二十二 傍に
アリス・ティレル嬢は扉の前に立つ。
(……大丈夫。大丈夫だよ、アリス……落ち着いて、平常心っ!)
夜半、人の気配はない――否、あることはある。
だが住人は皆寝入っている。
とは言えこの住まい――シャロ邸にはシャロ本人をのぞいて父母のみしかおらず、城に住まう数と比べればある意味では無人に等しくも思えた。
そんな静寂の中、アリスは何やら決心をすると扉に手をかけ開いた。
床を軋ませて一歩を踏み出し、そうして室内へと踏み込む。
「…………」
「……シャロ?」
その部屋はシャロの自室で、彼女はベッドに腰かけていた。
アリスが入ってくると何故か一瞬身を跳ねる。
遠くから見える彼女の後姿――その耳は赤く染まっていた。
名を呼び、アリスは更にシャロへと接近した。
「えっと、その……呼ばれた通りにきたけど……?」
この夜、アリスはシャロに呼び出された。
従者が主人を呼び立てるとは何事か――と、アリスが怒ることはない。
招いた理由こそは昼頃の褒美の件だった。
本日、アリスは目覚ましい勢いで熱心に勉学に取り組み、その姿勢にシャロは甚く感動を覚える。
日頃勉強を嫌うアリスだが、褒美一つでここまで変わるのか――そう思う程で、シャロは自身が口にした手前、褒美の件をどうにかせねば、と悩み続けた。
そうして夕餉になるまで内容は思い浮かぶことはなく、はて、どうすべきか、と更に思考を巡らせると、彼女は一つの答えに行き着いた。
「……夜分、お呼び立てして申し訳ありません、お嬢様」
「ううん、それはいいけど……」
シャロはベッドから立ち上がるがアリスを見ることはなかった。
瞳は伏せられている。更に顔は赤く染まり、手は組まれているが落ち着きなく動いている。
その様子を見たアリスだが、疑問を抱くことはなかった。
(やっぱり、これって……それだよねっ……)
確信に等しいものがあった。
それと言うのも先刻、湯浴みを済ませた彼女にシャロが紡いだ台詞――夜、部屋に来ていただきたく、と言う言葉。
これだけでアリスは悟り、心音はその頃からがなりたてた。
先まで扉の前に立っていたアリスは扉を押し開くことすら躊躇し、何度も取っ手を握っては放し、握っては放しを繰り返した。
一つ、二つと呼吸を整え、いざと決心をして踏み込めば、件のシャロの態度はこれだった。
最早これでは落ち着くことも出来ないとアリスは更に緊張をし、シャロの顔を真っ直ぐに見ることも出来ない。
「…………」
「…………」
寡黙にならざるをえない――生まれた静寂に居心地の悪さを覚える二人。
果たしてそんな空気を先に崩したのは――
「お嬢様……」
シャロだった。
シャロは赤い表情のまま、それでも瞳を開くとアリスを見つめる。
向けられた眼差しにアリスは殊更に心臓が跳ね、全身の脈が急く。
「昼頃の取決め……約束ですが。その、ご褒美の件なのですが……」
「う、うん……」
「申し訳ありません。何分、この田舎ではお嬢様に見合う物品と言うのも数少なく、更には歳若いあなた様にとっては価値のないものばかりで御座います」
「そ、そうなんだぁー……」
「それで……なのですが」
熱っぽい瞳を僅かに伏せるシャロ。
その仕草にアリスの心は掻き乱れ、視界には星が瞬く。呼吸は矢継ぎ早になり、興奮は徐々に増した。
そんなアリスの様子を瞳に映すこともせず、シャロは言葉を続ける。
「その……お嬢様が先日仰っていた、その……その、続き、と言うもの、なのですが……」
「うん……」
「……その……」
「うんっ……」
じりじりとアリスはにじり寄る。
対するシャロは完全に面を伏せ、その赤熱した顔を見られまいとする。
しかしそれ故にシャロはアリスの接近に気付いていない。
