二十一 初心


 四日目の昼だった。

 昨夜、互いの気持ちを打ち明けたアリスとシャロと言えば――


「つまり、この当時のイングランドはフランスへと攻め入る際に……」

「……ねぇ、シャロ?」

「何でしょうか、お嬢様」

「あのね……なんでお勉強してるのかな?」


 まるで昨日のことなどなかったかのようにいつも通りの日常を過ごしていた。


 その日、アリスは目覚めると直ぐ様にシャロの部屋へと向かった。

 初日以降、宛がわれた部屋で過ごしていたアリス。

 シャロの口から本心を告げられた昨夜はどうしても夜を共にしたかったが、しかしこれをシャロ本人に断られた。


 何故駄目なのか、と諦めきれずに食い下がったアリスだったが、その返答としての――何を仕出かすか分からない、と言う台詞と赤く染まったシャロの表情を見れば、果たしてそれはどちらの正常を問うのかと思ったりもする。


 アリスは仕方なく客室へと引き下がると、こうして明けた日になり直ぐ様シャロの下へと向かう。

 早朝のシャロの態度は普段通りだった。

 ハートフィールドにきてからは毎朝彼女が朝食を作り、それをアリスは黙々と食べた。


 食事が済み、洗い物も済み、掃除も済み、さあいよいよ昨日の続きをしようと逸ったアリスだったが、シャロは教鞭を持ち出すと、勉強をしましょうと言う。


 そうして昼の今に至るまで延々と国史が続いた。

 最初はアリスも我慢をした。

 これもシャロの照れ隠しで、未だに彼女は心の整理がついていないものだと思った。


 しかし教鞭を振るう彼女と言えばまるで城にいる時のようで、もしかしたらこれは先日の件を有耶無耶にするつもりなのでは、とアリスは思う。


「何故、で御座いますか」

「うんっ」

「時が惜しいのです」

「何も惜しくないよ! 休暇中でしょ!」

「素養を得ることに休みは御座いません、お嬢様」

「ぐぬぬっ……だからって本広げて教鞭まで持ち出すことはないよっ」

「お気に召しませんか」

「そういう問題じゃなくって!」


 あっけらかんとするシャロにアリスは煽られ、膨れ面をして反抗の意思を示す。


(……あれ?)


