比較した時に、確かに似た部類ではあれども、暴力性は間違いなくミツの方が上だと判断した。


 かつ、可愛げと呼べるものがあるとすれば比肩ひけんするまでもないように思えて、少々思案する仕草をするとフミは静かに頷く。


「ならば仕方ないわね、雛達の顔が赤く腫れては哀れだもの。涙の程度なら可愛気があってよいのだけどね」

「ふん、阿呆らしい……兎角、二度と私にふざけた物言いをする人物がないことを願うわ。それではね」


 疎通そつうは終わりだとミツは告げ、身をひるがえして改めて医務室へと歩みを進めようとする。


「では雲居さんにするわね」


 その言葉に彼女は足を止めた。

 聞き慣れた名前だった。顔もよく知っていたし声だって聞き馴染みがある。

 何せ殴り合いをした仲だし、何度も口喧嘩をしている仲だからだ。


 その名前を出されたミツは足を止めたままで、けれども声を出す素振りはない。

 対するフミは彼女の反応も他所に言葉を続ける。


「実はねぇ、上級生の間でもいよいよあの子に声をかけようかという空気があってね。何せ金髪碧眼きんぱつへきがんという情報からまともに日本語で意思疎通がとれるかも不明じゃない? だから皆、どうにも渋っていたんだけどもね。しかしここ最近の様子からして日本語は達者だし学力も相当に高いときたら、最早誰からしても魅力に詰まった女性に映るじゃない?」


 フミはミツの前に立つ。ミツは再度眼前にやってきたフミを睨む。

 その瞳の内の色合いは変わらず、先までのやり取りと大きく変化することはない。

 真一文字に結ばれた口が何かを語ることはなく、彼女はフミの言葉を静かに聞いていた。


「だからね、誰もがあの子を己の物に……稚児にしたくて堪らないのよ。聞けば未だ懇意こんいにする人物はいないというし、同室の蘇芳屋の子も、恐らくは特別な感情を抱かない風だったし。で、あるならば……誰が先んじるか、ということになるのよ」


 故に、と彼女は言葉を続ける。


「私があの子を稚児にしようかなって。あの子、危うい風だし、訳の分らない誰かに手を出されるくらいなら、いっそ私の手の内で愛でてあげようと思うの。悪くない判断だとは思わない? 不埒な輩よりかは、私みたいな手慣れた人間の方が安心ではないの」


 そこまで言葉を聞いてもミツに変化はない。

 ただ、結ばれていた唇が静かに開き、実によく聞こえる声で言葉を紡いだ。


「あれがそうも簡単な人間に思えるのなら、やってみたらいいわ」


 その台詞にフミは意外な顔をするが、ミツはあまりにも落ち着いた声色のままに言葉を続ける。


「そもそもに知ったことではないのよ。何故にあの女のことで私に何かを告げる必要があるのかも意味不明なのよ。誰がどういった気持ちを抱き、それを当人に伝えるにせよ、全ては当人同士の問題なのだわ。故に私に語っても意味などないのよ」


 佳人の顔に変化はない。

 言葉の調子も変わらないし瞳の内の色合いも、声の抑揚も、先までと何一つとして変わることはない。


 だがその事実の全てがフミには面白かった。


 何一つ変わらない――怒りを露わにしたままにミツはフミを睨み付けて、更には一歩を踏み出すとフミの顎を持ち上げた。


「手に入れてみせなさいな。そうすることであれの生意気が少しでも減るのならば、私としても願ったり叶ったりだわよ、蓮葉」

「……これはこれは。お墨付きを頂けたようで何よりよ、竜胆さん」


 少し程フミの顔を観察すると、即座に飽きたのかミツは手を離して彼女の肩を押す。

 そのままに通り過ぎたミツは目的だった医務室へと踏み入り、戸を静かに閉めて、消える彼女の背を見送る形となったフミは小さく零した。


「あはは……皆の感想というのはやはり的外れね。豪放磊落にして男勝りが雲居瑠璃で、窈窕淑女ようちょうしゅくじょで乙女足らんとするのが竜胆ミツですって?」


 とんでもない勘違いだとフミは呟く。


「竜胆ミツは夜叉よ。それも渡世人ヤクザ顔負けの、実に肚の据わったさぶらいだわ」


 面白いことのように笑いながらフミは無人となった廊下を歩いていく。


 対するミツは医務室に入室すると同時、怒りの表情のままに「気分が悪い、早引けをする」とだけ口にして、保健婦は「竜胆一族でも腹に据えかねる程の怒りがあるのだ」と不機嫌な様子におののいた。

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