二十五 生きる意味
とある時期を境にアリスは激変したと噂される。
それはシャロの故郷から帰還を果たしてすぐだった。
朝は目覚めが早く、食事には文句の一つも言わず、勉学には今まで以上に熱心に取り組む。
その姿勢は嘗ての変化――三年前のそれとは比較にならない。
何が起きたか、何があったのか、と誰もが疑問を抱いたが問いを向けることはしなかった。
更にはアリス嬢と言えば芸術や音楽等以外にも新たな分野へと食指を伸ばす。
それこそは――
「えいっ、やぁっ!」
――剣術、そして軍事学。
これにシャロは大反対をした。
何を思ってうら若き乙女が剣を取り軍事の何たるかを学ぶ必要があるのか、と。
しかしアリスはシャロの意見を無視する。
講師を招くと剣の指導を願い兵法を学んだ。
シャロは常々アリスの傍にいたが、アリスの必死な様子には不安も覚えた。
だがアリスは止まらない。
寝る間も惜しむように本を広げ、夜分にもかかわらず部屋の明かりは消えない。
時折様子を見やりに従者達が通りがかれば、そこには机に向かい筆を走らせる令嬢の姿あり。
どうしてしまわれたのか――皆の口癖だった。
今までだって十分に立派と呼べた。
齢十三とは思わせない所作や風格も確かにあった。
だが彼女はそれよりも更に高みを目指そうとする。
令嬢に完璧は求められない。これは絶対だ。
極めてはならなかった。
それは勉学にせよ芸術、他音楽等、兎角様々な分野において知識を広く持つことは求められたが程々が望ましかった。
それは男性の尊厳云々ではない。
それが可愛気というものであり、足らないことこそが人の関心を引く。
だのにもかかわらずアリスはまるで男子の如くに剣を振るい始めるのだから世間は騒ぐ。
恐らくは未だ帰らぬ父を憂いてのこと――如何に御令嬢と言えども名高きティレル家。
然らばティレル卿のお力となるべくその意思をお示しになられたのだろう、と世間は判断する。
だが近くで見る者等の思うことは違う。
それは一心不乱の何もかもで、見ていて不安を駆り立てられた。
「お嬢様、失礼します」
「ん……」
その日の夜、シャロは温かい飲み物を持ってアリスの下へと訪れた。
時刻は丁度日を跨いだ頃合いだった。
だがアリスは筆を走らせることに集中し、返事も素っ気のないものだった。
それにシャロは何とも言えない表情になる。
シャロは彼女の傍へ近寄ると紅茶を手元へと置いた。
そうして瞳を伏せ一つ呼吸を置くと改めて主の名を呼ぶ。
「お嬢様。お茶で御座います」
「うん……ありがとう……」
「……お嬢様」
「ん、なに……?」
「お茶で御座います」
「シャロ……?」
集中の程は驚異的――目を見開き食い入るように資料を見つめるアリス。
その空気感は、或いは狂気をも醸す程だったが、けれどもシャロはアリスの手に己の手を重ねる。
そうするとようやくアリスは意識を完全にシャロへと向ける。
伝う体温を感じてアリスは己の体温が酷く低下していることに気付いた。
空気は未だに冬で、当然夜分は冷えた。
寝間着のみで羽織るものもなく、思い出したように身震いをするとシャロを見つめた。
「ごめん、もしかして心配させたかな……」
「……いいえ。真面目に取り組まれているところに邪魔をして申し訳ありません」
「ううん、有難う。止めてくれて……」
「お嬢様……」
シャロは何処となく憂うような表情でアリスを見下ろすと傍へと寄り、温かな羽織を着せた。
包まれるような温もりを感じるとアリスは不思議な程に安堵し、ついで肩に乗るシャロの手を握りしめそれを己の頬へと寄せる。
「……訊かないんだね、何も」
「……憚られることで御座いますれば」
「そうかな。でも心配なんでしょう?」
「…………」
「言わなくても分かるよ。シャロのことくらい……」
上目使いを寄越されたシャロは唇を噛みしめた。
「……お嬢様。流石にこんな調子ではお身体を壊します」
「ん……でも、今のところは大丈夫だから」
「今は、です。何があったのか、どうして急に様々なことに熱心になられたのか……それを問うことはしません」
「……うん」
「ですが……お願いで御座います、お嬢様。どうかご自愛くださいませ……」
「シャロ……」
若干の震えた声にアリスは胸が締め付けられる。
シャロの手から伝う温もりに絆されつつ、アリスは彼女を正面へと招いた。
そうして己の腕を広げると申し訳なさそうな顔をして、けれども照れを思わせる表情で言葉を紡ぐ。
「ねぇ、シャロ。温めて」
「えっ……」
「酷く冷えちゃったみたい。紅茶も美味しいけど……シャロがいいの」
「……お嬢様……」
シャロは恐る恐ると腕を伸ばし、アリスの華奢な背を抱き寄せる。
密着するとアリスの身体が大層疲れていることが感覚から分かった。
首は凝り固まり背は軟く、腕の動きはぎこちない。
シャロは己の胸の中へと顔を埋めたアリスを見下ろすと、尚更に悲しい表情をしてアリスの頭を撫でた。
