二十六 一緒に


「ティレル卿、如何したか!」

「せめて一つくらい報せを頂けたらば……!」

「ああ、いい、いい。クイーンは、マイロードは何処かね」


 インド攻略の一幕、ティレル卿は凱旋を果たす。

 未だシパーヒーの抵抗が続く最中でのこの事態にクイーンですらも如何したかと慌てた。


「お久しゅう御座います、我が君」

「……まるでらしくない帰還もあったものではないわね。如何したの、状況を無視して」

「いえね、少しくらいの余裕が必要だと思いましてな。何せ我が道は紳士のそれ。故に余裕の一つもなければ大衆も不安を抱きましょう」

「……やはりらしからぬ。いいのかしらね、《鬼のティレル》がそんな適当で?」

「ははは……さてね、世が呆れようとも手腕ばかりは誰も疑えぬ。故のティレル、故の一番槍。それでは失礼」


 が、彼――ティレル卿は必要な者は立ててある、心配は無用だと述べ、バッキンガム宮殿からそのまま馬車に乗り付けて己の城館へと帰還する。


 従者達は慌てふためいた。

 帰還の報せは一月前に寄越されたが何を思っての凱旋なのかが謎だったからだ。


 よもや先の騒動――アリス嬢の家出紛いが知られたか、と皆は恐れおののいた。


 しかしそんな皆の恐怖や心配は杞憂に終わる。

 クイーンをもして恐怖させた彼の冷徹な空気感こそは、つまり、愛する息女が体調を崩したが故だった。


「アリス、大丈夫かい!」


 彼は出迎えの者等すら無視をし、更には自身の歳も鑑みず駆け出すとアリスの寝室へと飛び込んできた。


「お父様! お帰りなさい!」

「おぉ、アリス! 僕の愛する天使……うぅん、大丈夫だったかい? 体調はもういいのかな?」

「もうっ、風邪を引いたのは一月も前の話だよ、お父様?」

「おぉ、そうだったねぇ。いやさ、アリスが風邪を引いたと聞いたらいてもたってもいられなくてね……別の者に指揮を任せてすっ飛んできたよ」


 つまり、彼は親馬鹿だった。

 此度の帰還の真実はアリスを心配したが故で、それを誰に告げるでもなく、己の執事を連れ立ってきた。


 情報は逐一彼から知らされていた。

 初老の眼鏡をかけた彼はティレル卿の後ろに控え、アリスへと深く頭を下げる。


「えっ……もしかして帰ってきた理由ってわたしだったの……?」

「ん? そうだよ?」


 その台詞にアリスは呆け、更には彼女の傍に控えていたレディースメイド――シャロまでもが呆然とし愕然とまでした。

 驚きの真相とはこう言うものが常であり、これでは探偵も仕事がないな、とシャロは思うことで何とか平常心を保つ。


「やぁシャロ。久しぶりだね」

「はっ。お帰りなさいませ、マスター……」


 シャロは視線と言葉を寄越されるとその場に膝を突く。

 するとティレル卿は楽にせよと紡ぎ、シャロは立ち上がると再度礼をする。


「申し訳ございません、マスター。わたくしがついておりながら……」

「あー……なにかな、君は罪の意識でも抱いているのかな?」

「当然のことで御座いますっ。我が命、そして我が意味意義こそはアリスお嬢様の生活全てを支え完全とすることにありますっ」

「うむむ、相変わらず君はどうも真面目過ぎるね……話は聞いてるよ、シャロ。そして……アリス」


 彼はシャロの様子を宥めつつもアリスへと厳しい目を向けた。


「ダメじゃないか、皆を心配させては。夜遅くまで勉強して、しかも日中には剣の稽古や兵法まで学んでいたって?」

「えっ……な、何でそれを……」

「我が執事を侮ってはいけないよ、アリス。僕の前で隠し立てなんて無意味さ。ましてや愛する娘のことだ、全て……全て知っているとも」


 その台詞はまるで死神が鎌首を擡げる様を思わせた。

 アリスもシャロも顔を蒼褪める。

 よもやハートフィールドでの出来事までをも知っているのか――


「アリス。何を目的とするんだい?」

「えっ……え?」

「分からないと思うかね、僕が。急に剣や軍事学にまで食指を伸ばす……何を思っているんだい?」

「っ……」


 流石に先の事件は知らない様子だった。

 が、しかしティレル卿はアリスに鋭い眼差しを向ける。

 何やら彼は勘付いている様子で、それを彼女に問うのだ。


 まるで見透かされたかのような感覚に陥ったアリスは、暫し顔を俯けると傍に立つシャロの手を握る。


「お嬢様……?」

「…………」


 アリスがハートフィールドから帰ってきてからの変化。

 結局、何を目的としているのかは誰にも不明で、アリス自身もそれを口にすることはなかった。


「我が娘、我がアリス。僕はお前の父親をしている。傍にいることが出来なくてもお前のことをずっと想い、常に心配を寄せていた」

「…………」

「そんなお前がここ最近では男児の如くに様々なことに取り組んでいると言う。これを不審に思わない者がいるはずもない。だが皆には分からない。お前が何を思うのかを」

「……お父様」

「もう一度言おう、アリス。僕はお前の父親をしている。ティレルの家督を継ぎ、貴族として……侯爵として君の父をしている」

「っ……!」


 その言葉にアリスは顔を跳ね上げた。

 その瞳は鋭く、額には脂汗が滲む。

 対してティレル卿の双眸は揺らぐこともなく、アリスの顔を真っ直ぐに見据えた。


(まさか、お嬢様は――)


