二十三 不意打ち
目覚めた時、アリスは夢と現とを勘違いする。
何せ目の前には愛しの佳人がいた。
佳人――シャロは静かな寝息をたてていた。
瞼は深く閉ざされ、口元は若干緩い。
「…………」
見惚れる程にその寝顔は美しく、アリスはシャロを隈なく観察する。
長い睫毛、雪のような肌、桃色の小さな唇――それらだけでも既に完璧と呼べた。
シャロの長い黒髪がベッドに広がる。
それを指で梳くとあまりの心地の良さにアリスは微睡む気分だった。
が、そうしていると佳人に変化が起きた。
「んっ……」
小さな呻きを漏らしたシャロ。
その様子にアリスは内心で焦ったが、しかし窓から射し込む陽の光を見やり、時刻を凡そで判断する。
つまり、彼女の髪を弄んだり、或いは表情を観察したりせずとも、シャロは自然的に目を覚ます時分のようだった。
彼女の緩やかな覚醒を目の当たりにするアリスは朝から役得である、と内心で歓喜する。
「おはよう、シャロっ」
「……お嬢、様……?」
薄く眼を開いたシャロに朝の挨拶が寄越される。
紡がれたソプラノにシャロは呆けたような返事をするが、間も無く驚いたように彼女は跳ね起き、そうして己の隣で横になっている主を見下ろした。
「なっ、何故ここにっ」
「何故って……昨日の事、覚えてないの?」
「昨日のことっ……」
言われてシャロの脳内で昨夜の出来事がフィードバックする。
その内容たるや華々しく、シャロは刹那で取り戻した記憶を辿ったらば目覚めてすぐに顔を紅潮させ、静かにベッドに沈んでしまった。
「シャ、シャロ……?」
「……忘れてくださいませ、お嬢様」
「えぇっ、そんなに恥ずかしいのっ」
「……当然の事で御座います」
疑う余地もなく襲われている光景――どころか迎え入れ誘い受けるかの如し己の態度。
昨夜のそれは戯れか、或いは一時の狂いであったと彼女は思う事にする。
(私としたことがっ……)
後悔する程だった。だがそれに反して胸の高鳴りと言えば素直だった。
初めて唇を奪われた日とはまた違う淫靡な景色。確かに互い同じ気持ちを抱き、間違いなくそれを互いに向けていた。
状況は途中で終わりを迎えたが、それでも愛のある行為と言うのは気持ちのいいもので、シャロは身体の疼きを誤魔化すように自身の身体に喝を入れ、ベッドから起き上がり身形を整える。
「……シャロってさ、切り替え早いよね」
「当然の事で御座います」
「けど取り繕うのは下手だよねぇ」
「っ……」
未だに赤いままの顔は誤魔化しが効かない。
とは言え見られまいとする彼女はアリスに背を向けるのが精一杯だった。
だがそんな彼女の袖を引くのはアリスで、シャロは呼びかけに対して静かに振り返るのだが――
「それでいて不用心だったり、ね?」
――ベッドの上で膝立ちになっていたアリスはシャロの唇を奪う。
不意を突かれた事にシャロは驚き、更には焦る。
だがアリスを支える為にと差し出された両の腕は、流石はレディースメイドと言ったところかもしれない。
「えへへっ。お目覚めのちゅー、おいしかったですっ」
「お嬢様っ……」
「ダメだった……?」
上目使いで問われるシャロ。
心臓は早鐘を打ち脳内は乱れ、正常を早々に手放す羽目になる。
シャロはアリスを支えつつもその腕でアリスを迎え入れたらば、静かに、そして優しく抱きしめ、更にはアリスの耳元へと唇を寄せると――
「困りますっ……」
「っ――……」
そう、悩ましげな声で思いを告げる。
寄越された抱擁と言葉にアリスもまた顔を赤く染め上げ、茹でた蛸のようになると静かにシャロから身を離し、再度シャロを正面から見つめるのだ。
「……ずるいよね、シャロって」
「……何がでしょうか」
「そんな台詞言われたら、無理矢理にでもしたくなっちゃうよ……!」
シャロの手を引くアリス。
対してシャロは抵抗をするが力は弱く、アリスの胸元へと引き寄せられた彼女はそのままに胸の中へと招かれる。
迫ったアリスの小さな胸――アリスの薫香を聞くと不思議な程に安らぎを得る。
アリスの胸の中へと沈むシャロは、再度夢の心地に浸る気分だったが――
「だから、もう朝で御座いますのでっ……」
「わわっ」
このまま流されてはならぬと喝を入れると立ちあがり、逃げるような足取りで自室から出ていった。
そんな彼女を見送る形になったアリスは、早朝の部屋の中、少々呆けた後――
「――……わたし、やっぱり壊されちゃったよ、シャロ……」
止まぬ胸の高鳴りをどうにか落ち着かせようと、ベッドの上で深呼吸を続けるのだった。
