丑三つ時に瑠璃は目が覚めた。

 慣れない環境でもある為か寝つきが悪いようで、覚醒は約一時間おきにあった。


 枕の違うしとねというのも落ち着かなかったが、それ程に己は神経質な性質たちだったかと自問する程に乙女の眠りは浅かった。


 用意された寝台しんだいから身を起こして窓辺を見る。

 少し離れた位置には静かに寝息を立てるユリの姿がある。

 呼吸と連動する布団の様子を見て、彼女が起きる気配はないと悟った。


 寝間着に羽織りを纏い、静かな足取りで乙女は出てきた。四月の空気は未だ肌寒い。

 監視の目はないようで、では外出は可能だろうかと乙女は宿舎の内部を彷徨う。


 窓辺からは月の光がさしていて、濃く落ちる影と凛と静まった空気に現実味が溶けていく気分だった。

 乙女の故郷と違うのは潮の香りがないことくらいで、存外、どれだけ故郷から離れようと夜というのは変わらぬ風なのだと乙女は思った。


 一階へやってくると女将の部屋がある。

 午後の頃にユリに案内された際、何かの問題があればここで対処するという話しだった。

 主に体調不良等が問題にあたるのだろうが、乙女は部屋の前を過ぎ去ると建物の出入り口に立つ。


 当然のように施錠されている訳だが、乙女は内鍵を開けると外へ踏み出した。

 夜風にはマグノリアの薫香くんこうが紛れ、故郷の磯臭さは微塵もしないと少々顔を俯ける。


 大胆にも正面から出てきた乙女だが行く宛てはない。

 単に外の空気に触れたくなっただけで、暫く乙女は月の浮かぶ夜空を見上げていたが、思い出したように歩みを進めた。


 宿舎の外観は質素な程度だが、複数棟あるそれらは、やはり鳥籠のようだと乙女は思う。


「随分と遠くにきたなぁ……」


 望んでいた形でマグノリア女学院にやってきた訳ではなかった。

 全ては乙女の父母の勧めであって乙女はそれに従ったまでのことだった。


 少なからず都会というものに憧れはあったが、それであっても休日にでもならなければ外出を許されることはない。

 門限もある。通常は夜半の外出は認められていないし、やはり眠る時間帯に寄宿舎から踏み出すことも違反だった。


 それであっても乙女は全く意に介さずに夜の散歩を楽しんでいる。

 朝の騒動から考えても乙女にとって設けられたルールは然程の効果もないようだった。


 それは集団生活における規律の重要性を真っ向から否定するような形だったが、まさか丑三つ時の深夜に起きている人物などいる訳がないと思っていた。


 実際に女将の他、守衛の人物だって幾らか存在しているし、それらは一時間おきに見回りをしている。

 だが奇跡か何なのか、乙女が夜を楽しむ時間に警備を担当する人物の姿というのはなかった。


 乙女自身も長く深夜の外を歩く目的はない。

 ほんの少しも歩けば満足で、乙女はマグノリアの香りがする深夜の空気にうんざりしたような顔をすると、やはり大人しく朝まで目を閉じていた方がマシだろうと結論した。


 静岡から帝都へと赴き、新たな環境と高度な教養を得られるとなれば自然と興奮が胸に宿るが、それらも全ては陽が昇ってからのことだった。

 乙女は満足とはいかないまでもある程度の落ち着きを取り戻すと踵を返し、小さく溜息を吐いて中へ戻ろうとした。


 そんな折だった。乙女の背後で小さな足音がした。

 特に闇への恐怖を持たない乙女だが、誰か知らない人物の気配がするとあっては心臓が跳ねた。


 警邏けいらの人物だろうかと思うが闇を照らす明りがない。

 では盗人かと思うが幼い少女達の住まう環境に何を求めてやってくるのだろうと疑問が浮かぶ。


 結局、正体を探り当てることが出来なかった乙女は、近くなる足音へと振り向いた。


「あ……? あぁ、なんだ、朝の異人じゃあないの」

「えっ……あ」


 そこには浴衣を着た佳人の姿があった。

 早朝に門前で乙女と殴り合いをしていた天下の竜胆りんどう一族が三女、竜胆ミツだった。


 呼ばれた乙女は怪訝けげんそうにするミツへと振り返り、はっきりとその人物が怨敵おんてきに等しい人物だと理解すると、ミツと同じ顔になって互いは対峙するように見つめあった。