 先の問い。

 結局それを口にすることは叶わず、真相を確かめることも出来なかったシャロ。


 だがティレル卿の言葉、そしてアリスの態度でいよいよ氷解した。

 アリスがここ最近目覚ましい勢いで勤勉になった事実、覚醒するに至る発端――理由を。


「お父様……端的に言うね」

「なんだい」


 一度呼吸を置いたアリス。

 シャロはアリスの手が強張っていること、そして震えていることに気付く。

 握りしめられる手から伝わるのは汗で、アリスは緊張と恐怖をしていた。


 シャロはアリスを止めようと思った。

 その一言を紡ぐとあれば、後に待つ未来は恐ろしく絶望的だと悟るが故に。


 だがしかし、アリスのその瞳を見た時、シャロは閉口する以外になかった。


 それは怯え、恐れ、泣き出しそうな、そんな弱々しさを思わせるのに、その眼光だった。


 退かないと決めた者の目だ。

 決意をし、前へ進むと決めた者の目だ。

 そして戦うことを選んだ者の目だった。


 アリスの小さな唇が動きを見せる。

 そうして空気が震え、今、アリスはその一言を――


「ティレル家の家督。わたしに頂戴」


――爵位継承権、並びに家督を全て寄越せとのたまった。


 場には緊張が走った。

 それは口にしてはならぬ――否、実現することはほぼ不可能なことだからだ。

 何よりとしてティレル卿はそうならない為にと彼女をベリア家に嫁がせるつもりだった。

 その意思も三年前に本人に告げていた。


 だが彼女はそれに首を振った。

 縦にではない、横にだ。

 では如何するか――となるのが普通だが彼女は更に己がこの家を継ぐと申した。


 前代未聞と言う訳でもない。

 軽く触れたことだが、英国に限っては女性にも継承権が発生する。

 それにはクイーンの同意が必要となる。つまり彼女を説得しなければならない。

 だがそれさえ完了すれば女性でも爵位を賜ることが出来る。


 アリスはそれを望んだ。

 己は何処にも嫁がぬ。

 騎士として、貴族として、軍を従え展開する者として家督を継ぐと。

 故に剣術から兵法、更には経済軍事、他政治等の知識を求め、それの師事を仰いだ。


 シャロは目を見開く。

 想像していた台詞だった。だが出来れば杞憂であって欲しかった。


「――なりません」

「シャロっ……」


 ティレル卿が何かを言う前にシャロが言葉を発する。

 アリスはシャロを睨む。だがそれに対してシャロもアリスを睨む。


「あなた様はそのような立場になるべきではありません、お嬢様」

「わたしが決める」

「なりません」

「わたしが決めるの」

「お嬢様」

「わたしが決めるの!」


 頑として聞かぬ――そんな態度にシャロの中で怒りが燃える。


「お分かりにならないので。父君のお気持ちが、お考えが」

「分かるよ。きっと平和って、そうなんだと思うよ。誰かの庇護の下で平安な暮らしをすることが、きっと幸せで、苦労もないんだと思うよ」

「なら――」

「けどね。わたしはそんなの嫌だ」


 ティレル卿の眉間に皺が寄り、奥で控えていた執事の顔にも感情が走る。

 だがアリスは二者の反応には目もくれず、シャロと対峙するように立った。


「好きでもない人の下で生活をして、好きでもない人と愛を偽って、そうして……子供を産んで。誰とも知らない従者達に世話を焼いてもらう。それって何がいいの?」

「良し悪しでは御座いません。そうすることが正しさなのです」

「正しさ? 何が? ねぇ、わたしの感情はどこにあるの? 何で勝手に決めつけるの?」

