マグノリアの花が咲く頃に少女達は賑々にぎにぎしく花道を歩いていた。

 優し気な薫香くんこうに頬をほころばせて春がきたと燥いでいる。

 幼気いたいけな様子に相応しく皆の年頃は若く、背の揃いもまばらで成長の最中であることがよく分かる。


 明治末葉めいじまつようの時代に少女達は鳥籠へとやってきた。


 マグノリアの花が学舎を飾り、その豪奢ごうしゃな、或いは荘厳しょうごんにも思える様子に少女達は胸を膨らませて、己等は世に知られる名門へやってきたのだと誇らしげだった。


 近くには禁裏きんりが住まう皇城こうじょうがあり、隔てる位置には千鳥ヶ淵ちどりがぶちがある。


 歴史もさることながらミッション系としての実績もあり、覚え目出度く大衆からの羨望せんぼうも含め評判はすこぶるよい。


 鈴を鳴らすような声で少女達は笑っている。

 誉れ高くも名門の生徒としての自覚を深く抱き、それを銘々めいめいの顔に浮かべて、皆は同じ方向へと歩いていく。


 時間の進みと共に少女達の数も増えてくる。

 一様に同じ姿で、特徴的なセーラー服は春風になびいて、白色のスカーフが胸元で揺れている。


 春の雛達はこの日から同じ学舎の寄宿舎に住まうことになる。

 新たな環境に不安の色を浮かべる乙女も少なくはない。

 誰もが心を躍らせるような気持ちではなかった。


 その内の一人にその乙女はあった。


 黄金色の髪をしていて、碧の色の眼を持つ、少しばかり背の高い乙女だった。

 乙女はマグノリアが飾る門の前に立ち竦んで、不安に嘆息たんそくした。


 はたから見ても目立つ外観に、過ぎ去る雛達は怪訝けげんな顔をするだとか、他には物珍しい獣でも見るような顔をした。東洋で生まれた西洋人の子か、もしくはあいだろうかと勘ぐったりして、何であるにせよ珍しい乙女だと各々は思う。


 察するに本日から他の少女達と同じくこの学舎へと赴いたのだろうが、それにしても何故にこの乙女は門を越えないのかと皆は疑問を抱く。


 ところが当人の様子というのは越え難いだとか緊張による不安ではない。

 逃避を願うような鬱屈うっくつした様子だった。


 幾度と踵を返さんとするがそれを留めて、再度口を結んで踏み出そうとするが如何せん微動だにしない。

 他の雛達からすれば当然に邪魔で、どうせなら隅の方で葛藤かっとうすればよいではないかと思うが、当人の心の内にそういった判断はない。余裕が微塵もないということだった。


 乙女は再度溜息を吐く。

 吐いて、己の着るセーラー服を撫でて、次いで春風になびくスカーフを押さえる。

 吹き抜けた風が乙女の金色の髪を洗って、マグノリアの薫香に混ざって、雛達のもとへとやってきた。


 先までの無様はさておき、皆は、その表情に言葉を失い、ある雛は頬を赤らめ、ある雛は恥じるように目を伏せた。


 長い睫毛に白磁はくじを思わせる肌の質感や、金を溶かしたような髪の滑らかさだとか、澄んだ海の色を想起させる大きな瞳や、桜色の小さな唇や高い鼻筋に、何故にこの乙女は早い内にうつむきをやめなかったのかと嘆く雛までもがいた。


 乙女は雛達が思う、いや、それよりも世の婦女子の誰もが理想とするような、そんな外観をしていた。あまりにも非現実的で、よもや西洋人形に人の魂でも宿って動いているのかと妄想する雛も少なからず。


 兎角、皆の意識が大きくひるがえった事実は他所にしても、乙女は俯けていた顔を上げて、門を見つめて、その先にある学舎やマグノリアの花へと視線を移す。


「はぁ……嫌になるなぁ」


 乙女の零した声は誰にも聞こえはしなかったが、それが彼女がこの名門へと訪れて口にした第一声だった。誉れ高く覚え目出度き名門校に入学をしたのは事実だったが、しかし乙女は実をいうと全く望んでいたことではなかった。


 流暢な日本語からして、乙女の生まれは日本で間違いはなかったし、育った地というのは海の近い静岡県の港町だった。


 片田舎の潮風に揉まれて育った乙女にとって帝都の様子というのは居心地が悪く、先から風に乗ってやってくるマグノリアの香りに顔をしかめては、都会の空気というのは混濁こんだくとしていて煩わしく思えた。