「こんな夜分に何をしているのかしらね。よもやの脱走だというのなら手を貸してあげてもいいわよ。あなた、気に食わないからね」

「遠回しに出ていけといっているの? はらの黒さというのは言葉に滲み出るものなのね」


 開口からミツの態度は辛辣で言葉の一つ取ってしても無礼極まりない。

 それに瑠璃は言葉を返すが、こちらも似たような態度だった。


 一寸すこしばかりの沈黙が生まれる。

 ややもしてしかめ面をしていたミツは息を吐くと、呆れたような顔をして瑠璃を睨んだ。


「あなたは何故に当然の如くに私の前に立つのかしらね。嫌な因縁というやつだわ」

「こちとらだって、まさかこんな深夜に他の生徒が起きているとは思っていなかったわ」

「挙句は宿舎の外で出会うのだから、最早呪いにも等しいわね。嫌な関係性だわ」

「あら、同じ感想を私も抱いていてよ、竜胆さん……だったかしら」

「よく覚えているじゃあないの、雲居くもい……だったわよね。聞かぬ名だから不思議と覚えてしまったわよ、ああ忌々しい」

「その感想も全く同じよ」


 背の高さに対してミツの歩幅というのは小さかった。

 静まり返る夜に佳人かじんの言葉はよく聞こえたが、それと同じく足音もよく響く。


 玉砂利たまじゃりを踏む佳人だが、その姿勢といえば美しい。

 背は真っ直ぐで足の運びも自然な風で、成程高度な教育を受けて育ったのだろうと即座に察する程だった。


 しかし顔の腫ればかりは似合わない。

 同じく瑠璃も顔が幾らか腫れていたが、互いの怪我の原因は対峙する同士にあった。


 早朝の騒動から二人が再会することはなかったから、てっきり再度見えた際は決着でもつけるべく暴力の景色になるとばかり瑠璃は思っていた。

 ところがそうなる気配はない。

 月の浮く夜に姿を見せたミツは穏やかな風で、喧嘩腰ではあるものの怒りは薄く見える。


「それで、いつまで私の前に立つつもりかしらね、あなたは」

「……丁度部屋に戻ろうとしていたところよ。そっちに喧嘩する気がないのならば、私だって無用に突っかかりはしないわよ」

「そうね、喧嘩にもならない結果になるのだから、私だって無意味に暴力を振るおうとは思わないわよ」

「どういう意味よ?」

「どうもこうも、当然のことですからね」


 あざけりかあなどりかも判断がつかない言葉に瑠璃は眉根まゆねを寄せるが、乙女の態度を前にしてもミツは冷静で、右手に持っている物を見せつけた。


 それは刀袋かたなぶくろだった。

 何故にそのような凶器があるのだと瑠璃は驚いて後退あとずさるが、その様子にミツは笑うと腕の重みでそれを垂れて、別に斬るつもりはないと呟いた。


「そうも怯えないでいいわよ。仮に決着と呼べるものがあるとすれば、それは道具の一つもない素手での話しでしょう」

「……まるで御令嬢の台詞とは思えないわね。剣を持ち込んでいただなんて、あなた、バレたら大事よ」

「そうならない為に深夜の時刻に人を使って持ってこさせたのだわ。それで受け取りを済ませて部屋に戻ろうとしたところで、こうしてあなたと出会ってしまったというわけよ」


 やはり因縁や呪いのようだとミツは呟き、瑠璃も同意のように頷きを返す。


「ところで私の御家というのを知った様子だけども」

「ええ、同室の子からね。何でも東京では知らぬ者なしとまで呼ばれる富豪一族だとか」

「そうね、そういう家柄ね。あなたの御家というのも幾らか調べたけども、あなた、学者の血筋なのね。その人脈があって入学したのかしら」

「さあ、そればかりは父母に聞いてみなければ分からないわね。私は勧められてやってきただけだから」


 瑠璃の言葉に若干ばかり、ミツの眉間に皺が寄った。

 月夜の佳人の顔に陰が落ちると、これもまた画になる程に不思議な美しさがあると瑠璃は思った。


「……そう、あなたも己の意思で入学した訳ではないと」

「あなたも、とは?」

「私もだからね」


 ミツの顔には不服そうな感情が浮かんでいる。

 それの理由は分からないが、何にせよ、瑠璃の頭の中には疑問が浮いていたりもした。


 それというのは、何故にそれ程に幅を利かせる名家の人間が華族かぞく女学校のような場所ではなく、マグノリア女学校に入校したのかという不思議だった。


 決してマグノリア女学校の格が低いという訳ではない。

 事実、全国から名家の女子がこの学校へとやってくるが、それを上回る程の家格かかくというのも世の中にはある。

 それは殿上人てんじょうびとのような人々を指し、ミツという少女もそこに含まれる生まれだった。


 疑問を抱けどもそれを口にするのは少々気が引ける。全ては各家庭での判断だからだ。

 女子に決定権と呼べるものはこの時代にはない。

 ミツの不服そうな表情からして中々に複雑な事情があるのだろうと瑠璃は察する。


「しかし剣を持つ女子というのも珍しく思えるけども」

「まあそうかもね。薙刀であれ何であれ、女が武芸を身に着けることなど普通の親からすれば望む訳がないもの。通常は裁縫だとかでしょうね」

「……ならばあなたのお父上様からの勧めかしら?」

「そんな訳がないわよ。これは私の趣味であって、私は誰の反応も無視して剣を振るってきただけのことよ」


 その言葉に瑠璃は衝撃を受けた。

