二
曰くは中部地方からやってきた田舎娘と富豪で知られる
マグノリア女学校といえば明治初葉から続く名門だったし、そこに集う少女達もまた日本国では名の知れた名家の出が多い。
つまりは相応の
当然にこの事態が外の世界に知れては数多の害が生じる為に、速やかに対処は為された訳だが、本人達は散々に説教を喰らっても口を揃えて「己は悪くはない」の一点張りで反省の色はない。
こうなると
結局は数時間の説教の後に二人は解放されるに至るが、互いは一度顔を見合うとそれきりで、背を向けて正反対の方向へと足音を荒げて去っていった。
とうに入学式は終わっていた頃合いで気がつけば時刻は昼を過ぎていた。
先までの拘束から脱した乙女、
「ああ、初日からなんたる不幸かしら……あの女、実に腹立たしいったらありゃしない」
思い返してみても傲岸不遜な態度に突然の暴力は納得し難く、反撃をした己もまた同類に等しいにせよ、そこには正義があった筈だと自己肯定する。
古い時代には武士の間では無礼討ちなる所業も許されたというのだから、
ところが大人達は口々に「はしたない」「暴力を振るうだなんて論外」「反撃などもってのほか」「己等の立場をよく考えろ」と捲し立ててきた。
この事実が乙女は気に入らなかったし、過去、乙女が静岡の港町にいた頃には男児を相手に喧嘩をするくらいには血の気が荒い性質だったりもした。
全ては先のような事柄が発端となる。
面白がるように、或いは嘲るがまま「西洋人が日本語を喋るな」だとか「お前は所詮相の子だ」と蔑まれることがあった。
その度に乙女は拳を振るってきた。
先の張り手の慣れた様子というのはそういった過去の積み重ねが故だが、その事実を知る人間というのも故郷の人々くらいだった。
兎角、乙女は腸の煮えくり返る程の苛立ちをどうにか発散出来ないものかと彷徨っていたが、結局のところは無意味で、暫くしてから赤く腫れた己の頬に手を宛がい、やはり故郷から出るべきではなかったと俯いた。
「帝都ならば窮屈な思いはしないだなんて嘘だよ、お父様、お母様……」
開け放たれた窓辺に
それは独り言でしかなかったが、彼女がうんざりしたように溜息を吐くと同時に遠くから駆け足が聞こえてくる。
それは乙女の方向を目指していて、乙女は眉間に皺を寄せる。
まだ何か説教でもあるのかと顔を上げ、その方角を見ると、息を切らした少女の姿があった。
「ああ、やっと見つけた……あなた、雲居さんだよね?」
低い背丈の、儚い印象を受ける華奢な少女だった。
新品のセーラー服が少しばかり大きく、かつ、洋装に慣れない為かスカートの端を握って走ってきたようだった。
額に浮いた汗を軽く拭い、少女は窓辺に寄り掛かる瑠璃へと歩み寄った。
近付くと少女の小ささというのがより明確になり、瑠璃との背の差は頭が一つや二つ程もあった。
まるで幼児ではないかと瑠璃は思うが、そんな乙女の胸中はまた別として、少女はようやっと整った呼吸になると改めて瑠璃へと話しかける。
「わぁ、凄いね、本当に綺麗な金の髪に
「ええと、あなたは?」
頬を僅かに赤らめる少女の台詞に乙女は少々の恥ずかしさを感じつつ、何故に己を知るのかと名を訊ねる。
「ああ、そうそう、初めましてだよね。私はね、
「同室?」
「そう、あなたと共同生活をする相方なの。相部屋だというのは知っているでしょう?」
マグノリア女学校は寄宿制で基本は相部屋だった。
同室というのは同じ部屋に住まう同士をいうが、よもやこの小さな童のような少女と今後の生活を共にするのかと瑠璃は少々の戸惑いを覚える。
内心では、失礼なことではあるが、こうも幼い見た目の、歳は同じ程度であるにせよ危うさを感じるくらいには華奢な風の少女では頼るにせよ不安だと思った。
胸中の思いが顔に出たのか、瑠璃が浮かべる苦笑いにユリは
「あら、そうも不安そうになさらないでくださいな、お嬢様? これでも私だって最低限度の素養というのを持っていましてよ」
「ああいや、これは失礼、蘇芳さん……そうも不機嫌にならないで。何せあなたといえば可愛らしい見た目じゃないの」
「故に童が如く不安や心配が募るって? 見くびってもらっては困るわね。同じく門を潜ることを許された同士なのよ。それってことは私の能力というのは平均には達するということじゃない」