「……ねぇ、シャロ」
「……なんでしょうか」
「前に言ったよね。わたしの気持ちに応えることはできないって」
「…………」
事実だった。
自身の気持ちを答えはしたが、それでもアリスの気持ちに応えることはできないと彼女は口にしている。
それを寄越されてもアリスはめげもせず、日々愛を紡ぎ、唇を重ね、時に人には言えないような劣情の景色に二人して沈んだ。
だがそこから先はない。
愛を交わしはするがそれだけで、二人は、結局は他人の間柄、主従関係でしかなかった。
「シャロは頑固だから、だから……わたしの命令でも首を縦には振らないでしょう?」
「……はい」
「ふふっ、でもそんなところが好き。ねぇ、大好きなの、シャロ」
「お嬢様……」
「だからね……頑張るんだぁ。絶対にシャロを幸せにするんだ。だって相思相愛なんだもん。だったら叶えたいよ。夢はね、シャロ。叶えるものなの。わたしはそう信じてる」
「っ……」
「心配をかけてごめんね。でも、大丈夫だから。止まる訳にはいかないし、シャロを手放したりも、しないっ……」
「……? お嬢様?」
シャロはアリスの息遣いを聞くと嫌な予感が過った。
急いで身を離すとアリスの額へと手を宛がう――と、同時にその熱量に思わず驚いてしまう。
体躯は未だに冷たいが、それは内部に熱が籠っているからだった。
アリスの吐息は荒く、更には熱っぽかった。瞳は潤み、それは単純に疲弊を物語る。
「げほげほっ……ああ、もうっ、我慢してたのにっ……」
「お嬢様、まさかお気づきになられていたのでっ」
「そりゃあ、自分の身体だもん……げほっ。うぅっ……」
「これは大変……至急医者をお呼びしますっ」
思考が恋する乙女から侍女のそれに切り替わると彼女はチャームを鳴らす。
その音を聞くと直ぐ様に女中が駆けてきてアリスの部屋へと飛び込んできた。
「なにごとですか!」
「そこのあなた、至急お医者様を!」
「シャロ様! お嬢様は如何なされたので!」
「風邪です、咳もあります! 症状は高熱と咳だとお医者様に先だってお伝えなさい!」
「はっ、畏まりました!」
忙しなく駆けていく女中を見送るとシャロはアリスを抱えてベッドへと運んだ。
思い出したようにアリスの身体は汗をかき、シャロは寝かせたアリスの額を拭いつつ、他の従者を呼ぶと氷と水を持ってくるようにと命令を下した。
「もうっ、おおげさだよ、シャロ……げほっ……」
「何を仰いますかっ……大袈裟だろうがなんだろうが、こうもなりますっ……」
「シャロ……」
「無茶ばかりだからです……身体を壊しては本末転倒なのです、お嬢様っ……」
「たかだか風邪だよ……そんなに、そんなに……悲しそうな顔をしないで、シャロ……」
シャロの性格からして、恐らく彼女は自責の念に駆られていた。
己の管理が行き届いていなかったと。
それがレディースメイドの役割であり、それを怠ったが故に主は風邪をひいてしまったのだと。
だがアリスはそんなシャロの頬へと手を添えると微笑んだ。
「ねぇ……どうしていつもそうなの、シャロ」
「何がですかっ……」
「どうしていつも……わたしをそんなに心配して、大切にして……愛してくれるの」
「っ――……」
その問いを向けられたシャロは数瞬挙動を失う。
だが、彼女は己の頬へと添えられたアリスの手を取り握りしめると、毅然と言葉を返した。
「あなた様を心底、心底っ……慕い、愛し……欲するが故ですっ……」
支えになるべく――それは転じれば、その者なしでは生きていけないのと同義だ。
アリスは目を見開いた。
シャロのその返事はあまりにも幸せで、それと同時に彼女の覚悟の全てを見た気がしたからだ。
「あなた様が全てなのです……あなた様と出会ったあの日から、私の中にはあなた様しか存在しないっ。映る世界にあなた様がいるから……だから意味があるっ」
「シャロ……」
「我が生涯は全てあなた様に捧げたのです。それでいいと思えたから、だからこの立場を欲した……あなた様を御守りし、支えることが私の生きる意味ですっ……」
「っ……」
「お願いです、お嬢様……お願いですから、もう無茶は止めてくださいっ……」
零れた雫――涙を見てアリスも感情が溢れた。
二人は声を漏らすこともなく、静かに冬の雨に包まれる。
騒ぐ回廊からは、じきに医者がみえる。
だが如何なる薬を持ち寄ったとて、恐らくこの病だけは治せまい――アリスとシャロは最早後戻りはできないと実感をする。
(ああ、わたしは、本当にシャロのことを――)
(……もう、誤魔化すことはできない。私は、アリス様のことを心の底から――)
不治の病とは、つまりは恋煩いを言った。
((愛してるんだ……))
乙女と佳人はこの瞬間、初めて互いの心が一つになった気がした。
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