「聞き分けてください、お嬢様」

「嫌だ」

「……お嬢様」

「絶対に嫌だ」

「お嬢様……!」


 シャロは怒りをいよいよ露わにするとアリスの肩を掴む。

 だが対してアリスは一歩も退かず、いっそ迎え撃つようにして真正面から睨んだ。


「何故わからないのです……幸福とは、生きることにより初めて実現するのです! 家督を継ぐと仰いましたね。それの意味するところを理解出来ていないお嬢様な訳がありません。ましてや名高きティレル家の御息女とあれば尚のこと……!」

「うん、分かってるよ。当然でしょ。だから剣を習ってるの、だから軍事学を習ってるの」

「それは己から絶望へと迫る愚行です! 侯爵の位を得て立ちたいと仰るのですか! 最前線に、虎口前に! それは戦の場に立つことを意味すると知っているはずです……!」


 ティレル家とは大英帝国が誇る一の槍。

 武家、騎士の家系として古くから王家に仕え戦場では武功を挙げその地位を得た。

 戦況がどうであれ勝利を得るまで退くこともなく、また、如何に不利な状況に陥ろうが前進のみを旨とした。


 軍の能力は突撃。

 白兵戦術を得意とし、後に陸軍統括の地位を得るが――これは後の世の話。

 兎角、家督を継ぐとあればアリスはこの先、常に戦場を臨むことになる。


 それは自然的な死が待つ景色ではない。

 怨嗟渦巻く、そして殺意渦巻く深淵の底を言う。


 禍つ景色に何故麗しの乙女を立たせたいと思うのか――だからティレル卿はベリア家と取り決めを交わし、そんな彼の気持ちを理解したからこそにシャロは仮面を用意した。


 しかしアリスはそんな二人の気持ちや思いやりをも喰らい言う。

 己こそがこの家を背負って立つと。


「何も知らないのです、あなた様は……戦場が如何程に恐ろしいのかを! そこに絶対的な安全などありはしない! マスターが何故、戦の話をしないのか分からないのですか! それはあなた様を怖がらせない為だ……あなた様の想像する以上に人は簡単に死ぬ!」

「っ……分かってるもん、知ってるもん! 先生に聞いたもんっ……人を子供みたいに言わないでよ!」

「分かっていなから言うのです! あなた様は、あなた様はっ……死にたいとでも言うのですか!」

「っ――そんな訳ないっ!」


 その叫びにはその場にいた皆が驚いた。

 対峙していたシャロまでもが目を見開き、数瞬挙動を失う。


 アリスは大粒の涙を零し、それは頬の上に線を描く。

 嗚咽を噛み殺そうとするが、しかし漏れる声からしてそれは叶わない。


 だがアリスは真っ直ぐに立つ。

 シャロを見据え、拳を握りしめ、食い下がるように、必死になって叫び散らす。


「分かってるもん……怖くて、人がいっぱい死んで、安全だって呼べる場所がない……それが戦場だって分かってるもん! それでもわたしはなるって決めた、覚悟してない訳じゃないもん、だから毎日頑張ってたんだもん! 知らないくせに、わたしのこと、なにも、なにもぉっ……しらないくせに!」

「っ……なら、ならっ……選ばないはずです、分かっているのなら、そんな恐ろしい場所に立つと分かっているのなら、選ぶわけが――」

「シャロがいればいいよ!」

「っ……!」


 シャロの言葉が詰まる。


「シャロが、シャロがずっと傍にいて……ずっと一緒にいられるなら何も怖くないよ! 誰かのとこになんていきたくないよ! だったら頑張って侯爵になって、何だってする! シャロと一緒にいられるならどんな怖いことも辛いことも飲み干すよ!」