 しかしアリスは気付いた。

 今日のシャロはいつも通り、普段通りのようにも見えるが若干の違いがある。


 一体何が違うのか、と疑問を抱きつつもアリスはシャロをよく観察すると――


「……ねぇ、シャロ?」

「何でしょうか」

「シャツなんだけどね」

「はい」

「ボタン、かけちがえてるよ」

「……はい?」


 そう言われてシャロは己のブラウスを見る。確かにボタンが一つずれている。


「それとね、シャロ」

「な、なんでしょうか――」

「綺麗だよ。お化粧」

「っ……!」


 本日のシャロは少々可笑しかった。

 身に纏うブラウスのボタンは掛け違えていた癖に、何故かメイクは丁寧で、いつも以上に美に磨きがかかる。


 ちぐはぐだ、とアリスは思ったが、いつも通りを意識しすぎて逆に覚束ないシャロを理解すると、胸の中には愛しさが溢れ、更には抱きしめたい衝動に駆られた。


「……いつもより綺麗だね。なんで?」

「あ、いや、これは、その」

「お家の中なのに」

「……その、後で少しでかけようかと思っておりまして」

「本当に?」

「……はい」

「本当の本当にっ?」

「…………」


 言葉を失ったシャロは顔を赤くして俯く。

 その反応があまりにも可愛らしいので、アリスは更に詰め寄った。


「ねぇ、シャロ。意識してるの?」

「……何のことでしょうか」

「もうっ、またそうやって恍ける! 二人きりの時くらい素直になってよぅ……」

「……お嬢様。そうは仰られますが、このシャロ、何度も言うようにあなた様の従者で御座いますれば。そうなれば如何なる感情や理由があろうとて、それ相応の態度で――」

「襲った癖にっ」

「っ……人聞きの悪い言葉です、それは。あれはお嬢様がそうせよと申したのです」

「あ、それ責任転嫁って言うんだよ!」

「誘い受けたのはお嬢様で御座います」

「ま、まぁ、確かにそうだけどぉ……」


 昨日の光景を思い出してか、二人の顔は同時に赤くなる。

 顔を背けた互いだったが、少しばかりの静寂が流れるとシャロが言葉を紡いだ。


「……あなた様はわたくしをどうしたいのですか」

「決まってるでしょ。分かってるでしょ」

「……それは叶わないことです」

「でも相思相愛だよ」

「……気持ちだけで、どうにでもなる訳では――」

「なるんだよねぇ、これが!」

「……はい?」


 何故か誇らしげに胸を張るアリス。

 そう言えば昨日も何やら妙なことを言っていた気がする、とシャロは振り返るが、果たして予想はつかなかった。


「今まで……今までずっとわたしの為に我慢してたんだよね、シャロ」

「…………」

「なら、今度はわたしがそれに報いる番なんだ! だから改めて言うよ、シャロ。わたしはシャロが好き。大好き。そんなシャロを手に入れる為なら……なんだってする!」

「……お嬢様?」


 愛の告白――何度聞いても慣れず、シャロの顔は茹でた蛸のようだった。

 しかしどうにもアリスの考えていることが分からないシャロは、もしや何か悪巧みでもしているのではと勘繰る。


「応えることはできないって言うけどね、シャロ? 答えを貰ったわたしは絶対にあきらめないよ。シャロを幸せにするし、絶対に手放さないもんねっ」

「……そんなに言わないでくださいませ、お嬢様っ……」

「え? あ……ふふっ。耳まで真っ赤だよ、シャロ?」

「……やはりあなた様は酷いお方です」

「そうかな?」

「そうです……」


 シャロの胸中にあるのは憎しみや怒りではない。

 それとは対極の感情――幸福だった。


 夢に見ていた。

 ずっとそうありたいと願い、思っていた。隠し、秘密にしていたその愛情をアリスへと伝え、いつか互いに気持ちを共有できたなら――そんなことを夢に見た。


 しかし夢は夢では終わらない。

 いつの日かシャロは自身の口から夢は見るものであり叶えるものではないと言った。

 皮肉か否かはさておき、今の彼女は確かに夢を見て、更には叶えていた。


「……絶頂、か」

「え? なに?」

「いえ、なんでも御座いません」


 呟きの意味こそはつまり彼女の幸福の度数を物語る。


「ねぇ、シャロ。ちょっとこっちにきて」

「……お嬢様」

「お願いっ」

「……っ」


 断りたい――でも断りたくない、とシャロの心の中で葛藤が生まれる。


 理性と知性が本能に歯止めをかける。

 きっと己の主は愛を求めていると悟るが故に。


 だがそれに従いたいのが彼女の本心であり、彼女もそれに飢えていた。

 愛情――愛する者に触れたいと思う。


 結局、シャロは俯いてしまうが、その足はアリスの下へと向かう。

 近くにまで迫ったシャロの手を取ったのはアリスで、接触した二人は同時に互いの顔を見て、優しく唇を重ねた。


「……ダメだった……?」

「……聞かないでください……」

「あ、もうっ。そっぽ向かないでってばっ」

「……いやです」

「ふふっ……シャロって意外と子供っぽいところあるよね」

「そんなことはありません」

「あるよ。昨日も――ううん……前からそうだった」

「……前?」

「うん。昔から……ね?」

「そう、でしたか……?」


 仮面を装着する前――その当時、シャロはアリスとよく笑いあった気がする。

 だが己がどう言ったように接していたのか、それは遠い記憶に思えた。


 自身の過去に困惑するシャロだが、しかしアリスはそんなシャロを見ると、やはり変わらないままだと一人で安心をする。


「だから好きになったんだろうなぁ」

「え……?」

「だってね、シャロっていつもそうでしょ。いつもわたしのことを真っ直ぐに見て、大事に思ってくれて……優しかったり厳しかったり、わたしを愛してくれるでしょ?」

「っ――」


 そう言われるとシャロは再度顔を赤熱に染め上げた。

 果たしてそれは愛情故の態度だったか、と問われたらば、彼女は頷く他になかった。


「そりゃ好きになるよ、惚れるよ。そもそもわたしだって一目惚れみたいなものだったんだもん。そんなわたしを大事に大切に可愛がって……罪なのはどっちかなぁ、シャロ?」

「うっ……いやしかし、それはだって、わたくしはレディースメイドな訳で――」

「それで、そういうところ。その可愛いところ……やっぱりずるいのはシャロだよ」


 そう言いつつも、アリスはシャロの隙をついて彼女の唇に優しく花弁を宛がった。


 一瞬の接触。

 だが伝う熱と感触は確かなもので、シャロは困ったように俯くが、実際はこれ以上恥ずかしい表情を見られまいとしたが為だった。


「好きだよ、シャロ」

「……っ」


 シャロを抱きしめるアリス。

 愛を向けられ、更には与えられ、一体子供はどっちなのだろうとシャロは思う。


 既に気持ちは知られている。

 今更取り繕ったところでどうなる――そこまでシャロは考えると、一つ、二つと呼吸を整え、そうして一つの決心をした。


「わたくしも……好き、です……」

「シャロ……!」


 それは初めて自発的に口にした愛の言葉だった。


 アリスはあまりの嬉しさに涙が込み上げてきた。

 そうして二人は改めて抱きしめ合い、互いの気持ちを今一度噛みしめ、その温かな幸福を胸の中に大切に仕舞うのだが――


「ですがお勉強は続けますよ」

「げっ」

「お気持ちは嬉しく思いますが……必要なことは済ませねばなりませんので。さあお嬢様、筆を」

「もうっ、本っっっ当にシャロってずるいよね!」


 シャロは空気に流される訳にはいかぬと己に鞭を打ち、なんとか色呆けた頭を冷静にする。

 アリスと言えば大きく溜息を吐くと机に突っ伏し、誠、このメイドは容赦の一つもない、と呟く――


「ご褒美を、さしあげますので……どうかお嬢様……」

「――やるっ!」


――わけもなく。

 さて、勉強を終えたらどのような願いを口にしてみようかと、アリスは褒美ばかりを待ち遠しにした。

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