胸を張っていう様子に、その振る舞いこそが
兎角として、どうやらユリという少女は同室の瑠璃を探していたようだった。
発見された当人といえば顔面は腫れているし一張羅のセーラー服も初っ端から煤汚れている。
頭からつま先まで観察したユリは、なんたる無様か、まるで野生児ではないかと呆れた様子で、その感想に再度憤る瑠璃だったが、しかしそう思われても仕方がないのかもしれないと少々の冷静を取り戻す。
「聞いたよ、雲居さん。よもやの竜胆一族が三女様に
「楯突くも何も、向こうから先に手を出してきたから仕返してやっただけよ」
「おお、何とも
「相手の情報なんて興味ないわね。見たままの座敷童が傲慢な振る舞いをして張り手を寄越してきたという、その事実だけが重要だもの」
「座敷童! 怖いもの知らずもここまでくると呆れが礼にくるなぁ……」
正気なのかと問うような顔を寄越される瑠璃だが、正気だからこそ己の尊厳を守る為にも反撃をしたのだと断言する。
「外観に見合わぬ程の男勝りだねぇ。けれどもその勇ましさもまた、多くの雛達の憧れを集めたりするのかも」
「はい?」
「いやね、既に話題になっているの。あなたと三女様の喧嘩がね。正門の前で傍目も気にせず怒鳴りあって胸倉を引っ掴んで、と」
「あー……」
よもやそれ程に注目を集めたのかと瑠璃は頭をかく。
それは焦燥する様子だったが、乙女の反応にユリは小さく笑った。
「まあ、何にせよね、そんな問題児の同室であるのだからと、教師の方にあなたを探してこいといわれてね。ついでに校内の案内やらも任されて」
「まるで面倒を押し付けられたようじゃないの。断ればいいのに……」
「そうはいえども同室だし、更には連帯責任があるのだから、これは義務のようなものよ」
「
「
「
まるで脅しの文句だったが実際に他者に迷惑を寄越すつもりで騒ぎを起こした訳ではない。
故に実害を目の当たりにして瑠璃の胸中には罪の意識が芽生えた。
ユリは反省する表情の瑠璃に気持ちのよい笑顔を浮かべると、萎れた姿もまた画になるじゃないかと
「しかし蘇芳さん。あなたも新入生でしょうに校内を案内できる程に把握しているの?」
「ええ、しているわよ。あなたと三女様をのぞく雛達は全員ね」
「ああ、
つまり新入生に対する校内の案内も全て終わっているということだった。
瑠璃は改めて
その内の誰がどういった人物であるかは不明だったが、どうにも新入生どころか全生徒に乙女の存在というのは知れている様子だった。
寄越される注目に顔を伏せつつも、案内される先々の場所で瑠璃は遅れたように実感が湧いてくる。
己は今日からこの鳥籠の中で生活をするのだと。
「基本的には特定の教室に集合して授業を受けることになるみたい。特技等の専門分野にはそれに適した教室があるみたいで、その時に応じた場所へと移動するの」
「成程ね。しかし本当に女の人しかいないのね、ちょっと新鮮というか不思議というか」
通り過ぎる誰かや遠くから見てくる誰か。教師の一人一人も含めて男の姿はない。
故郷ではそういった環境は有り得なかったからか、自然と呼吸がしやすい気がしていた。
中庭へとやってきた二人は隣り合って座ると頭上に揺れるマグノリアの花を見つめて、春はきたれり、とユリが呟いた。
「不思議な気がするのはきっと、誰しもがそうでしょうね。ここには男の人の視線がないから、自然と気が緩んでしまうというか、何というかね」
淑女足らんと多くは人目を気にして所作の一つとっても徹底するのが時代の常識だった。
明治維新、含めて文明開化から女性の社会的地位というのは過去の時代と比べれば大きく変化をしたし、それこそ女性の為の教育機関が設立された事実からしても時代は近代化へと向かっていた。
だが社会の変化というのは見た程度では実感を得られないし、本当のところでは、やはり女性には前時代的にも思えるような
息が詰まるような外の世界と比べて、鳥籠と
大きく伸びをするユリを見て瑠璃は笑う。
仮に外で今のユリを見られたら「はしたない」と
それらが時代の実際の姿だったが、その時代から
「人目さえなければ喧嘩だってある程度許容されているらしいよ、雲居さん」
「え? 嘘でしょう?」