「そんなの、そんなの一緒だっ……一緒なんです、お嬢様! 嫁いだ先でだって、わたくしは傍にっ――」

「シャロが笑ってくれないなら嫌だ!」


 アリスにとって、そしてシャロにとって、お互いは唯一無二で、互いの存在がなければきっと生きていくことは不可能だ。


 いずれアリスが嫁ぐことになってもシャロは彼女の傍に立つ。

 ティレル卿から直々に頼まれている。

 ずっと彼女の傍にいてくれと。

 それにシャロは頷いた。


 だがアリスはそれを幸せだとは思わない。

 己の気持ちを殺し、感情を隠し、誰かと偽りの関係を築いて、そんな傍に立つ愛する者を思えばこそ、それは間違いなく絶望の景色だと彼女は悟る。


「シャロ、そんなの幸せじゃない! シャロは泣くでしょ、シャロは傷つくでしょ! ずっと感情を殺して、心を殺して生きていける訳ない! そんなシャロ見たくない! 傍にいたってお互い傷付くだけだよ!」

「っ……」

「だったらわたしがシャロを幸せにするんだ! ずっと傍にいて、ずっとずっと愛を囁く! どんな戦場だって怖くないよ! シャロがいるならそれだけで、それだけ、でぇっ……! いいんだもんっ……!」


 アリスのその叫びを受けてシャロは涙を零した。

 その一言はあまりにも幸せだった。

 だがそれはアリスを絶望へと突き落とすことと同義だった。


 しかし、二人が言い合う様子を黙して見つめていたのは――ティレル卿。


「……どういうことかな、シャロ」

「マスターっ……」

「君は、もしや……アリスとそう言う間柄にでもなった、と……?」

「っ――」


 犀利なる瞳――それは殺しを根底に置くような、冷徹の一言に尽きる瞳だった。


 蛇に睨まれた蛙のようにシャロは身動きが取れなくなる。

 更には呼吸までもが止まり、彼女は死を想起する。


 しかし、そんな彼女の前に立ちはだかったのは――


「そうだよ、何がおかしいの、お父様……!」

「アリス……」


――アリス・ティレル嬢。

 涙を流しつつ、嗚咽を漏らしつつ、それでもアリスは己のレディースメイドを――否、愛する恋人を護ろうとする。


 そんなアリスを見てシャロは面を伏せた。

 己の主は、実のところ、大層に胆が据わっている御方だと。

 例え実の父と言えど《鬼のティレル》を前に臆すこともなく、更には睨み返すその胆力には、流石はティレル卿の愛娘と呼べた。


「お父様、わたしを叱るならいいよ……でもシャロを怒らないでっ。シャロはわたしの為にずっとずっと我慢し続けてきたんだよ……わたしを護る為に、支える為にって……!」

「……本当かい、シャロ」

「マス、ターっ……」


 事実だ。それはハートフィールドで告白している。


 だがそれをティレル卿に問われるとシャロは恐れた。

 己は殺される――そう思った。

 けれどもシャロの頭中では様々な想いが駆け巡っていた。


(本物なんだ。このお方は……アリスお嬢様は本物の愛を抱き、私にくれる。どこまでも真っ直ぐで、そこまでも純白で、どこまでも敬虔なんだ……)


 果たして己はなんなのだとシャロは自問した。

 ずっと誤魔化し続けてきた。

 今まで上手くいっていた。

 だが感情、そして心が解放されてからの日常は――


(幸、せ……)


 戸惑うことばかりで、恐ろしくも思った。

 この景色は夢が見せるもので、目覚めたらいつものように景色は冷え切っていて、己は一歩も二歩も引いた位置からアリスを見守るのだろうと。


 だが夢は覚めない。

 夢は見るものではなかった。


 シャロはそれを教えられた。

 それを与えられた。

 全ては愛する乙女、アリス・ティレル嬢がくれたものだった。


 日常が愛しくなった。

 一日一日が惜しくなった。

 共に過ごすと景色はそれだけで輝きを見せ、己の鼓動すらも愛しく思えた。


 そうしてアリスと見つめ合い、手を取りあい、唇を重ねると、死んでもいいと思えた。


(愛って……そういうものなの)


