明治時代、学生の間では、特に上流階級の間ではスポーツがたしなみとして流行した。

 男子の間ではゴルフやテニス、乗馬等が好まれ、大正時代には野球が大きな人気を博し皆の知るところの甲子園が開催される。


 近代スポーツは実質的にいって欧米文化に触れる為のよい機会だった訳だが、女学校でも早くから授業に取り入れ、その内でも華族かぞく女学校が先駆者として知られる。


 しかし流行れども否定的な意見があったのも事実で、前時代的な理由だが、多くの否定派は〈女子とはみだりに肌を晒すだとか日焼けをするべきではなく、淑やかにたおやかにあるべき〉と口々にした。


 実際に上流階級の親の大半はこの立場で、如何に欧米文化の水に慣れる機会だとはいえ、何も外で男児の如く走り回らずとも、伝統性に則った女性美を追求するべきとした。


 こういった学校側の思う教育理念との乖離かいりは時代的といえばそれまでだが、近代化だの欧米化だのといえども、女性に対する扱いの差は男性に比べるとやはり大きく、差別的だったといえる。


 女性の肌は白く、身体は細身で、笑う時に歯を見せてはならないし、声は静かで、受け答えは即答し、否定を持ちはせず、母性を育むことを多くの男性は望んでいた。


 身勝手の極みだといえるし、そこに自主性や自由性は認められなかったし、やはり多くの大人や古い気質の人物達は女学校が運動教育することに反対だった。


 しかし時代の女性達は募る批判や古臭い因習いんしゅうめいたものと真っ向から対立し、華族女学校は正しく先駆者として初志貫徹し、現代では当然とされている運動会を年に二度も開催する程の意地をみせた。


 更にはその意思を汲み取らんとするかのように時の皇后陛下が行啓ぎょうけいとして足をお運びになられるものだから、庇護ひごを得た女学校側は不満に顔をしかめる男達を後目にスポーツを楽しんだ。

 その流れは当然ながらにマグノリア女学校にも生まれ、春の時期、新たな雛を迎えてから一月と半もすれば前期の運動会があった。


 多くの女学校では未だに袴姿で運動をしていたが、歴史的にも珍しいことにマグノリア女学校ではセーラー服の着用が義務付けられていたし、この姿での運動が当然だった。


 春の時分に雛達はポロネーズを踊ったりテニスを楽しみながらに、近くあるという運動会を前にして胸中には期待や興奮というのが溢れていた。


「それで、何を先日から難しい顔をしているのよ、雲居くもいさん」


 体操の授業中、汗を滴らせて座り込んでいる瑠璃にユリがいう。

 先まで何故か走り回っていた瑠璃だったが、疲れてしまったようで現在は学舎の傍にある木陰で息を整えている様子だった。


 そんな乙女の隣で景色を観察しているユリは然程運動が得意ではないようで、彼女は手拭いを乙女に差し出した。


 素直に受け取った瑠璃はそれで汗を拭い、落ち着いた息になるとユリを見上げて言葉を紡いだ。


「いやぁ、なんだかモヤモヤするというか、どうにも発散しきれないというかね……」

「何をいうのか分からないけども、雲居さんったら、先日のサボタージュから不服そうな顔だし、だのに理由を語ろうとしないから、はっきりいって全く要領を得ないわよ」

「まぁ、うーん、そう思われても仕方ないんだけどさぁ……」


 先日に午後の授業に顔を見せなかった瑠璃は大層な説教を喰らう羽目になった。


 結局、サボタージュの理由を乙女は語らなかった。

 多くの雛達も教師達も口をつぐむ乙女にいぶかしんだが、瑠璃本人からすれば、どうにも他人を言い訳のように使うというのが気持ちのよいものではなかった。


 そんなものだから、乙女は誰にも理由を語ろうとはしなかったが、それが故に不満や憤りは募ったし、その不器用な性格が起因してか、せめて汗でも流せば幾分かはマシになるかと走り回ってみたが、効果は薄いようだった。