「嘘じゃないよ。だって私達は女である以前に人間なんだもの、そうなれば性別なんて関係なく、腹が立てば怒鳴るし手だって出るよ」
「まあそうだけど……それでもこっぴどく叱られたわよ、私もあの女も」
「そりゃね、鳥籠の内でなら何とかなるけど、あなた達は人目のつく場所で暴れたのだから、そうなると相応に罰が降るって」
それと分かっていれば学舎の内で殴り合っていたのにと瑠璃は後悔に眉根を寄せる。
何とも阿呆なことをいう乙女だとユリは呆れつつ、改めて瑠璃へと質問をした。
「ところで相手が分からないままに喧嘩をしたというのも驚きだけど、何故に反撃を?」
「何故も何もないわ。やられたらやり返さねば同じようなことを繰り返すのが人の世の常なのだから、私はそれをやったまでよ」
「まるで古い時代の武士のようね……その外観からして、欧米的な思考なのかとばかり」
そう口にしてユリは失言だったかと慌てた様子で瑠璃を窺う。
けれども瑠璃は特に気にしていない様子だった。
「その、ごめんなさい。今の言葉は偏見のままだったね……」
「ああ、いや……実際、そんなものだよ。欧米的な思考かどうかは分からないけど、この性格というのは父譲りだから」
乙女の台詞から、どうやら父親が西洋人であり、母親は日本人なのだとユリは察した。
「しかし雲居という名は知らないのだけど……瑠璃さんの御家というのは、その、どういったお仕事を?」
「そうねぇ、人に物事を教える仕事をしていたというか、或いは研究者と呼ぶべきか」
「へえ、つまりは学者様なの?」
「うーん、実際のところ、私も詳しくはないの。ただ、頭がよい人物なのは確かだと思う。日本にきた経緯も教育指導の為に招かれたとか何とか」
「お父上様のことなのに、あまり興味がないの?」
「ええ、父がそもそも語らない人物だったし、母も同じくだったし。一応はこういう名門校でも入学を許されるくらいの知名度はあるのだなぁって感想くらいね」
適当にも思える言葉だが、窺えるのは親子間の関係性は良好だろうということだった。
見た目からして東洋人とはかけ離れていて、過去の経緯も含めると己の生まれを呪っていても不思議ではないが、乙女にその様子はない。
過去を詳しく知らないユリであっても何となくのところでそれを理解出来た。
先の感想は不躾だったが、無事平穏で済んで至極安心だと胸を撫で下ろす。
「ところで蘇芳さんのお家は?」
「私? 我が家は呉服商よ。呉服の蘇芳屋っていえば帝都でも名が通っているけれども」
「へぇ、そうなんだ」
「もしも反物が要る時があったら是非にお越しくださいな、いい出色が揃っていてよ」
鼻高々にいうユリの様子に瑠璃は笑う。
「とはいえ近頃は反物も百貨店なんかで買う人が多くなってきているの。洋装の普及も相まって世の移ろいは難しいよねぇ……」
「ああ、百貨店。そういえば帝都に赴いてすぐにちらほら
この時代の帝都は和洋折衷の色が目立つが、デパートのような西洋式の建物が少しずつ増えてきた。
食べ物も洋食と呼ばれる物が普及したりラムネ等の嗜好品が民衆の手元に渡りやすくなっている。
しかし時代の変革の最中にあっても、やはり近代化の進みは牛歩のようで、栄華の中心の帝都は
瑠璃も東京にきて
それらの体験からしても東京に赴いたことは大きな経験になったと瑠璃は思う。
「そんな東京の大御所を相手にあなたは立ち回ったというから心底に驚きだよ、雲居さん」
「え?」
ユリの顔を見れば、そこにはやはり呆れのようなものがあった。
今し方の台詞に瑠璃は小首を傾げたが、もしやと勘付くと焦燥を隠したままにユリへと視線を向ける。
「想像の通りだよ、雲居さん。あなたと真正面から殴り合いをしていた方というのは、東京を中心として多角的な事業を展開している三条財閥の大幹部、竜胆家の三女様なのよ」
予感が的中すると瑠璃は項垂れたようになるが、しかし寄越された情報に不思議と納得してしまえるのは、やはり例の
先まで鎮まっていた筈の怒りが再度顔を覗かせてきて、瑠璃は浮かんできたミツの、他者の全てを見下すような視線を思い出すと拳を握り、小さく「やはり外道だ」と呟いた。
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