そうして気付かぬままに――
「わたくしで、そのっ――」
「最高のご褒美だね、シャロっ……」
「えっ――」
眼前まで迫っていたアリスに無理矢理に唇を奪われてしまった。
まるで背の差や歳の差など関係ないとばかりにアリスは彼女に迫り、覆い被さると口付けを幾度も交わす。
既に互いの抱く熱と言えば冬らしからぬ程で、薄く浮いた汗こそが興奮の度合いを物語っていた。
アリスは野獣のような瞳でシャロを射抜く。
向けられた双眸にシャロは一瞬呼吸が止まる程だった。
「ご褒美……それってどこまで?」
「……それは、お嬢様次第かと」
「ねぇ、わたしをどうするつもり?」
「どうする、とは」
「狂わせるの?」
「……お互い様で御座います」
狂いそうだった――そうシャロは先日アリスに伝えた。
それ程に己はあなた様を愛している、と。
それをアリスもこの瞬間に感じた。
「愛しくて、可愛くて……壊しちゃいそう」
「……お嬢様にそうされるのならば、それを受け入れるまでで御座います」
「壊して欲しいくせに」
「お嬢様こそ。壊れたいくせに」
「ふふっ……口答えまでする。本当、今までの鉄面皮はどこにいったの?」
「あなた様に奪われました」
「嬉しい?」
「……複雑です」
「今も?」
「……訊かないでください」
仮に正否、善悪を定めるとすれば、この関係に正義はないのかもしれない。
だがもう止まることは出来ないのかもしれないと、シャロはそう思い顔を背ける。
「ねえ、シャロ。わたしはこれでいいと思うの。幸せを得るって、そう言うことだよ」
「……どういうことでしょうか」
「誰かの言うことや、世界の定めたものに従い続けるだけじゃ……永遠に手に入らない何かもある。わたし達は偶々そうだっただけだよ」
「…………」
「不安なの?」
そう訊かれたシャロだがそれには首を横に振る。
「否で御座います。わたくしは如何なる状況であれ不安を抱くことはありません」
「……強いんだね」
「あなた様を護り、支える為にと精進してきましたから」
「流石はわたしのレディースメイドだね?」
「はい。だから――大丈夫です、お嬢様」
「っ……」
不安なのはアリスの方だった。
彼女は段々と緊張と共に恐怖を覗かせた。
それはシャロの身体に触れ、いよいよ衣服に手を掛けようとした時だった。
「……それでもね、シャロ。わたしは……シャロと一緒がいいっ……」
「……はい」
「絶対に、絶対にっ……どこにもいかないでよ、シャロっ。傍にいてっ……」
「……お嬢様」
熱を別ち、触れ合い、そうしてその先へと行けば――もう後戻りは不可能だ。
それは幸せの道だ。だがそれと同時に虎口へと向かうことになる。
父を裏切り、皆に背を向ける事を意味する。
それは恐怖で、不安で、アリスは実感を得ると涙を零してシャロにしがみつく。
そんなアリスを受け入れたシャロは静かに彼女を抱き寄せ、頭を優しく撫でた。
「お許しを、お嬢様。こうすることをお許しくださいませ……」
「……久しぶりだね、こうしてくれるの」
「……そうでしょうか」
「うん。昔はよくやってくれたね。わたしが泣くと、こうして抱きしめて、撫でてくれた」
「……そうでしたね……」
「ふふっ……最高の、ご褒美、だなぁ……」
アリスはそうしてシャロの腕の中で寝息を立てる。
そんな愛しい想い人の寝顔を見つつ、シャロは頬へと口付けをする。
「……あと、一日」
残る日数。
ハートフィールドでの五日間は濃く、それにより得た物は多かった。
だがそんな愛しい日々も、残る所僅か一日だった。
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