 死んでもいい――どうなったっていい。

 そう思えた。


 例え自身が絶望に見舞われたとて、愛を別つ存在が幸せでいてくれるならば、きっと、それだけで十分だと思えた。


 だがそれを別つと、互いは貪欲になり、願わくば愛する者にも幸福を、と願う。

 そうして気付く。

 その考えに至りシャロはアリスの想いをようやく全て理解した。


(私は……私はっ……)


 シャロを愛し、幸福を与える為にアリスは決意した。

 それは恐ろしく、絶望ばかりだ。

 だがそれでも構わないとアリスは思う。それは愛情だ。


 アリスを愛し、幸福を与える為にシャロは決意をした。

 だがそこにアリスの意思はない。

 それは彼女の自己完結によるもので、シャロは彼女の身を案じるばかりで、本当の意味での幸福を思った時、シャロは己を鳥籠のようだと思った。


 それとはまた別に、果たしてシャロの意思はアリスを傷つけるか否か――傷つける。

 結局はこれも独善に等しく、シャロ自身はアリスが傷つくことや苦しむことを望まない。


 だがアリスは信じていたし、確信をしていた。


〈己はシャロだけのものだ〉と。


 だからアリスは己が誰かの下へと嫁いだら、二人の絆は二度と戻らないと悟った。


「……申し訳ありません、マスター」


 世に善悪、正否と呼べる事柄は、実を言えばない。

 だがアリスの想いこそは真実で、それは純白だった。


 シャロはそんな彼女と対すると気付く。

 己は意思を示すことも出来ず、彼女の愛情に報いることも出来ないのかと。


 応えることは憚られた。

 それはアリスの幸福を破壊することで、きっと、互いに優しい未来は待ち構えていないと悟るが故だった。


 だがもう、彼女は逃げるのをやめた。


 正面から対峙した二人。

 そして正面から自身と対峙したシャロ。


 本当の幸福とは何か――それはきっと、互い、本当は、求めることは同じだった。

 傷つけない為に、そして護る為に――幸せになってくれるようにと願いをこめる。


 そんな幸福の帰結は、本当は、とても単純なことだったのかもしれない。


(一緒に生きること……それがどれだけ幸福なことか。それはとても難しいことだ。でもそれは、願いは、夢は、本当は叶うんだ。ずっと怖かった、それを口にすることが。そうしたらきっとお嬢様は傷つく。でも、きっと……どんな絶望だって、二人なら乗り越えられる筈なんじゃないのか。自分を、お嬢様を、ずっとずっと疑い続けるのか……!)


 彼女はアリスの手を取り、ティレル卿を真正面から見つめる。

 瞳には強い意思があった。それはアリスと同等の覚悟を秘めたものだ。


 そうして彼女は毅然と立つ。

 己と言う存在と対峙し、そして真実を求め、答えを得て、応える為に決意をすると――


「私はアリス・ティレルお嬢様を愛しております」


――そう口にする。


 その言葉にアリスは驚き振り返ると、シャロに抱きしめられた。


「ずっと……ずっと、愛しておりました、お嬢様。ずっと逃げ続けて、ずっと背を向け……あなた様の愛からも、自身の感情からも目を背け。ですが……あなた様はどこまでも真っ直ぐで、恐ろしいくらいに純白で……」


 シャロは静々と涙を零す。

 温かなそれを受けてアリスも再度静かに涙を流した。


「気付くのです……己の幸福とは、そしてあなた様の幸福とは何なのかを。私は……あなた様を失いたくない。誰にも手渡したく……ないっ。そう気付いたら、もう、もうっ……もう、止まれないのです、お嬢、さまっ……」