 また、寄越される奇異な視線の数々に乙女は苛立っていた。


 己の生まれというのが特殊だというのは自覚していたし、実際、故郷であっても馴染みの人物達以外からは、やはり異物のような扱いをされてきた。


 そんな乙女であるから、新しい環境も加味して、門を越えることを躊躇っていた。

 空気は好みではないし人の数も多く、今後の生活もまた、この門の内にある寄宿舎で歳若い少女達と寝食を共にしなければならない事実に気が滅入っていた。


 いっそのこと、やはり逃げてしまえばいいのではないかと乙女は思った。


 それを成した場合に乙女の身内にどのような処罰や叱責しっせきがあるかは不明だが、そうした時に思い浮かぶ両親や、或いは故郷の友人達を想うと、やはり決心には至らない。


 結局、乙女は無為にここで葛藤を繰り返している。


 不慣れな環境に不安を抱くのは誰しもにあって当然ではあるが、乙女は己の特殊の程を自覚しているが為に尚のことその心情は推して知るところがある。


「このまま風にのって消えることが出来たら楽になれるのになぁ」


 余程の絶望に打ちひしがれている訳ではない。

 それは大袈裟なもので、乙女の性格にはニヒリズムのような虚無主義があった。

 ブルースを思わせる表情のままに呟いた彼女だったが、そうこうしていると景色に他の少女達の姿が見えなくなっていた。

 どうやら新入生の皆々は彼女の葛藤を置き去りにして門を越え、残すところは乙女がただ一人の様子だった。


 真に孤独となって、そこで彼女は急に馬鹿馬鹿しく思える。

 先までの憂鬱というのは、やはり見知らぬ人物の数の多さや視線のそれらが由来するものだったのだと結論した。


「人の波も失せたかしら……しからば参ろうかしらね。名立たる名門とやらに」


 打って変わり奮起したように背を伸ばした乙女は、再度視線を上げてマグノリアの飾る門を見上げた。

 多くの不安や戸惑いはあるしそれの解消には至らない。それでも逃げの考えを捨てて、ここで乙女はやっとのように一歩を踏み出そうとした。


「邪魔よ、あなた」


 そんな折、乙女の背後から声がかかった。

 凛とした調子で、言葉の内容は辛辣しんらつにも明確な意思表示だった。

 乙女は踏み出そうとしていた足を引っ込めて再度立ち止まり、今し方の台詞は己へ向けられたものだったのかと首を傾げる。


 足踏みしていたのは事実だが、別に避けて通るくらいのことは出来るだろうに、何故にそうも不躾ぶしつけに物をいうのだろうと乙女の胸中に怒りが芽生えた。

 折角の決心に水を差す人物とは何者かと乙女は振り返り、その先に見えた人物に乙女は数舜、挙動を失ってしまう。


「何をそうも阿呆のように間の抜けた顔をしているのよ。邪魔といったのだけども」


 そこには乙女と同じくらいの背丈の、黒く長い髪を靡かせる、同じセーラー服を着る人物があった。

 大和撫子という言葉が脳裏に過る程に、その人物とは佳人かじんが如く美を宿していた。

 かぐろい長髪は絹の質感を思わせたし、肌は白く滑らかで、小ぶりな顔も、その内の配置も全てが完全だった。


 何よりとしてその瞳だった。大きく鋭い双眸の奥には深淵が広がるのに、星の煌めくような揺らぎがあった。その相反する神秘的な瞳に睨まれる乙女は挙措きょそを失い、言葉までも失い、ただ見惚れていた。


「珍しい洋髪ようはつを疑問に思えば……何よ、異人じゃあないの。それじゃあ言葉が通じないのも仕方がないわね」

「え、あ……いやいや、私は日本人だよ」


 歩いてくる人物は乙女の前に立つ。

 やはり背丈は同じくらいで、間近に迫った美貌に乙女はしどろもどろとしたが、あざけりをびた台詞に乙女は反射的に答えた。


 幼い頃からこうした侮蔑ぶべつを向けられてきた乙女にとって、そういった扱いは慣れたものだったが、何故に大都会の帝都ですら聞き慣れた讒謗ざんぼうを寄越されるのだといきどおりに眉根まゆねを寄せる。

 その様子に佳人は鼻を鳴らして笑い、そんな態度に尚のこと怒りが湧いてくる。


「あなたの生まれがどうあれ何であれ、邪魔だといっているのよ。まして理解出来るオツムがあるのならば何故にさっさと退かないのかしら」

「……少し言葉が過ぎるんじゃあないの、あなた。そりゃあ私は邪魔かもしれないけど、何もそこまでいわなくてもいいじゃない。横を通り過ぎるだけの余地はあるのだから、そうすればよいじゃないの」