「まあ深くは聞かないけども……そうも動き回りたいとあれば、じきに運動会だし、存分に健脚けんきゃくを披露できるんじゃないの?」

「そうか、そういえば間近だっていってたわね。運動会かぁ、凄いなぁ。何だか想像以上の数の種目があったけど……あれって全学年でやるんでしょう?」

「そうだろうね。とはいえ不参加の人もいるだろうけどさ」

「ああ、御家の理由とかで?」

「そうそう。私もやめておこうかな、一日中動き回れる体力なんてないし」

「そうかな、応援するだけでも楽しいんじゃない?」

「見ているだけというのも退屈だよ。私みたいなことを思う人も少なくないと思うよ」

「ふぅん、そんなもんかなぁ」


 気質の差といえばそれまでだが、親が望む以前に当人がそもそも運動を嫌うというのも少なくはなかった。


 それは価値観を無理矢理に植え付けられた訳ではなくて、美白という単語が古くからあるように、肌を焼くことを嫌う雛も少なくはない。

 また、単純に体力が少ないだとか、運動そのものが苦手な人物もいる。

 それは身体能力であって、そういった雛からすれば、御家の意向を理由に運動会から逃れられるのだから実に僥倖ぎょうこうだったといえる。


 その内にユリも含まれていて、彼女は浮かない表情のまま、さてどうしようかと決めかねるような態度だった。


「きっと三女様もサボタージュするんじゃないかな。本人は運動が得意の様子だけど、流石に竜胆りんどう家が許さないだろうし」


 唐突に怨敵おんてきの名前を出されて瑠璃は眉根まゆねを寄せるが、果たしてあの佳人かじんが御家の意向に頷くような人間だろうかと疑問に首をかしげる。


 何せ剣を趣味とするだとか、それを秘密裏に学校内に持ち込むだとか、得意とする洋琴ピアノを、誰も使わないのならばと勝手に弾いたりする程に自由奔放の体現だった。


 そんな佳人は運動全般が得意だというし、体操の授業は必ず出席しているという噂を耳にしたことが瑠璃はあった。


 故に瑠璃はミツが運動会に顔を見せることを確信して、そうすると、では毎度の如くに己と佳人とでの勝負が生まれるのだろうと闘争の意欲にたぎった。


「いいえ、蘇芳すおうさん。あの女は出るわよ、確実にね」

「おや、何故に言い切れるのかな?」

「何せ私にとってあれは怨敵であるのだからね、その性格もよく存じていましてよ」

「あはは、中々に説得力のある……じゃあ三女様は間違いなく顔を見せる、と」

「ええ、絶対によ。ただ、何の種目に参加するのかは分からないけども」

「……或いは、あの攻撃性ならば、とは思いもするけども……」


 まるで思い当たる節があるようにユリは呟き、それに瑠璃は疑問符を浮かべる。


「何か分かることでもあるの?」

「いやね、運動会というのは、何も闘争ではない訳だからね。それというのは親睦会だといえる訳だから、例えばバレーボールなんかがあるけど、あれは仲睦まじい乙女等の戯れを競技化しただけじゃない? だから間違っても立候補してはダメだよ、雲居さん」

「何をそうも心配した顔になるのよ……しかし楽しそうな競技があるのね、いいわねバレーボール。班別なのかしら?」

「ダメよ、ダメ。興味なんて持たないでよ。絶対に碌なことにならないんだから」

「えぇ、でも楽しそうだし」

「兎角、何にせよ三女様が参加するか否かは未だ確証がない訳だから。雲居さんは自慢の健脚を披露すべく、徒競走とかに出るべきだよ」

「ああ、走る競技もあるんだ? 結構、何でも許してくれるんだねぇ」


 恐らく、父兄方からは「はしたない」だとか「有り得ない」だとか「淑女足らぬ」と様々な侮蔑ぶべつが寄越されるだろうが、それらを無視してでもマグノリア女学校は生徒達が望む限り、最大限の努力を惜しまずに如何なる機会をも与える気概を持っていた。