「シャロっ……」


 いつの日かアリスが口にした台詞――〈誰かの言うことや、世界の定めたものに従い続けるだけじゃ永遠に手に入らない何かもある。己達は偶々そうだっただけだ〉


 偶々と言う言葉がシャロは好きだった。

 それは運命性、或いは因果性を思わせる。


 つまり、言外に、そして意識せずにアリスはシャロに対して純粋な愛を紡いでいた。


 それを思い出すとシャロは胸が温かくなり、それは自信となる。

 己は真実の愛を向けられている。そして己はそれに今、確かに応えたいと願っていると。


「……偽りはないんだね、シャロ」

「……はい。申し訳御座いません、マスター」

「そうか……了解したよ」


 シャロは覚悟をした。

 殺されるにしても、それでも己は愛する者の想いと心に応え、確かに報いることが出来た。

 だからここで滅ぼされても、己には意味が生まれ、確りと愛する者の胸に気持ちは刻まれたはずだと。


 彼女はアリスを抱きしめたままにその時を待つ。

 或いは剣、ないしは銃、ともすれば他の凶器――何で殺されるにしても構わない。


「アリス。継承権を寄越せだのなんだのと……この僕の意思をくみ取れない程にお前は愚かだったかな」

「……愚かなのかどうかは、やってみなきゃ分からないでしょう」

「やらせる? 何を? 軍の指揮を? 君は人の死を受け取められるのか? 自身の死や、責任や、それを差配する立場になることを?」

「っ……覚悟は、できてるもん……!」

「……そうも単純で簡単なことじゃ――」

「なくったって!」


 アリスは叫んだ。

 シャロの手を握りしめながら、震えつつも、それでも愛する父へと気持ちをぶつける。


「シャロを笑わせる為なら、シャロを幸せにする為なら、わたしは歩いていける! シャロと一緒に、どこまでだって行ける、なんにでもなってみせる!」


 その言葉にティレル卿は瞳を伏せた。

 アリスとシャロは息を飲み彼の反応を待つ。


「……そうかい。そこまで……いや、やはり君達はそうも愛し合っていたのか……」

「え、やはりって……」

「き、気付いていらしたんですか、マスター……?」


 ティレル卿は、まるで後悔するように嘆息した。

 アリスとシャロはその様子に若干の驚きをみせる。


「僕を誰だと思ってるんだい、お前達。アリス、お前は僕の娘だよ? そしてシャロ、君を雇い、レディースメイドに任命したのは僕だよ?」

「お父様……?」

「マスター……?」

「噂はよぉく聞いていたし、戦争に行く前からお前達は常々仲がよかっただろう。決定的だったのは婚姻の話だね。あれをしたら二人とも大層様変わりして……あれで確信したけど、今思えば酷なことだったろう。そればかりは謝ろう。済まなかった……」


 そう言ったティレル卿だが、二人の愛の関係に対して反対するでもなく、そもそも驚愕すらなかった。

 同性での恋愛、ましてや主従の間柄だと言うのに、彼の反応にアリスとシャロは若干の混乱をした。


「え、と……お父様……? その……お話、理解してる……?」

「わ、私たちは、女同士で、そのっ……」

「え? 何が可笑しいんだい? よもや歴史を知らんわけじゃないだろう? シャロ、古来より貴族王族とはどう言ったものか……理解しているだろう?」

「え……あっ」

「え、なになに、どういうことなのっ」

「……その、お嬢様。古来より、その……まぁ、なんと言いますか……」

「なに、なんなのっ。気になるよ、早く教えてっ」

「端的に申しますが、あの……多かったのです……」

「なにがっ」

「同性愛、および……同性での性的趣味嗜好が……」

「……えっ」


 はっきりと明言しておく。

 事実だ。それは古今東西、如何なる地方だろうが紛うことなき史実だ。

 特に衆道――男性同士のこれは大流行し、大半の王侯貴族に男妾は控え、一般でも男娼は存在した。


 更には女性――暇を弄ぶ姫君、令嬢方はやはりコンパニオンや侍女と関係を持つことがままあった。


 つまり、どうあっても貴族や王族にとって同性愛というのは歴史的に見ても切っても切り離せない内容だった。

 十九世紀頃になると同性愛も鳴りを潜めるが、しかし歴史ある御家柄とは、つまりは理解力を意味する。


「えっ……えぇ!? そうなの!?」

「はい、事実……王家の歴史でも、やはりそう言ったお話はあります……歴代のクイーンも然り……」

「お、お父様、それ本当!?」

「え、本当だよ? 何か可笑しいのかい?」

((感性が古い人だった!!))