そんなアリスの努力を知らぬシャロと言えば、既に一階で朝食の準備を始めていた母の手伝いに混ざる。
「おはよう、シャロ」
「お、おはよう、お母さん……」
母の顔を直視できないシャロ。
その理由こそは後ろめたい事があるからで、昨夜の情事が聞こえていなかったかと胸中は穏やかではない。
が、そんな心配も杞憂だった。
母は特に訝しんだ素振りもなく、手慣れたように食器を用意し食材を並べていた。
「ところで、本当に今日帰っちゃうの?」
「え? あ……うん」
本日が五日目、つまりは最終日だった。
昼頃に御者が迎えに来る算段で、それまでにシャロは己とアリスの分の荷物の準備を完了させる予定だった。
「そんなに急いで帰らなくったっていいのに……」
「そうもいかないのよ。お嬢様がいらっしゃるんだから」
「いいじゃないの、もう一週間くらいは」
「ダメに決まってるでしょっ……」
想像するだけで生きている心地がしない――シャロの青褪めた顔に首を傾げる母だったが、やはり名残惜しむように唸った。
「でも、アリスお嬢様ってばすっかりこの村が気に入ったご様子だったわよ?」
「……だとしても、早く帰るに越したことはないのよ、はぁ、参ったわ……」
「そんなもんかしらねぇ……それにしても、ねぇシャロ。なんだか久しぶりね、その感じ」
「……え?」
紡がれた言葉にシャロは包丁の操作を止める。
「ここ数年、あなたってば帰ってきても上の空で、反応の一つとっても……何だか妙っていうか、らしくなかったから」
「……そうだった?」
「そうよぉ。それこそ無理をしているみたいで、こっちは心配だったんだから」
「心配……」
仮面を用意し、己の気持ちをひた隠し続けたこの数年間。
それはどうやら城の外――アリスの傍以外でも他者に不信感を与えていたらしい。
「けどよかったわ。アリスお嬢様と一緒に戻ってきた時はすっごく驚いたけど……昔の頃みたいに、分かりやすくて素直な子に戻ったわねぇ」
「……何だか単純な人間って言われてる気がするけど」
「何か可笑しい?」
「可笑しいでしょ……」
恍けるような母の態度にシャロは呆れの溜息を一つ。
そんなやり取りをしつつも母はスープを完成させ、シャロは副菜等の準備を完了させていた。
それ等を持ちテーブルへと運ぶと、丁度朝に弱いシャロの父が起きてきた。
「ふあーぁ……おはよう、母さん、シャロ……」
「朝くらいちゃんと起きてよ、お父さん」
「そうは言うけど、特に冬の朝はねぇ……ふあーぁ……」
尻をかきつつ歩いてくる姿にシャロは眉間に皺を寄せる。
朝から寄越された娘の蔑んだよう眼差しに父は困ったように頬を掻くが、しかしそんな彼の言葉を待つ事もせず――
「おはようっ、シャロパパさんにシャロママさんっ」
「おぉっ、お早うございます、アリスお嬢様っ」
「あらあら、今日は早起きですわね、お嬢様っ」
――階段から駆けおりてきた己の主へと注意を向け、即座に瞳は鋭くなり姿勢までもが正される。
そんな変化に父母は何も言うことはせず、今朝も早くから元気溌剌とするアリスに朝の返事をした。
「……お嬢様、朝から駆けてはいけません。階段は落ち着いて降りてくださいませ」
「ぶーっ、いいでしょ、落ちもしなかったんだからっ」
「結果は別の問題で御座います。これはマナーの問題です、お嬢様」
「むむぅーっ……!」
朝から睨み合う両者――これも毎朝の事、と父母は思うが、しかし当人達にしか分かり得ない変化もあった。
それの一つこそは距離感でアリスはシャロに纏わりつく。
それをいなすシャロと言えば手馴れていたが、しかしその自然な様子と言えばやはり二人にしか叶わない景色だった。
そんなこんな、賑やかしい一家の朝は皆で卓を囲む事で始まりを告げるのだが――
「そう言えばシャロ。今年はピアノ、弾かないのね?」
「えっ……」
「ん……?」
その一言でシャロは思い出す。
シャロ邸にはシャロにとって大切な宝物がある。
それは彼女が幼い頃からあったもので、彼女はそれを愛し、日々を共にした。
アンティーク調の外観をしたそれの名前はスクエアピアノだった。
「あぁー! それ聴きたい! 見たいよシャロ!」
「す、すっかり忘れてたっ……」
アリスはいつの日か聞いたその話を思い出すと大きな声をあげてシャロの肩を掴み、当のシャロと言えば、この目まぐるしい五日間、すっかり宝物の事を忘れていた。
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