二十四 思い出


 佳人は指を鍵盤におく。

 配置は通常と変わらない。


 足を動かしペダルの感覚を確かめる。

 踏み込むとその軟さに感慨が浮かぶ。


 指をおき、足を動かす――当然の動作だった。

 だが全てが懐かしく、それは時の経過した現在でも変わることは何一つなかった。


「…………」


 シャロは瞳を伏せる。

 いつも通りに寡言な彼女だが、しかしこの景色の中、彼女はその頬を緩め、目元は優しげだった。


 彼女は己の宝物に久しく触れていた。それはスクエアピアノだった。

 黒の一色に染め上げられたヴィンテージな外観。弦は軽くペダルも軽い。

 いっそ叩き、或いは踏み込むと笑みが零れるくらいに動きは曖昧だった。


 古い。特別高価な訳でもない。

 造りは一般的に普及する程度のもので、木材からしてもボディの鳴りは大した程度でもない。


 だが、それが素敵で、それが彼女の全てだった。それでよかった。

 彼女は懐かしさに包まれると、冬の木洩れ日の中、思うがままに指を動かした。


(――ああ)


 鍵盤の上を舞うように指は自然と動く。

 ペダルの感触には違和感があったが、その違和感があるからこそに彼女は余計に楽しかった。


 即興で奏でる音楽。

 彼女はアドリブを好む。

 例えば題目があり、曲を求められたらそれに応えることは可能だ。

 だが彼女が自然と指を動かす時には彼女の感性のみが働く。


(Gmaj7……A6……Bm……A6……)


 テンションコードをふんだんに使う。

 テンポはミディアム。

 儚い旋律は景色を彩り、シャロの心の世界が構築されていく。


(――E7sus4、D6add11、Bm11……D6……)