 首を傾げるティレル卿を見てアリスとシャロは内心でそんなことを思う。

 しかしティレル卿は二者の愛の関係を受け入れはするが――


「しかし家督云々についてはね。そればかりは……頷くことは出来んね」

「っ……」

「けれども……そうも頑固だって言うのなら、見せてみるといい、アリス」

「え……?」

「何を呆けているんだい? 君は我が娘、我がティレル家が息女。貴族とは斯くあり。貴族とは……働かず、出歩かず。しかして紳士淑女として〈足る者であれ〉」


 アリスはその言葉に恐る恐ると顔を上げる。


「然らば……〈それを手に入れなければ足らぬ〉のであれば〈足る者〉になればいい。欲しいのなら示さねば。違うかい、アリス?」

「お父様……!」

「認めた訳ではない。だが英国人としての矜持くらい持たずして何がティレルの〈嫡女〉かね?」

「それって……!」

「マスター……!」


 ティレル卿は言う――ならば頷かせてみせろと。

 現実の一つも知らず、歳若く拙いアリス。

 そんな彼女はやはり、戦争の全てを知る訳ではない。


 だが彼女が見せた意思、或いは情熱の全てを受け、彼は無碍にするような外道は実に紳士らしくないと完結する。


 願わくば愛娘には平和の中で安寧に包まれてほしい――だがそれを己の意思で拒むのであれば、現実と対峙しようと言うのであれば《鬼のティレル》として受けて立つべきだ、と。


「まったく、誰に似たんだかね……ベリア卿にも話を通さんとなぁ。少しばかり話を待つように、ってさ」

「お父様……!」

「あー、シャロが僕の言いたかった台詞を全て言ってしまったからね、もう言葉を用意していないよ。まったく、昔からシャロはよくできた子だね。今度またピアノを聴かせてもらえないかい?」

「はっ。畏まりました」


 ティレル卿はそこで一度息を吐くと、途端にくたびれたような顔をした。


「はーあぁ、もう、帰って早々にこれだよ……疲れたし風呂に入ってくる。そうだ、食事は用意できているのかな?」

「はっ。いつでもご用意は可能で御座います」

「ん、了解した。では風呂からあがったら今一度食事の席で続きでもしようか、アリス?」

「っ……! うん……!」


 感触的に悪くはない――アリスはここからが正念場だと悟る。

 だが不思議とやる気に満ちるのは、傍に立つ愛する者のお蔭だろうか。


 兎角、アリスとシャロは互いに笑みを向けると、部屋から出ていこうとするティレル卿を見送るのだが――


「ああ、それと……アリス」

「え? なぁに?」


 振り返りもせずに、ティレル卿は思い出したようにこう言った。


「いいところだろう……ハートフィールド。僕も好きなんだ」


「……えっ!?」

「マ、マスター……!?」

「はっはっはっ。それじゃ、また後でね」


 そんな驚きの言葉を残して彼は湯浴みへと向かった。


「ねぇ、お父様って地獄耳なの……?」

「分かりません……ですが、本当にお優しいお方で御座いますね……」

「うん……あぁ、心臓に悪いよっ、もうっ……」


 緊張から解放された二人。

 アリスを椅子へと腰かけさせると、シャロは労うように言葉を紡ぐ。


 が、アリスと言えば未だに腫れた目元のままにシャロを正面へと手招いた。


「……ねぇ、シャロ」

「……はい」

「もう一度……もう一度聞かせて?」

「っ……お恥ずかしゅう御座いますのでっ……」

「ダメだよ! ついに応えてくれたのに……ねぇ、お願い!」

「……一度、だけですよ……?」

「うん!」


 シャロはアリスの前に跪く。

 それはまるで忠誠を誓う騎士のような姿だった。


 それを前にアリスは黙す。

 ただ一言、何よりも幸せな一言を待った。


「愛しております、お嬢様。あなた様を……心の底から愛しております」

「シャロっ……!」


 アリスはシャロに抱き付く。

 堪えていた涙を零し、その小さな体で必死でシャロを抱きしめる。

 それを受け止めるシャロの顔にはもう、迷いはなかった。

 己の全てを解放し、心に従い、愛する者の為にと決意をした彼女はもう揺るがない。


「愛してる、シャロっ……ずっとずっと、ずぅっとっ……一緒にいてねっ……」

「愛しています、お嬢様……ずっとずっと、あなた様と共にっ……」


 誰の邪魔もなく、そして何の柵もなく。

 二人は愛を誓い合った。


 羞恥もなく、戸惑いもなく。

 二人は唇を重ねる。


 それは音もなく、静かで、穏やかで、けれども二人はこの時、真実として永遠を約束し、夢を叶えた。

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