 先まで美貌に見惚れていた乙女の意識が嫌悪に変化し、対峙する佳人は反論を聞いて同じように顔をしかめた。

 見合った両者は顔を寄せ合う。互いの瞳には互いしか入らない。あますことなく寄越される対峙する人物の情報は全て美に帰結するものだったが、それらの情報が霞む程に互いの瞳には火炎が渦巻いていた。


「あなたの意見なんて誰も訊いちゃいないのだけども。もう一度いうわよ、退きなさい」

「嫌よ、断固拒否だわ。あなた、どうにも高飛車が過ぎるもの。いっておくけどもね、私はあなたの奴隷だとか侍女じじょじゃあない――」


 乙女がいいかけた所で佳人が手を振り上げた。

 乾いた音の後に乙女の頬に熱が宿る。

 やってきた衝撃と痛覚に乙女は頬を張られたのだと即座に理解したが、そんな乙女の瞳に新たな情報が入ってくる。


 眼前にはしてやったりと笑みを浮かべる佳人の顔があった。

 その事実を理解した途端に乙女の胸中の火炎がいよいよ爆ぜ、抱いた怒りのままに乙女もまた、手を振り上げて佳人の頬に張り手を見舞った。


 勢いと乾いた音からして、乙女の張り手というのは得意技のように手慣れていた。

 佳人は揺れる視界と衝撃に少しばかり驚いた顔をすると、互いは赤く腫れた頬をしたままに再度見合った。


「……何をしているのかしらね、あなたは」

「それはこちとらの台詞なんだけども」

「はぁ、あなたに言葉を紡ぐ権利があると」

「先に手を出したのはあなたでしょう」

「いうことを素直に聞けばよい話しでしょうに」

「他者を支配する権利など誰にもありゃしないでしょう」


 一寸の沈黙を挟んで乙女と佳人は再度手を振り上げた。

 同じ拍子で甲高い音がして、互いは互いにやってきた衝撃と痛覚に視界を揺らす。

 そうして再度それを繰り返し、また視界が揺れて、今度は両手を振り上げると、いよいよ二人は互いの胸倉を引っ掴んで罵り合った。


「この異人如きが、誰に手をあげたか分かっているんでしょうね!」

「だから日本人だっていってるでしょ! そもそもあんたなんか知らないわよ、どこの市松人形に魂が宿ったってのよ!」

「何が市松人形か、だとしたらあんたは西洋人形じゃあないのよ!」

「いうじゃない、座敷童みたいな見た目をしといて!」

「あんですって!」

「あによ!」


 春、マグノリアの花の咲き誇る門の前で乙女と佳人は出会った。

 出会いの発端は最低最悪極まりなく、互いの第一印象は腐れ外道に尽きた。

 大声をあげて殴り合う両者は鼻血を吹き出しセーラー服を乱しに乱し、頬を腫らせてはこやつに負けてなるものかと拳を振り上げる。


「あなたたち、何をしているのです!」

「姿が見えないと思ったら……こんな場所でなんて真似をしているのですか!」


 騒ぎを聞きつけて職員の大勢が慌てて駆けつける。

 それと共に入学式を知らせる鐘の音が響いて、この日、目出度くも名門マグノリア女学校に入学を果たした両名は時の人の扱いとなり、以降、多くの騒動の中心人物となっていく。


「もう止めなさい、雲居くもいさん! わざわざ静岡からやってきたのでしょう!」

「あなたもですよ、竜胆りんどうさん! これが竜胆一族のご息女のすることですか!」


 乙女の名は雲居瑠璃くもいるり、佳人の名は竜胆りんどうミツ。

 片や静岡の田舎者と、片や名立たる財閥に列する一族の御令嬢だった。


 二人は鼻血を垂らして大きく腫れた顔で、教員に引き剥がされても尚に睨みあい、怨敵おんてきの名をしかと耳にすると深く胸に刻み込んだ。


「覚えたわよ、雲居とかいう異人……後で散々にしてやるわよ……!」

「ふん、上等じゃあないの、竜胆とかいう座敷童! いつでも相手になってやるわよ!」


 この時の邂逅かいこうからは誰の考えにもないことだろう。

 だが持ち前の美貌や、或いは似通った性格からして、それは必然のことだったのかもしれない。


 二人は後に恋仲となる。

 そして悲恋の末に千鳥ヶ淵に身を投げやる。

 その結末に至る物語は、あまりにも子供じみた、実に下らなくも微笑ましいような殴り合いから始まった。

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