 よもやの御令嬢が親の意見を無視して自由のように好きなことを許されるとなれば異常事態だった。


 ところがそれと同時に瑠璃は合点するように、成程、つまりこのミツという少女は竜胆一族の内でも大変な問題児の扱いなのだろうと察する。


 それを証明するように、今、乙女の手の内に一口ひとふりの刀がある。

 それは家の使いの人物に持ってこさせたというが、そういった真似を当然のように仕出かす程にミツという人物は普通とは程遠い性格のようだった。


「何だかあなたの正体に行き着いた気分よ、竜胆さん。まるで巷を騒がす莫連ばくれんだわ」

「不良ね、まあそう思われても構わないわよ。生きる上で重要なことは己の意思とそれを貫き通す信念なのだわ。あなたにはそういった気概はないようだけどもね」


 それを気概と呼ぶか矜持きょうじと呼ぶかは定かではないが、この時代に生きるのは中々に苦労をする性分だろうと瑠璃は思う。

 そもそも、それらの自由だとか、或いは好きに剣をいたり振るうことが出来ているのも、全ては佳人の家柄があってこそだと本人は気がついているのかと別に疑問を抱く。


 しかし会話をすればミツという人物の教養の程もある程度は知れるので、恐らく自覚は抱いているのだろうと瑠璃は結論した。


「それで何故に夜を歩いているのかしら。まさか私を探していた風でもないでしょうに」

「ああ、それは大きな勘違いだわ。私はただ、眠れなくて……」

「それで宿舎から出てきたの? 何とも安穏としているというか阿呆な理由だわね。誰かにバレでもしなさい、また怒られるわよ」

「それはあなたもじゃない。その剣、バレたらどうするつもり?」

「その時はその時ね。いっそ斬ってやろうかしら」


 洒落にならない言葉だが、恐らくそれは冗談だろうと瑠璃は思う。

 何せふざけたようにミツは笑い、刀を見せびらかすでもなく無行むぎょうに落ち着かせたままだからだ。


「では私が先生方に告げ口をすると考えたりは?」

「それはないわね」


 刹那の返答と、まるで確信を抱くような言葉に瑠璃は驚く。


「何で断言出来るの? 私自身の外出がバレる可能性もあるというような保身が為と?」

いいえ。あなた、そういう性格じゃあないでしょう。こんな程度を口にする訳がないわ」

「……何故に言い切れるのよ」


 そこまでの信頼関係などありはしないだろうに、と瑠璃は思う。

 むしろ怨敵の間柄であるのだから、そうとなれば相手の弱味を得たとほくそ笑んでいると思っても可笑しくない。


 だのに、ミツは全くそうは思っていなかった。

 ミツはいよいよ肉薄するような距離になると瑠璃を見つめる。

 視線と真っ向から対峙する瑠璃もそれを見つめ返した。


 互いの顔は傷や腫れからして元来の美貌が霞む。

 だがそれであっても、夜の月に照らされる乙女と佳人の画というのは完成された絵画のようで、同じ背の丈と目線で見つめあう互いは、互いの情報しか目に入らない。


 二人は互いの呼吸すらもが届く距離になり、そこでミツは面白いように笑みを浮かべると、瑠璃を見たままにはっきりとした口調でいった。


「だってあなた、素手でも上等だとやり返すような人間じゃあないの。そんな人物が密告のような下らない真似をする訳がないのだわ」


 或いは、それは全幅ぜんぷくの信頼を思わせるような、それ程の言葉だった。

 言葉を交わしたのだって今日のことからだし、互いの印象というのは最悪のままだったし、こうして会敵かいてきすれば厭味いやみの合戦だった。


 それでもミツの言葉は怨敵の台詞とは思えない程に純粋で純白な様を思わせた。

 瑠璃は目を見開いてミツを見て、その驚愕した顔にミツは再度笑うと乙女を過ぎ去って寄宿舎へと歩みを進めていく。


「何にせよ、これ以上長居しては危ないわよ。あなたもさっさと部屋に戻るのね」

「え、あ」


 しどろもどろとしている内にミツの背が遠くなっていく。

 それに慌てたような瑠璃は思い出したように脚を動かして佳人の後をついていった。


「それであなた、どこから抜け出してきたのよ。よもや私と同じように裏口からかしら」

「え? いや、正面の扉だよ。鍵を開けてね」

「……少しばかりあなたの評価が下がったわ。まるで阿呆な手口だわね……」

「な、何でそうも呆れているのよ」

「何でもないわよ……それじゃあ、あなたは表から戻りなさいな。鍵はちゃんとかけておきなさいよ、それくらいの頭は回るでしょう?」

「……やっぱりあなたは厭味な人間だわ、竜胆さん」

愚直ぐちょくな馬鹿よりはマシではなくて、雲居」


 そうして互いは別れると、ミツは裏口から静かに内部へと戻り、瑠璃はきた時と同じように表から内部へと入る。

 大胆不敵な手口だが、結果としてそれが他者に知られることはなかったのだから、それはきっと間違ったような真似だとか阿呆な手口ではないだろうと瑠璃は思う。


 だが、脳裏に過るミツに「その楽観視がお気楽な程の馬鹿者である」といわれると、成程、自分自身でもその所業は間抜けだったと理解しているのだと気がつき、肩を下げて項垂れたままに部屋へと戻った。

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