 この五日間、怒涛とも呼べた。

 封じた心は解放され、愛を紡がれ、けれども――それに幸福を得た。


 未だに胸中に迷いはあった。

 後悔も当然あり、焦燥や不安、そして恐怖も顔を覗かせる。


 だがそれでも、彼女の心の奏でる音楽はそれを掻き消すかのように優しい音を奏で、柔らかく、温かい景色を描き出す。


 冬の木洩れ日の中、心を奏でる佳人は笑んでいた。

 そのしなやかな指は全てを制し、その心は全てを受け入れ全てを愛した。


 迷い――それでもいいと思えた。

 もう彼女は心を誤魔化すことが出来ない。

 全ては真実で、全ては純白だった。


 だからこそ彼女の心はその音楽を奏で、それを愛する者へと――


「っ……」


 アリス・ティレル嬢へと捧げた。


 アリスは傍に立ち、彼女の全てを見て、世界を感じると静かに涙を零した。

 シャロの笑みは優しく、心の温かさは音に現れる。

 それは全てを許し、全てを包み込むかのような母性に溢れていて、それに近づき心を開くと、アリスはシャロの心の中を垣間見た気がした。


 空気はマイナーでテンションはミディアム。

 何となし儚い印象なのに、それでも不思議な程にその音楽は優しく、朗らかで、寛大で、何よりも慈愛に満ちていた。


 アリスは瞳を閉じ、心でシャロへと歩み寄る。

 世界にはアリスとシャロだけで、広がる冬の景色は心地よかった。


 寄り添う二人は自然と笑みを浮かべ、そうして互いの顔を見合い――


「愛してるよ、シャロ」

「愛しています、お嬢様」


 そんな言葉が響いた。

 それが夢か現かは定かではない。

 けれども、音楽が止み、瞳を開いたアリスはシャロの背に抱き付くと静かに嗚咽を漏らした。


「……聴こえてたよ、シャロ……」

「お嬢様……」

「ありがとう……ありがとうね、シャロっ……」

「……勿体無い、お言葉で御座います……」


 その場には父母も居合わせていたが、空気を察した二人は静かにその場から立ち去る。


 木漏れ日の中、泣きじゃくるアリスを抱きしめ頭を撫でるシャロの姿は女神のようで、そんな彼女に泣きつくアリスは、誰がどう見ても天使のようだった。


 ◇


 アリスとシャロはまとめた荷物を馬車へと詰め込み、両親に別れの言葉を告げると五日前にきた道を再度辿る。


 長かったようで短かったこの五日間。

 その内容は濃く、まるで一日一日は白夜のそれと同義にすら思えた二人。


「いいところだったなぁ、ハートフィールド……」

「……お気に召しましたか、お嬢様」


 揺れる車内でアリスは言葉を零す。

 シャロに寄り添うように座るアリスは惜しむような素振りで、その様子にシャロはどうしたものかと悩んだ。


「ねぇ、やっぱり今から戻ろ――」

「なりません」

「ぶーっ……シャロのけちっ」

「けちで結構で御座います」


 村を発つ際、アリスは涙を零した。

 シャロの両親に別れを告げたはいいものの、その時になるとやはり寂しさを覚える。


 己の生まれ故郷ではないにせよ、ハートフィールドでアリスは多くの人々と関わり、皆に愛され、また、多くの思い出を手にした。

 その思い出で一際輝きを見せるのは、やはりシャロの関係する瞬間だった。


「ねぇ……またきたいよ、シャロ」

「…………」

「やっぱりダメ……?」

「……お嬢様。何度も申しましたが……再度、と言う訳にはいきません」

「……だよね……」


 アリスは何度もそう口にした。

 必ずまたこの村に戻ってくると。


 その言葉を向けられた父母や村の住人達は満面の笑みを浮かべて彼女を送り出したが、しかし皆は二度と彼女がこないことを察していた。


 今回は一つの事件だと皆は理解をしている。

 だがそれでも見て見ぬふりをし、更には彼女を迎え入れ、この五日と言う時間を最高のバカンスにしてあげようと村ぐるみで考えた。


 名高きティレル家の令嬢。

 されども自由を欲しがるだろう時分だ、鳥籠を飛び出して何が悪いのか――そう言う人々にシャロは呆れるばかりだったが、しかしその心意気に救われもした。


 結果的に何の問題もなく五日間は終わりを告げたが、過ぎてしまえば一瞬で、さりとて思い返せば愛しい日常のそのままだった。


「……お嬢様」

「シャロ……?」


 しょぼくれるアリスを見たシャロは心が痛む。

 だが気の利いた台詞の一つも思い浮かばなかった。


 しかし愛する主人を放っておくわけにもいかぬとシャロは必死で考え、アリスを抱きしめて名を呼んだ。


「……気安く触れることをお許し下さいませ」

「ううん、咎めるつもりなんて……」

「その……酷く傷ついている様子でしたので」

「……その為に抱きしめてくれたの?」

「要らぬ世話かもしれません。ですが……これしか術を持ち得ません」


 貴族とは斯くあり――貴族は働かず、出歩かず。


 今回のことがティレル侯爵に知られたら関係した者等がどうなるかは分からない。

 如何に優しいティレル卿とは言え、愛娘が見知らぬ土地で生活をしたと知れば当然御冠になる。


 下手をしたら失業者が大量に生み出されるかもしれない。

 箱入り娘、籠の鳥――そう揶揄されることがしばしばの令嬢方だが、けれどもそれもまた親の愛情だったりする。

 何よりとしてティレル卿の呼名として世に知られるものといえば《鬼のティレル》――優しさよりも徹頭徹尾とした戦の手腕こそが畏敬を集めている。


 シャロはアリスの気持ちを察しはするが、やはり仕えるマスターの意思こそが全てであるのは変わりがない。故にアリスの外出の願いには頷けない。

 ただ、それでもシャロは身を寄せると静かに言葉を紡ぐ。


「……わたくしが傍におります」

「っ……」

「寂しくないように、怖くないように……辛くないように。このシャロが……あなた様の傍におります」

「シャロっ……」


 それがレディースメイドだから、と言葉を続けることはなかった。


 シャロは瞳を伏せアリスを強く抱きしめる。

 そんな彼女の行動にアリスは言葉を失うと大粒の涙を零し、縋るようにしてシャロに抱き付いた。


「楽しかったねっ……すごく、すっごくっ……幸せだったよっ……」

「はい、お嬢様……」


 馬車は揺れる。

 景色に広がるのは草原と田畑。


 見飽きたような情景と言えたが、しかしシャロはその景色を捉えると瞳が潤んだ。


 そうして二人は身を寄せ合ったまま、名残惜しむように景色を瞳に焼き付け、ロンドンへと帰参を果たした。

 

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