 実際のところ、スポーツというのは教育的な観点からすれば大きな要素だし、また体育振興も含めて女学校のスポーツ教育はこの頃から全国的な広がりをみせた。


「しかし全学年でとなると四年生までの多くが参加する訳だから、中々に華々しいよね」

「華々しいって、雲居さんったら……まぁそうはいえども、鳥籠の内でのみ絢爛けんらんと咲く訳だし、秘密の花園と呼べるよ」

「ううん、それは尚のことに不埒ふらちな呼び方だよ、蘇芳さん」

「あなたが先に始めたことでしょっ」


 語気を荒げるユリに笑いつつ、瑠璃は先日に出会ったフミを思い浮かべた。

 全学年での行事だとはいえ、フミの性格からして参加する人物には思えなかった。


 恐らくはサボタージュするのだろうと結論しつつも、運動するフミの姿というのも見てみたいものだと瑠璃は思った。


伊東いとう先輩、出るかなぁ」

「え?」


 ふいに出た名前だったが、突然の台詞にユリは仰天ぎょうてんした顔になると瑠璃を見つめる。


「ちょっと雲居さん? 今、もしかして伊東先輩っていったかしら?」

「え、あっ。いやまあ、そうだけど」


 意識もせずに呟いていた訳だが、何故かユリは焦燥した顔付きだった。

 彼女は瑠璃へと肉薄すると乙女の肩へと手をかけた。


「ちょっとちょっと、急にどうしたの、蘇芳さん」

「いやね、少しばかり予想外の名前が出てきたから。何故にその名前を? どこかで知ったとか?」

「どこかでも何も、少し前に知り合ったんだけど……」


 先日の邂逅かいこうからサボタージュの真相を口にしそうになったが、それを瑠璃は適当に誤魔化すことにした。

 やはり他人を理由に正当性を主張するのがどうにも瑠璃は嫌だった。


 ところが先からユリの反応というのが可笑しい。

 いつ出会っただとか、何故に知っているのかとか、面識があることに驚いている様子だった。


「何も変なことはされていない? 怪我は? 脅されたりとか、そういったことは?」

「ええ? いや全部ないけど、何故にそうも不穏な言葉ばかりが出てくるのよ……」


 理解の及ばない反応に瑠璃は疑問が深まる。

 恐らくユリの反応というのは心配を寄せてのことだったが、それにしても口から出てくる単語が穏やかではなかった。


 まるで恐ろしい人物を口にしているかのようで、瑠璃は思い返してみても、フミという美女が凶暴性を持つような人間には思えなかった。


「ええと、少し会話をして、今度お茶でもしようとか、よかったら菓子とかも食べようとか、そういった程度の会話しかしてないよ」

「そっか、それならいいんだけど……いやね、ほら、雲居さんって帝都をよくは知らないでしょう? だからその、何というか……一般的には世に知れる御家を存ぜぬことがあったりするじゃない? それこそ三女様がいい例なんだけども」

「確かにそうかもだけど、そうはいっても伊東先輩は普通そうな人物に思えたけども。確かに独特な感性というか、独自の感覚を持っている方だったようだけど……」


 よもや思い違いの人物をいっているのだろうかと瑠璃はいぶかる。

 そうして乙女は乙女の感じたままの感想を口にするが、ユリの顔は段々と青褪めていった。


「ああ……間違いない、それは伊東の家の人だよ。あの方は相変わらず飄々としているというか……」


 まるでユリはフミをよく知っているかのようだった。

 彼女は天を仰ぎ、これは大変な事態かもしれないと不安そうな表情をする。

 そんなユリの反応に瑠璃はひたすら怪訝けげんな顔をするばかりだった。


「こらこら。何を悪口のようにいっているのよ、蘇芳屋の娘さんったら」


 そんな時だった。

 瑠璃の耳に先日に聞いた人物の声が届き、その声を聞いたユリも驚いたように目を見開くと声のした方向へと顔を向ける。


「あら、先日ぶりね、雲居さん。汗が滴る姿もまた画になるわねぇ、健康的でとってもよい姿だわ」


 今現在も授業の最中だろうに、運動場の近くに歩いてきたのは話題に挙がっていた伊東フミだった。


 学舎近くの木陰で休んでいた瑠璃とユリは、現在進行形でサボタージュの最中にあるだろうフミに驚くばかりで、何故にこうも自由に歩き回っているのだと二人は同じ感想を抱いた。


「これはこれは、い、伊東様ではないですか。ご機嫌麗しゅう」

「はいご機嫌麗しゅう。しかし久しく見たよ、あなた。蘇芳屋の娘さんだったよね」

「え、ええ、御記憶にお留下さり、有難く存じます……」

「何もそうかしこまらなくていいじゃないの。私達、幾度か顔を合わせたこともあったじゃない? それに古くからお世話になっているのは我が家の方なのだから、ね?」

「はい、毎度御贔屓にして頂き、大変に有難く思っております、伊東様……」


 歩み寄ってくるフミに対してユリは平伏するかのようで、そのやり取りを異常のように思いつつも、理解の及ばない瑠璃は言葉もなく見つめているだけだった。


 歩みを止めたフミは頭を下げるユリを見て、次いで視線は瑠璃へと向かった。


「ふふふ。聞いたよ、雲居さん。先日の件で散々に説教を喰らったって?」

「え、あ、まあ……」

「私の名前、出していいっていったのに。そも、私が無理矢理に連れ去った訳じゃない? けれどもそういう頑ななところがやっぱりいいよね。勇ましいというか何というか」


 フミの言葉によりユリは合点したような表情になり、瑠璃は瑠璃で勘付かれたのだろうと理解すると渋い顔をした。


 兎角、瑠璃はかぶりを振ると、何故にこの場にフミがいるのかを問う。


「あの、伊東先輩? 何故にこのような場所に……?」

「あらま、もっともな疑問だけど……先日にもいった通り、私ってある程度の自由が許されていてね。実際は許されてないんだけども、ある種の特別ってやつかしらねぇ」

「特別……ですか?」

「そうそう。しかし蘇芳屋さんったら、雲居さんとは普通の関係性でありたかったのに、余計な真似はしてほしくないんだけどもなぁ」


 まるで責めるような台詞だったが、フミの言葉にユリは葛藤するような顔をし、それでも意を決したような鋭い表情になると、瑠璃の前に出てフミと真っ向から見つめあう。


「そうはいえども友人のことですから心配にもなりますよ。なまじ、あなたが関係するとあれば出張らずにいられません」

「そう? 危険性なんてある訳ないじゃない。単なる子供だし、女子なのよ、私は」

「しかしそんな程度じゃないでしょう。まして現状を見れば分かる通りにあなたは普通じゃあない。こうも自由奔放に歩き回って授業をサボタージュして……挙句は先日に雲居さんを連れ去っていると聞いたら、いよいよ彼女の身を案じますとも」


 言葉を紡ぎつつユリは瑠璃を見た。

 その瞳の中には怒りなのか恐れなのかも判断のつかない様々な感情の色が混在していた。


 それでもユリは呼吸を整えると、まるで見合いの席かのようにフミの正体を口にした。


「雲居さん。このお方はね、帝都で幅を利かせる極道一家、伊東一家のご息女なの」

「……え?」


 最初、聞き間違えたかと瑠璃は呆けたような反応だった。

 しかしそれも当然のことだろうとユリは内心で思いつつも、改めて口を開く。


「いやだから、この方はね……帝都の裏の顔とも呼べるような伊東大親分の嫡女様で、それはもう蝶よ花よと愛されて育ってきた、由緒正しい渡世人ヤクザの生まれなのよ……」


 果たして予想のつきようもない真実を突きつけられて、それは確かに心配を寄せるのも仕方がないかもしれないと瑠璃は思う。


 渡世とせいやその家業に縁のない瑠璃だが、そんな乙女でも分かることというのがある。


 帝都の闇を支配する一族となれば、それはある意味では日本の闇を支配する暗がりの元締めのようなもので、そんな大悪党の娘が何故にかは知らずとも名門で知られる天下のマグノリア女学校に在籍し、自由気ままに過ごしている。


 成程と頷き、そうも恐ろしい一族の、ましてや一人娘ともなれば両親からの寵愛ちょうあいの程もして知るところがあり、それ故に何のとがも罰もないのだと察すると、瑠璃は学舎全域に響くほどの驚愕の大声をあげた。

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